第28話・中坊能舞台

 奈良は中坊なかのぼうでの能舞台を控え、大和衆の多くが仕度に追われている。

 奈良を支配する「中坊」を差配する奉行の井上源五はともかく、当主自ら舞ってみせる小堀家や武張ぶばったことに興味の無い横浜家のような秀保直下「内衆」と呼ばれる吏僚共は楽しげに過ごしているが、藤堂家に見られるような武辺者さむらいの類は仕事に気が乗らぬ連中が多い。

 気が乗らぬのは郡山の商人職人たちも同じで、せっかく亡き宰相ひでなが殿の招きで郡山にやってきたのに、亡き宰相殿によって奈良町の集権構造が否定されて久しいのに、何故奈良町での行事に出資をせねばならぬのかと文句を言う。

 都度高虎が出て彼らを説き伏せるが、段々と飽きが来る。

 この日も紀州から矢倉大右衛門尉秀親が家中の総意とて郡山の高虎を訪ねた。


「良いかね。我々は宰相様の没後に、斯くの如く思い知ったはずだ。この国は奈良町つまり興福寺や東大寺の連中が支えていたということを。宰相殿は神仏を恐れぬ性分にて、その祟りは無かったが、我等大和衆一党が祟りと報いを蒙ったことは覚えがあろう。此度の能は祟りを鎮め、我等が主が奈良町の民を慈しむことを示すことにある」

「だからちうて殿よ、わしら武辺者さむらいが黄門様のお遊びに付き合うのは如何と思うし、郡山も紀州の町人も付き合いきれんと思うところはあるんでさ」


 大右衛門の言葉は家中の本音であろう。

「そうは言うてもだね、今や能は豊家ほうけにとって不可欠な舞である。お遊びなんぞでは無く、これは黄門様のまつりごと、いや戦事いくさごととて心得ねばならぬ。今、奈良町で能を催し、これを大いに成功させることが出来ればだ。大和殿は気難しい奈良町人の心を掴み取り、いよいよ宰相の器と評されるだろう」

 苦し紛れに高虎は答えるが、正直なところこうして言葉で大右衛門が納得するとは思えない。


「まあ殿の言うこともわかりますわい。実際我等が渡海中、留守居の衆が赦した大詣おおもうでは、奈良町の活況に役立った。その例を活かしたいとのことも、黄門様の名を汚すことも出来ぬことも、ようわかる。然れども殿の手や目を見るに、他にも何か、心中にありますかな? 例えば、千人切の一件とか」


 話のわかるおとなが居るのは大名にとって幸せなことだ。特に高虎は気が利く家臣が多く集まる。一人ぐらいは、そうではない家臣が居ても良いのだが、集めたところで自分の欠点である癇癪と短気が露呈するだけだろう。


「確かに千人切への警戒であれば、我等が紀の国の衆が出張るのは納得は出来まする。で、褒賞は?」

「正味、出せるものは無いぞ。黄門様に貢献した誉れだけだ」

「阿呆くさい。誉れで米が炊けようか」

「そうは言わんでくれ、どうにかするから堪えてくれんか」

「まあ殿に手立てが御有りならば、そういうて家中に説き伏せましょう。ただし我等への、何らかの褒賞を忘れるべからずや」

「すまんな大右衛門。どうかよしなに伝えておいてくれ」


 こういった高虎から家中への指示は父虎高や新七郎を通すべきであるが、この日偶然にして郡山に居なかったこと、そして一族の二人であれば家中の有象無象は従わざるを得ず、文句や鬱憤を溜めてしまうことにも繋がりかねない。

 だからこそ武官も文官も、綺麗な仕事も汚い仕事も、そつなく熟す男が間に立てば話も通る。或る人は彼を「佐渡守殿の闇影」と呼ぶ。高虎はそのような腹心に対し、ある役目を託した。


「というわけで、近々奈良町へ上って貰う。文句があるのなら、この矢倉大右衛門に申せ」

 粉河へ急ぎ戻った大右衛門は、家中を集めると手早く告知を行った。古参の島崎与兵衛や村井宗兵衛、矢守市内たちは「ああまた殿が無理なことを言うておるわ」と笑っているし、一族や代々家士からしてみれば多賀一族の無理難題に付き合ってきたこともあり、動じる者はそうそう居ない。

 しかし同じ近江出身という事で流れ着いてきた者や、紀国人きのくにびとは、未だに慣れない。

 特に粉河から西に、貴志川と紀ノ川の合流地点にほど近い「調月つかつき」の仁である調月八助は不満げで、我等にも国を離れろと申されるか、と愚痴を吐く。

「気持ちはわかる! ようわかるぞ調月! 何か我等臣下に不利益があらば、いっぺんあの男を殴ってやろうぞ!」


「与介。結局倅が求めているのは、単純に円滑な挙行では無かろう。確かに家中に麦や米を出させるのは心苦しいがね、それ以上にこの国の衆に求めているものがあるのだろう」

「それなんじゃ。千人切の下手人共が、この国に潜む。それも大和衆の内側に居るのではないかと見立ててな」

 一説に大右衛門と高虎の父虎高は、旧知の仲であったという。しかし小谷城にほど近い草野谷で生まれ育った大右衛門と、中郡にしか縁の無い虎高では、知り合える期間が実際に会ったのか定かではない。それでも初めて会ったときに、何か通じ合うものがあったのだろう。


