第38話「西郷先生」

 床に転がるダンボールの山、焼酎のビンは割れて、床は焼酎の海だった。

 

 近くにいた人が気づいて緊急停止ボタンを押してくれたので被害は機械の周りだけですんだ。

 期間社員のおばちゃん達は手際よく片づけている。さすがに30年もやってると慣れたもので、驚きもせずモップとバケツでこぼれた焼酎を拭いている。

 三島も割れたビンやダンボールを片付けていた。


(三島さん、ずいぶん嬉しそうな顔してるな。あんなに笑っている顔、初めて見たよ。しかし、なんでこんなことになったんだ?!順調だったじゃないか……)

 武田にはダンボールがラインから落ちた原因がわからなかった。

 しかし、三島は知っていた。こうなるだろうと予測していたが、思っていたより凄いことになったので、内心おかしくてしょうがなかった……


 被害は、1.8リットルの焼酎のビンが、1箱に6本入ったダンボールが20箱ほどが床に落下して15本のビンが割れた。


 ❃


 武田は工場長に、仕事の後に会議室に来るように言われた。


 初めて一人でオペレーターをして大失敗だ。始末書だろうか? クビとかもあるのかな?

 あんなに読みづらい機械の説明書を頑張って読んだのに……

 嫌だな〜何を言われるのだろう?

 怒鳴られるのか?

 弁償しろとか言われるのだろうか?


 いろいろと考えて不安になる武田だった。


  ❃


 仕事が終わり、会議室の前。

 コンコンとドアをノックする武田。

「どうぞ」

 中から声が聞こえる。

「失礼します」

 武田が会議室に入ると工場長と他に二名が座っていた。


「このたびは、まことに申し訳ありませんでした」

 直立して深々と頭を下げる武田。


「まあ、座って」

 工場長に言われ椅子に座る武田。

「酒がこぼれる事はよくあることだから、この程度は気にしなくていいよ」

 工場長は武田の失敗を特にせめたりはしなかった。


 事故の原因を聞かれたが、武田にはわからなかった。

 事故の報告書は書いたが、始末書はいらなかった。

 そのあと、工場長といろいろと話し、武田が三時間トイレをがまんするのは難しいということで、職場の配置替えをすることになった。



 ❃



 武田の家の近くにある居酒屋、

『あんたが隊長』


「順調に進んでいたんだよ! あんな失敗をするはずなんだ。絶対におかしいって!」

 武田が荒れている。

 娘のマナミと孫のタケルが一緒に来ている。


「誰かが、お父さんの仕事を邪魔したの?」

 マナミが言う。

「そうだと思うけど……工場の中にはカメラが付いていて、俺のラインの異常が出た時の映像も見たんだ。俺がトイレに行って、誰もいなくなった直後に、いきなり計量する機械でダンボールが倒れたんだ。それで、後ろから来るダンボールは押されてドンドン落ちたんだよ。不思議だよな、まるで見えない人がダンボールを倒したみたいだった……」


「透明人間? まさか、お母さんが思いあまって……」

「やめてくれ! あいつは、少なくとも金が有るうちは大丈夫だろう?!」


「そうね、お母さん、しばらく遊ぶって言ってた。お父さん、気前よくお金払ったから喜んでたよ」

「俺は別れる気なんかなかったんだ。まさか、この歳で離婚なんて考えもしなかった」

「あたしも、お母さんが別れたいなんて知らなかった」


「すいませ~ん、生もう一つ!」

 武田が生ビールを注文する。もう、かなり酔っている。


「お父さん、明日も仕事でしょ、大丈夫?」


「大丈夫だよ。こんどは単純な仕事らしいからな。あ〜っ、もう仕事なんて行きたくないな〜っ!」

「そんなこと言ったら、お父さんの尊敬する西郷先生に怒られるよ」


「……西郷先生か」

 武田は正座して頭を下げた。

「西郷隆盛先生、申し訳ございませんでした。武田鉄男、情けないことを口にしてしまいました」

 武田は西郷隆盛先生を尊敬していた。


「マナミ〜 西郷先生も島流しになったり、離婚したり、辛いことがいっぱいあったんだぞ」

「そうなの? あたしは、あんまり知らないから……」


「教えてやるよ。有名な西郷先生のお言葉。『幾歴辛酸志始硬いくたびかしんさんをへてこころざしはじめてかたし』って、どうだ!?」

「う〜ん、全然わからない」

「そうだろうな、解説してやろう。タケルも、ありがたい西郷先生のお言葉をよ〜く聞くんだぞ。簡単に言うと、何度も辛い経験をして始めて志は固くなる。と言うことだ」


「それは、今のお父さん? お父さんの志ってなんなの?」


「えっ、志か……なんだろうな? 年金まで働けたらいいなかな?」

「なんか、しょぼい志だね」

「そうか、それなら、これはどうだ!『丈夫玉砕恥甎全じょうふはぎょくさいすともせいぜんをはず』って言う有名なお言葉だ!」

「さっぱりわからない」

「そうだろうな、昔の言葉だからな。解説するとこうだ。男児は玉となって砕け散るとも、瓦のように身の安全をはかるのを恥とするものだ。ってな。タケルわかるか?」

「わかんない。ぼく、パリパリの焼きそば食べたい」

 タケルには難しい話しだった。


「パリパリの焼きそば? なんだろう?」

 マナミが不思議がる。


「長崎ちゃんぽんの皿うどんだよ。前にタケルと二人で来て食べさせたんだ。この居酒屋の長崎ちゃんぽんは旨いんだよな〜っ」

「二人で来てたの? お酒なんて飲ませないでよ……」


「飲ませないよ。ジュースだよ、ジュース」

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