第14話・伏見普請騒動
太閤殿下の含む笑みから、秀保と高虎の主従に、その後の数日の記憶は薄かった。
関白秀次の側近駒井重勝の日記を紐解くと、二月三日の晩に秀次や丹波中納言秀俊、吉田侍従池田照政、有馬則頼らとの茶会に参加。
九日には、駒井が秀保を訪ねているが、どうやら普請についての連絡も受けたようだ。
このようにして年頭祝礼は、月を跨ぎ二週間近く行われた。
それでも物事が過ぎる速度は早い。
祝礼が終わると、大和衆の一団は太閤そして関白の両殿下と共に上京した。
それは伏見普請の進捗を、太閤殿下自ら検分し、京の権門衆に回復した姿を見せつけるためである。
更には花見に向け、大和衆との調整が行う為との優しさもあったらしい。
このとき高虎、横浜、羽田をはじめとする「大和宿老」は、そのような調整に奔走していた。
その為に、太閤が言わずとも伏見の普請に駆り出されるのは、藤堂宮内少輔一高や桑山といった秀保を支える青年武将達であった。
『名張市史料集』に収まる「高吉公一代之記」には興味深い逸話が載る。
伏見松の丸普請の際、石垣を運ぶを人夫を監督する宮内少輔は、自らも手を下し働いたが、その様子を太閤殿下が御覧になり、その姿を称賛。
召していた羽織を、宮内少輔に贈ったのである。
その際、傍らにいた「木村長門守」が、自らの手巾を帯の代わりに結んだという。
この「木村長門守」は、後年武名と美男で名を残す木村重成の事と思われるが、彼は此の時代に生まれたばかりであると考えられるから「木村長門守」とする逸話は疑わしい。
しかし、此の時代に木村姓の若武者が一人存在したことは確かである。
では話を伏見普請の現場に戻そう。
「若様」
「何でしょう」
一仕事を終えた一高に、五つ年上の桑山小藤太一晴が話しかける。
唐入りで疵を受けた小藤太も、祖父重晴が方々から取り寄せた薬の功もあって、この頃には無事に元気な姿を取り戻していた。
「先に大石を動かしておいででありましたが、その砌に太閤殿下が見廻りに訪れておりました」
「ああ、存じています。人足たちも殿下の御姿が見えるや、それまで以上の力を出した。ったく最初からそれぐらい出して欲しいものですがね」
「それで、太閤殿下が宮内少輔を呼べと」
「如何なる用向きに御座いましょう」
「知るか、そんなもん。大方、雑談の類であろうよ」
そのようにすると、小藤太は一高を太閤殿下のもとへ連れ立った。
この時、一高の小姓は、他の現場に監督に出ていた。近侍である青山嘉兵衛、鎌田小太郎、堀江長兵衛らもそうで、僅かに小沢伝蔵が一高の後を引き継ぎ、松の丸石垣運搬の監督に従事する。
そこへ偶然、自分の持ち場が暇になった仁右衛門が通りかかる。
「あれ宮内様、大木三五郎は居らぬのですか」
大木三五郎は高虎の近侍大木長右衛門の倅の少年で、最近兄の平三郎と共に出仕をはじめた。
高虎や一高の小姓たちから見れば、大木兄弟は弟分にあたり、とても可愛がられていた。
「いや、今日は殿のもとで手習いの日だから、大木兄弟は居らぬよ。それより、これから太閤殿下の御許へ参るが、其方も共にどうか」
そうして勇猛果敢な高虎の甥御を加えた三名は、太閤秀吉との対面の場に着いた。
「宮内! よう来た、よう来た! そこに控えるは佐州の甥か! よう聞いて居るで、皆近う寄れ!」
若い侍に囲まれた太閤は上機嫌で、三名を呼び寄せた。
仁右衛門は、即座に己の場違いを悟る。名前こそ知らねども、太閤に侍る若武者たちは何れも身なりが良く、一目で大名や高名な侍の子息であると、判断が出来る。
どうしても己の出自や育ちに思うところがある仁右衛門にとって、この場は居辛いところがある。
どうしようもない後悔か――
「おう宮内、彼奴を存じて居るか?」
仁右衛門の胸中など誰も知らず、太閤は好みの侍の一人一人を三人に紹介し始めた。
「殿下、申し訳御座いませぬ。我ら昨秋まで唐入りの船上人にて、
「ああ、そうじゃそうじゃ。それは済まぬことを言うた。彼奴はな、関白の内衆木村常陸の倅や。常陸も若い頃は、わしによう仕えてくれたで、その倅も取り立ててやっとるんじゃ」
「
「そうじゃそうじゃ。宮内はようやっとるで、わしの羽織をやるでよ」
「有り難き幸せ……!」
このとき一高は羽織を止める帯を持ってなかった。無論、桑山も仁右衛門も普請場の姿で、立派な羽織に纏わる帯など持ってはいなかった。
優秀な小姓の一人でもいれば、場の解決を計れるのだろうが、三人は困り果てる。
仕方ないので、ばさばさとなったまま、引き下がろうとした砌。
「宮内少輔様、お待ちください」
木村の倅が、一高を呼び止めた。
「それでは羽織が着られておりませぬ。某に暫し時をお貸しください」
そのように言うと、彼は懐より手巾を取り出し、一高の腹部を前にしゃがみ、それを彼の腰に巻いた。
