第25話・文禄三年の政変(四)

 四月十九日、若君ひでよりの伏見への御移徙おわたましが延期すると発表された。

 在京の林、大坂取次の多賀秀種らの報せに依れば、かたや方角の儀を様々検討した結果、かたや太閤殿下と京極氏の患いが原因であるとする。

 ともあれ高虎としてみれば、聚楽第はやりおったな、という気持ちと、これで紀の国の青年たちの想いに答えることが出来る隙間が生じたことに安堵の顔を浮かべる。


「大坂へ登城するとは、面白いことを言いますね。こっちは能の稽古もあると云うのに」

しかしながら、これは好機に御座います」

「……確かにね、御若君様に頭を下げる必要はある。それに件の小吉兄こきちあにへ預けておいた銀貨の一件もある。大坂へ赴く理由はある。だけれどね」

「御覚悟をば、要すものと心得ております」


 ふうん、と秀保は左肩を撫でる。やはり高虎の人生経験、年の功、そして具足親としての観察眼が主の先を行かせるものか。やや癪ではありながら、仕方の無いところがある。それでもだ。


「そうそう覚悟。何たって実の兄を出し抜くことになるんだ。和州わたしに後ろ暗いところがあると思われては水の泡だろう?」

「くれぐれも、そうした疑念を抱かせることなく、どうか我等愚臣の行いに依るものと思わせようかと」

「然しだね、余は十六になるのだぞ。何時までも其方等の木偶というのも言ってしまえば癪だ。難しいことであるが、そこはどうにかならんかね」

「……それ以上は、御覚悟が肝要と申し上げるほか御座いませぬ」


 豊臣秀保は天正七年(一五七九)に生まれた。まだ生まれた当時の姓は知らない。物心ついたとき、おとら、おとらと言われた頃には三好姓を名乗っていた。

 兄はおじ秀吉の木偶だった。次兄小吉は亡き後継者秀勝の跡継ぎを強要される。そうした年の離れた二人の兄を目の当たりにしていた於虎は、何れ自分の運命も「おじの木偶」となるのであろうと幼いながらも薄ら感じていた。木偶として、誰ぞの跡目を継がされる。父の本当の名字は知らない。母の実家である木下家は、おばの兄が継いでいる。ならば三好家でも継ぐことになるのだろうか。

 その運命を変えたのはもう一人のおじ秀長であった。このおじには仙丸という養子が居たが、実父丹羽長秀の死と同家の没落により価値が無くなり、秀長の跡目は再考されることとなった。

 そこで白羽の矢が立ったのが、暇をしていた於虎であった。

 於虎が大和へ入ることは豊臣権力の継承だけではない。この当時豊臣家の中には切支丹の教えが浸透しており、秀吉に近い身分の若者は理解を示す者から信仰にまで至る者もあった。秀吉自身、亡き信長同様に貿易相手としての利用価値を見ていたが、九州で目の当たりにした様に危機感を覚えた。

 そして考え込んだのは、この国に長らくあった宗教についてである。若者というのは何時の時代も新しいような者に飛びつき受容し、文化として定着していく。然れども何事も塩梅が必要である。も一度、仏心厚い者を育てる必要があるのでは無いか。

 この国で最も仏教に厚い地を治むる大名は誰ぞ。我が弟大納言の大和紀州では無いか。


 複数の思惑が重なり於虎は大納言秀長卿に養われ、いとけな三八みやと夫婦になった彼は「秀保」を名乗る。


「思えば断ることの出来た縁談であった。それでも何か、自分もおじたちの役に立たねばならぬと、元服前のが良う思うたものだよ」


 眠れぬ夜に目が醒める。傍らには九つになる妻が寝息を立てる。彼女は従妹に当たるが。夫婦めおとと云うよりかは兄と妹のような間柄である。何れは可愛い妻を抱き、子を孕ませねばならぬ。そう想うと幾分か気の重いところもある。如何でかの子に生まれた以上は仕方の無いことであるが、兄と妹のような間柄で男女の夜伽、情を交わさねばならぬ。それにしても、ようよう稚き身体から少しずつ蕾を膨らませつつある妹のような妻に、自らを奮い立たさねばならぬ。

 その日が何時になるかはわからぬもので、様々叩き込まれた話では、稚き分から子を産める女になる時期というのは人によりけりという。下世話な話、槍の又座と名高い加賀中納言としいえは夜伽も槍の又座であり、十二か十三になる正室に子を産ませている。そうなれば真の夫婦となるまでは四年は掛かるということか。

 兄二人、秀次には幾人もの子が居るらしく、亡き秀勝には一女がありて、いま抱えし係争の種にもなっている。


 夫婦の話になると高虎夫妻を思い浮かべる。秀保が言葉を話し始めた頃に結ばれた高虎夫妻は二人の養女を横浜や桑山に嫁がせていた。それなのに妻との子は無い点は不思議で、夫婦の形というのは子を成すだけでは無いことを思い知る。