「千人切は奈良町人ならまちびとだけを狙う。力を失っている奈良町を更に痛めつけるのは、元の奈良町つまりは寺に一言二言ある輩によるもの、と我等は心得て居る」

「しかし奈良町に思うところのある者など、どれだけいるかね。例えば郡山に不埒な町衆があったとて、それは宰相殿や黄門様の威信を穢すもの。そう易々と蛮行には及ばんだろう。それは儂等も同じこと。寝た子は起こさぬに限る。今に幼子を育てておると、改めてよう感じるわい」

「もうここまで来れば御老公も存じておりましょう。殿が下手人を如何に捉えているか」

「ああ。大和衆の論理を共有せぬ者共が下手人とて倅は見ておるのだろう。だが、果たして何処の家に、左様な不埒者が現れようか。今に太閤殿下の御威光は朝鮮唐にまで達せんとしておる最中、落書の一つで一つの町が死に絶える時に。誰ぞ大和に軽挙妄動を起こそうか」

「そこなんだよ御老公。何事も太閤殿下が判断を下す。これが今の豊臣家の問題だ。そして我等は存じている筈なんだよ。誰が今の体制に最も不満を抱いておるか。和州殿不甲斐なきことに、誰が一番得をするのか」


 白湯を飲む虎高の手が止まる。僅かながら手に汗が見える。


「与介、いや矢倉大右衛門。今のことは聞かなかったことには出来ぬものか」

「俺だって吐いた言葉を飲み込みたくは無いんだよ。察しておくれよ。こっちだって胸が苦しいんだ」

 矢倉大右衛門は天井を見つめた。

「俺も殿もな、良ぅ知っとるから苦しいんじゃ。御老公だって殿の親父だろ。それならあんたも地獄に落ちて貰いたい」


 独特の緊張感を抱くのは大和宿老衆のなかでも一握りで、概ねの兵卒たちは観衆が暴れ出さぬことや、観衆の中から千人切のような不埒者が出ないよう厳しく見張っていた。厳しくと言っても唐入りで疲れ果てた彼らも祭りは祭りである。久々に羽を伸ばす良い機会であり、盗みと女子供への手出しをせぬ限りは愉しみ給えと秀保からの触れもあった。

 ただし見知らぬ顔が居れば組頭が宿老中に都度報告せねばならぬし、上から言われて遊ぶことに違和感を持つ者も居たので、概ね侍足軽たちは務めに励んでいる。


「皆の衆! 先般迷惑をかけ相済まなかった! 此度は暫しの心安まる場となれば幸いである!」


 秀保の声が中坊から響いた頃、杉若無心が両手に饅頭を抱えながら高虎の屯所を訪れた。


「今のところ足軽たちが見知らぬ顔は、凡そ諸国の商人や旅芸人の類ばかりだ。なあ佐州、これで本当に良いのかね。千人切は見つからぬと思うが」

「とかく今は起こさせないことが肝要です。蛮行を起こさせないための足軽衆の監視です。それに」

「それに? 何だね」

「何も起きぬことは、我等大和衆の奈良町の関係改善を内外に示すこと、そして中納言は良く和州を治めていることを殿下に知らしめることが出来るのです。言ってしまえば我等の戦いにて、兵卒から兵糧までを出すことには何ら咎めを受けることなき物と心得ております。無論、御子息を唐入りに取られておる杉若殿や紀の国の衆には、多少の負担は掛けておりますが、そこも含めて責任は佐渡めが負いまする」


『多聞院日記』によれば、この六月八日に催された秀保の能は、奈良の寺僧三十人も訪れ、奈良中の男女が見物に込み入ったという。こうした寺僧や見物衆に瓜や饅頭、豆飯が振る舞われた。

 そして日記には、舞った「金春年松」の沙汰は「言語道断、見事〃〃、希代ノ事也」と記されている。

 人々は日々を忘れ、大和衆への鬱憤もかなぐり捨て、催された芸能に酔いしれた。

 小堀新助が日頃鍛えた能を舞ったときには、つぶての一つや二つ飛んでくるのではないかと肝を冷やしたが、殊の外喝采であったのは何よりであった。

 やはり芸能は良い。高虎も幼い頃に敏満寺の猿楽座を見たことがあるが、芸能には日常というものを忘れさせてくれる魅力がある。当面は奈良町との付き合いには、芸能を用いるのが良策であるかも知れない。

 高虎にも確実な手応えがあったが、一番手応えを感じていたのは中納言豊臣秀保その人だろう。


「佐渡! これは凄いぞ! 我ながら、善きことを行ったと思う。またやろう!」

「何が一番良う御座いましたか」

「何より民の顔を見ることが出来たのが良かったな。亡き宰相様ちちうえも奈良で能を催したことがあったが、あれは内々の事であった。でも今日は、このように初めて武家と奈良町人が能を通じて邂逅と相なった。もっと町人の顔が見たい! 民の顔が見たい! どうかな佐渡、若輩者の我が儘と言われてしまうかな。唐入りの紀の国の若者衆には、遊びほうけると思われて恨まれそうだ」


 十六歳の無邪気な笑顔は高虎にとって癒やされるものである。

 もしも神仏による宿命があるのならば、この笑顔を守るために我が身はあるのかも知れない。

 そう思った瞬間、高虎を鳥肌が包んだ。

 思い返せば、かつて兄源七郎高則にも、六角義治にも、浅井長政にも、織田信重にも同じような「想い」を抱いていた。

 ――まさか、いや。そんなことはない。ただの偶然だろう。

 彼は必死に自らを落ち着かせようとした。だが一度自らにかけてしまった呪いは、重く重く高虎の心を蝕んでゆく。

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