時に高虎の甥仁右衛門は人の機微に聡い。幼い頃から様々な人間に触れてきた経験が、人の善意や悪意の感状に聡くした。
すなわち、仁右衛門は木村少年に悪意を見た。
今彼は一高の腰に手巾を帯代わりに巻いている、これは両手が塞がっているから「何か」を起こすに至らぬ。これは杞憂か――。
木村の倅の口が開く。
今日の災厄は、全てを兼ね備えた勇武の仁右衛門が、脇に控えていたことだ。
彼は将の器として耳の良さを兼ね備える。一方、彼は些か短気独断を持つ欠点がある。それは今より露見したことである。
「無礼者!」
一高の目の前に、仁右衛門の肩が飛び込む。
次の瞬間、木村の倅が突き飛ばされた。そしてその身体を馬乗り抑えつけると、顔面に向け拳を殴りつけようとした。
「止めぬか仁右衛門!」
年長の小藤太一晴は、仁右衛門を羽交い締めにし引き離す。
遠巻きに眺めていた人足たちは、起きた事の重大さを理解するだけの能力を有する。
「これは、聚楽第と和州殿の兄弟喧嘩に」
「如何にも。かねて聚楽第は、和州殿に思うところありて、このように沙汰が起こるように雑説を流しておったとも聞く」
「京童を利用し、和州殿に圧をかけておったようだ」
「然れど聚楽第の内衆が騒ぎを起こすは、これで何度目か。流石に野蛮が過ぎると思うぞ」
明くる日。
「それで一体何があったのか問うても、貝殻を開けようともせぬ。ったく、誰に似たのやら」
聴取のために急ぎ上京した父虎高、そして新七郎は、頭を抱える。
忙しい最中に呼び出されたことは、よりによって一族も一族、孫の不始末であるから頭が痛い。
それでも、太閤殿下の若武者好きから寛容な裁きを受け、死罪を免れたことは幸運であっただろうか。すぐに一晴が抑えつけ、土下座をさせ、一高も即座に平伏したのが良かったのだろうか。
「改めて言うまでも無いし、そもそもの下手人である彼奴がここに居らぬ故、言うても仕方が無いことだが。何よりも側に控える者というのは、ぐっと耐える肝を持たねばならぬ。それは勿論、彼奴に教え込んでこなかった我ら一門衆の責ではあるが――。いや甲良武士としては、良き働きをしたと思う」
「これっ新七郎!」
「親父様、舐められたら、それで終わりなのです。面目を果たす上では、仁右衛門は良い働きをしてくれました」
「ったく、今は荒武者の時代では無いのだぞ。理を以て抗うべしと、宮内に仕えし其方等にも、改めて申し渡す。それでもなお、手を出したいのなら、新七郎や矢倉といった
「くれぐれもだ、我らが主藤堂佐渡守に直談判は致すな。あの御方は、やるときは事を構える御方だからな。危険極まりない」
このように藤堂屋敷は楽着に暢気な雰囲気が漂う中、和州屋敷は緊迫感に包まれていた。
宮内少輔一高の証言に、一同が固まっている。
「……もう一度申されよ宮内少輔殿」
「何度も言わねばならぬ事ですか、所司代様」
「もう一度言うてくれよ宮内。その方が、佐州も長州も横浜も、早く持ち場に戻ることが出来るのだ」
そう諭す秀保に、一高は溜め息をついた。主の頼みを断るわけには参らぬ。
「あの者は耳元で、斯様に囁いたのです。聚楽第では貴方様を高くかっている、是非に我らと主に同じ道を往かぬか、と。それを仁右衛門は聞き当て、無礼であると木村を襲った。それだけの事に御座います」
「それで宮内、其方は何を思う」
「陪臣として、和州様を盛り立てるに相応しき御仁が、我が藤堂家に居る事を改めて認識した次第。それ以外に思うことはありませぬ」
一高は、それ以上何も言わなかった。
桑山一晴は、見たことをありのまま話す。木村の倅と三名に遺恨はおろか面識もない。それまでの作事で、和州家の担当する区画に不首尾も無く、ここ数日の人足に問うても特段仁右衛門の態度に問題は無かったらしい。
「申し訳ありませぬ。私めが、事を気にしすぎた次第。家臣に余計な心配を掛けて、追い込んでしまったのは全て、藤堂佐渡守の罪に御座います」
「いや、気にすることは無いさ佐州。向こうの心の内がよう判ったでは無いか。我々を嘲笑っておる、我らの主を見下しておる。それだけの事さ」
あっけらかんと羽田長門は言ってしまう。しかし横浜と秀保は違った。
「佐州殿も長州殿も、今は大事の時に御座います。事を荒立てるのはご遠慮戴きたく」
「左様。今は姉御様の婚儀が先決。おば上様たちが乗り気であるから、ここで下手に兄弟不和を起こせば、申し訳が立たん。どうか、抑えてはくれぬか」
二月二十一日。
秀保、高虎、横浜、羽田は聚楽第を訪ねた。表向きは、関白殿下の奈良に於いての御座所を井上源五の
もちろん、その真は伏見での騒動を主従揃って詫びる為であった。
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