 先に出した前田利家は、今もなお正室から側室までを愛する達人であると若者たちは畏敬の念を抱いている。

 一方で子が居ない夫婦、子に恵まれない夫婦は何人も見てきている。身の廻りでは桑山一晴夫妻は子が居ないし、太閤殿下も亡き秀長も、子に恵まれるのが遅かった。藤堂高虎は特殊で、正室との間には実子は無いが養子は数多居る。一晴や横浜一庵の妻なども高虎の養女であった。聞けば高虎も紀州で侍女に手を出しているとは聞くが、情だの愛だのとは遠いところにありそうな声も大なる男でも、流石に男としてのそれを持ち合わせていたのだなと感心してしまう。


 つと何気なく妻の髪を撫でる。流石は大大名の娘として育て上げられているだけあり、手入れの行き届いた髪をしている。いや妻と同じぐらいの年頃の女子の髪と云うものを秀保は知らないのであるが、輿や馬上から見る町娘よりは宜しかろう。

 一瞬香りを嗅いでみようかと思ったものであるが、それは良くないと己の心が言うので止めた。


「何か……御座いましたか?」


 とりとめの無い思考もやめて、眠りにつこうとすると、妻の目が醒めてしもうたらしい。

「いや、少し思うところがあってね。物想いをね」

「関白殿下の事ですか」

「……やはり奥でも噂になっておるかい」


 仕方の無いことである。


「政のことは今少しわかりかねますが、三八が今口に出せるのは父上様の御言葉だけです」

は何だい」

「先にやってみてから物を申せ。父上様は斯様な言葉を口癖にしておりました」


 懐かしい言葉だ。病で痩せこけ、己の力で立つことが出来なくなった頃も、秀保や家臣たちに言い聞かせるように放つ言葉である。

 恐らくは織田家の気風から出た言葉だと思っているが、それにしても良い言葉である。


「ええ言葉じゃ」

「お気に召しましたか」

「うむ」


 一世一代の決断。その背中を押すには丁度良い言葉である。

 背中を押してくれるい存在、これこそが愛妻というものであるか。家中の士衆も、斯様に妻たちの後押しを得ておるのであろうと思う。

 二カ国を治める大将として、今ここに自覚が芽生える。我が豊臣秀保は、この身体一人のものに非ずして、上中下総てを背負う主であるのだ。


「有り難う。ようやく覚悟が決まったよ」


 そのように話すと、それまで笑みが見えた三八が突然秀保の懐に抱きついてきた。


「こうやると心が安らぐのです。昔、伯父上様や父上様に、こうやって良く甘えておりました。そうやると父上様は私めの背中を撫でてくれる。そうして心が安らぐのです」


 思いがけない妻の行動に驚く。けれども、こうしたところは幼さがあり、それも可愛いなと思うものであるが、彼女が話す言葉に秀保の身体は強ばった。


「先度夢占いの結果を聞き及びました」


 この一月ばかり秀保の眠りは良くはなく、三月に高虎を相手に弱気を打ち明けたときには既に週に一度は悪夢に悩まされていた。奈良の僧侶衆には夢占いを得意とするものも居る。

 妻が申すには、そうした夢は身の不調を示すもので急ぎ休むべしと言われたらしい。


「心配で心配で、しようがありません。きっとお休みにならないだろうから、休むことが不可能な御身を想えば想うほど、我が身も痛く……」


 健気な幼妻に要らぬ心配をかけていたことに、ようやっと気がづく。思わず秀保は三八を抱きかえす。


「案ずるな。斯様に、其方を抱くぐらいの精気はある。案ずるな、どうか案ずるな」


 幼妻の温もりを肌で感じつつ、秀保は眠りにつく。

 ――もしも夢占いが当たるのならば、この秀保という命は長くは持つまい。死ぬることは、怖いと言うよりも嫌だ。この幼き妻が熟するまでは生きていたい。生きて、我が子というものを抱いてみたい。夢占い。占うのは奈良の僧侶だ。勿論彼らの恨みから来る願望も入っているだろうが、斯様な結果が出たということは、神仏が秀保の長命を必要としていないことを表すものでもあるのだろうか。神仏というのは秀保と三八の子を許さぬものなのか。

 どうせ死ぬるのなら、身の回りの懸案は片付けておくべきではないか。

 そう考えると或る老臣の言葉を思い出す。


「わしは太閤殿下の創業から付き従い、有り難くも大納言様の側に仕え、よう働いた。今でこそ斯様に憐れな様であるが、ここまでええ思いをしたんじゃ。何を悔いる必要がある」


 桜井左吉家一いえかず

 秀吉の創業から歩みをはじめ、秀長のもと小堀新助や上坂八郎兵衛と共に但馬支配を担い、賤ヶ岳での槍働きで名高い男は、秀長の発病と時を同じくして長年無理を重ねた結果、病を得た。

 それでも彼は人の心配を余所に、いつも笑っていたのだった。

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