第9話・師走
明けて十二月八日、かねて奏上していた仙丸の
朝廷の使者は、その日のうちに和州家の館を訪れ、秀保と藤堂父子に
「
長らく仙丸と呼ばれてきた彼は、十五才の今日より藤堂宮内少輔と呼ばれることになる。
秀保の
それでも今回の諸大夫成は秀保にとって格別である。一高と秀保は七年近く同い年の兄弟、親友、臣下の付き合いがある。だから嬉しくもあり、どこか面白いところがある。
何かにつけて、
一高は適当にあしらいながら、主との交流を楽しむ。そのような光景を高虎は微笑ましく見守る。
いまここに厳格な
高虎が青年二人に甘いことは、館の外に理由がある。
先だっての会談にて関白秀次は、尾州の不首尾と太閤尾州視察に対する不安を漏らしてた。
師走に入ると徐々に尾州から詳細な便りが届きはじめた。共に上洛していた
太閤殿下は、いち早く木曽川の堤を直すと共に荒地の開墾による新田開発の案を纏めて見せた。荒れる以前よりも、尾州を発展せしめんとの策である。
大和衆の誰も、その発想力と、行動力の高さは老けてもなお天下一品であると、感嘆した。
聚楽第の内衆は優秀であるから、こうなれば尾州も八幡や
しかし聚楽第は心苦しいことだろう。関白の危惧した通り、遂に太閤秀吉によって、尾州の権限を剥奪されたに等しい仕置きと相成った。
心苦しいのは大和衆も同じ事だ。
去る月に秀保は、
高虎も羽田も、大いに残念がった。そうした二人に対し主は明るく振る舞うが、誰よりも楽しみにしていた彼の落胆は計り知れないものがある。
ふと思う。
政権は無理を重ねすぎてはいないだろうか。また、どこに銭があるのか気に掛かる。
まず唐入り、その講和交渉は地理的距離と、
そして軍役は唐入りのみに止まらず、伏見城の普請と更に尾州の件が重なる。大和衆は秀長存命の頃より、東山方広寺の大仏造営のため五年に及び人足を動員している。
何も出来ない聚楽第も問題ではあるが、太閤殿下も太閤殿下で御無理を重ねすぎて居るようにも思われる。
天正の末以来、河内若江のように百姓が
実際和州は奈良町人の不満により破綻しかけたので、考えるだけでも悪寒が走る。
政権の破綻があっては、ならない。
然らば和州は
北山と奈良町の騒動は一段落しつつあるも、千人切は収まらず、
誰にも不平不満は、あるだろう。
能や茶に入れ込むことも、興味の無い民草から見ると大名は遊んでばかり等と思われよう。
銭や米を民草に返す策も、同じ手は通用しない。明くる年より本格的な
二重の権力との関係は
世間に聚楽第との
大和衆の多くは秀吉創業以来の臣で、秀次に思い入れのある者は少なく、むしろ舐めている者が多い。だから二つに一つを問われると、大坂方が理に叶う。
そうした家中であるから、何か聚楽第から不合理が届けば、彼らへの不平不満が溜まる懸念もあろうから、和州の
先に政権の破綻を思うたが、
それもそうだろう。
すると万に一つの破綻が起きた事も考えねばならぬ。
政権が破綻することで得をするのは、江戸の徳川と中国の毛利だろう。中でも自力に勝り、関白秀次の補佐として奥州方面と関わりの深い江戸徳川は恐ろしいものだ。何よりも息の一人は太閤の養子、更にその弟は秀吉の高い評価を得ている。
一方で毛利家には、そのような縁の関わりは見られない。ただ一つに天正の和睦を以ての関係である。
そして、破綻した時に和州は
徳川家とは自らが取次となった事で、今も親しく文を交わすなど家康とは昵懇の間柄。高虎の
だが鎗場は何が起きるか定かでは無い事を思えば、毛利が利を得る事もあろう。
するとどうだろう、和州と毛利は縁が足りない。秀長存命時は疋田氏が一時期取次を行い、一門の重鎮小早川隆景と秀長は昵懇で会った。それに加え秀保は小早川隆景に書状を送るなど、最低限は縁がある。
毛利家と更に
在京の日々、政務に追われながら、時間を見つけては足を組んでの物思いに耽る。
そのようにしていると、細かい尾州普請の命が続々と届く。
この中で高虎が驚いた命令が、京大坂堺の陰陽師を尾州へ送る、との条文である。
先月所司代に、焦らずとも良い、と言われたが、念のために一月掛けて国内の陰陽師を改めていて良かったと、胸をなで下ろす。
しかし陰陽師を普請に用いることは、流石太閤殿下の発想力だ。
表向きに堤や荒地に術を掛けることで、後世の災いを抑制させる策。裏は、そのような表向きの理由を使い、秀吉が忌み嫌う術士を畿内洛中から一掃する効率的な策なのだろう。
高虎も効率を好む。しかし寝た子を起こすように、紀伊国に手を入れることは、非常に心苦しい。だが主の面目を保つためには、自らが汚名を被る他あるまい。
そのようにして高虎は自らの配下に、陰陽師とその妻子を悉く京屋敷へ連行するよう命じた。
そうして年は暮れる。
二十日に関白が再び咳の煩いに苦しんでいる頃、畿内各地から連行された陰陽師や
政務も忙しない日々、お岩の姉御の嫁ぎ先探しにも奔走していた或る日の出来事だ。
この日訪ねた羽柴
実は森家と大和家はそれ以前にも親しかった。『豊臣期武家口宣案集(木下聡)』によれば、天正十五年(一五八七)二月八日の『中山親綱卿記』にて横浜一庵が「森忠政書出事」に関して親綱を訪ねたという。これは忠政が昇殿するにあたって、亡き秀長卿の差配があったと見るべきであろう。そうした縁を、一庵の岳父として君臨する高虎も存じており、なればこそ相応しい相手と選んだのである。
先方も宰相様の娘御、姉御となれば光栄の極みと感涙し、縁談は上手く行きそうな気配を見せていた。
そのようにして、高虎の帰路はいつもの三人と共に浮かれ上がっていた。
ある一瞬の道中、洛中の大通りにて、流れゆく陰陽師の一家とすれ違った。父も母も、その顔は死地に向かうが如く。一方何も知らない小倅は、生まれて初めてと見ゆる旅に興奮の表情を浮かべている。
斯様な一家は、何度も何度も目にしたことがある。何れも刑場に向かう哀れな一家であった。違うところは、彼らが刑死に服するところではなく、尾州の堤普請や荒地開墾に従事することである。
それでも、昨日までの、畿内術士としての暮らしは取り上げられ、木曽川の激しい流れに怯える明日が待ち構えることは、刑死と然程の変わりは無かろう。
一体彼らは誰を恨むのだろう。それは為政者である太閤や関白なのか、己が運命を恨むのか、わからないものだ。
この頃の洛中では風邪が流行っていた。
医学に通ずる公家の
「天下で疫病が流行し万民が皆病んでいる。これは唱門衆を都から追い払い、尾州へ流したためである」
二十八日には、帰坂した太閤秀吉もまた、無理が祟ったのか軽い病に倒れたとの報せが届いた。
二十九日、秀保主従は師走の礼として聚楽第に呼び出されると、顔蒼白に咳多き関白より村雲の脇差しを賜った。
名護屋在陣の褒としての、名刀である。
光栄な筈であるのに、正月の予定も決めずして、会談は短い時間で終結した。
屋敷へ戻ると、藤堂新七郎が報告の為に上洛していた。
国内に潜む牢人衆改の結果、彼らに千人切事件との関与は疑われず、との報告である。
あげく三好長慶の家臣として活躍し、晩年は粉河の有力者として生きた松山新介の子息からは、殺すなら藤堂佐州から殺したいわ、等と言われてしまったらしい。
もちろん、これは大和と紀伊で溢れる人々の声を代表するものなのだろう。高虎は、そうした恨みを一身に背負う覚悟で、実権を行使してきた。
しかし今般奈良や郡山の民を騒がせる千人切で襲われるのは、力ある武士や富ある商人たちではなく、日々慎ましく暮らす町人たちである。
彼らは何の恨みも、僻みを買うような者では無い。
この千人切事件の目的は明らかで、領内の治安を乱すことで大和豊臣家の威信を更に失墜させる事に尽きる、と高虎は考える。
誰が、一体何のために。
果たして藤堂佐渡守高虎は、和州を平穏へ導く事は出来るのだろうか。
師走の京の都は寒さが沁みる。
館の外では京童の、嘲笑う唄が聞こえる。
問題だらけのこの日々に、藤堂高虎は一人能面を見つめる。その幽玄さに、思わず溜息をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます