知性ある対決

 夜空に宣戦布告をしてすぐに、紅葉は行動を起こした。時は金なり――――先人達が残した言葉通り、時間は貴重な資源。無駄にしては選べる選択肢はどんどん失われていく。

 ましてや動き出したゾンビ達が迫る中では、もたもたしていては金より大事な命を失いかねない。


「(冷静に考えろ。私は何をすべきだ?)」


 紅葉はゾンビと夜空を睨みながら、思考を巡らせる。

 何をすべきか。言うまでもない。幼い菜之花の尊厳を踏み躙り、一人の女性を死に追いやり、自身を慕う女達さえも男の付属品としか思っていない夜空に正義の天誅を下す……

 

 最優先事項は自分がこの状況から生き延びる事だ。彼を徹底的に痛め付けたところで、その過程や直後にゾンビに噛まれれば、結局紅葉は大事な命を失ってしまう。命を賭して邪悪を討つという行いに敬意は表するが、自分がそれをするつもりは毛頭ない。紅葉は栄光ある勇者などではなく、自分の命が大切な一般人なのだから。

 加えて、挑発してから言うのも難だが、直接対決を挑んでも勝ち目は薄い。夜空は曲がりなりにも男であり、見た目から判断するにやや痩せ型な程度。対して紅葉は女であり、同性の小学生の体当たりすらまともに受け止められないキングオブザ非力。まともに力比べをして勝てる相手ではないし、周りには彼を無視するゾンビが五体もいる。殴るどころか腕を掴まれただけで、敗北が確定するぐらい分が悪い。

 よって作戦目的は、逃げる事にする。


「(それに、此処から逃げればアイツの目論見も崩壊するからな)」


 夜空は世界の支配者になりたがっていて、そうなるのが当然と思っている。

 だが、それは彼が取り巻きの女達に支持された結果であり、ゾンビがいるから成り立つもの。彼の悪事を暴露すれば(話を信じてもらえればという前提はあるが)、女達は彼から離れて王朝は崩壊だ。のこのこと帰ってきたところを六人で物理的にボコボコにするという手もある。

 結局のところ彼は、ゾンビに噛まれないだけの『くだらない男』でしかないのだ。逃げればこちらの勝ちである。

 問題は、それをするのが困難なところだが。


「(いくら馬鹿でも、流石にそれぐらい頭は回るか)」


 紅葉が思考を巡らせている間に、夜空は校内へと続く扉の前に陣取るように立っていた。逃がすつもりはない、という明確な意思表示。

 逃げるためには夜空を扉の前から退かさなければならない。力で勝る彼との直接対決は避けられない訳だ。実力で勝る相手を押し退けるのなら、取るべき『策』は一つ。

 短期決戦だ。消耗した状態では、ますます勝ち目がなくなってしまう。


「っ……!」


 まずは後退。ゾンビとの距離を取ろうとする。

 とはいえ屋上には『際』がある。紅葉の高校の屋上はフェンスで囲まれているため、うっかり転落という可能性はないが……いずれにせよ屋上の『外』へと逃げる事は出来ない。

 考えなしに逃げれば、包囲された状態で追い詰められる。

 そこで紅葉は、ゾンビの周りをぐるぐると回るように走った。ただし遠くで大回りではなく、自分の臭いがギリギリ届きそうな三メートルほどの距離を保ちながら。当然ゾンビ達はそれを追おうとしてくるが、死体である連中の歩みは緩慢そのもの。おまけに此処に連れてこられたゾンビは、死後そこそこの日数が経っているからか、いずれも酷く腐り気味だ。パンデミックス初日のゾンビよりも更に動きが遅く、紅葉に追い付く気配はない。

 更に、遠近での動きの違いから集団の『形』が変わっていく。 

 素早い相手に向きを合わせる時、簡単なのは遠くにいる方だ。遠くからであれば少しの角度変化で追う事が出来る。対して近くだと、急旋回を求められるため、相手の素早さが上だと翻弄される形となってしまう。FPSなどの射撃ゲームをしている者なら分かりやすいだろう。

 ゾンビ達の動きにも当て嵌まる。紅葉に近い個体は、臭いを追うための旋回だけで精いっぱい。前に進む事も出来ない。対して遠くにいる個体はほんの少し身体の向きを変えるだけで良く、少しずつ距離を詰めてくる。ぐるりと一周して遠近が入れ替われば、勿論その動きも入れ替わる。

 ゾンビは狩りをしている認識など持っていない筈。あくまでも臭いを追い、そこで噛み付く等の行動を取っているだけ。本能による合理的な動きはしても、戦略的な行動は起こせない。

 即ち、紅葉が走り回るのを考えなしに追った結果、自分達が一纏まりになろうとも、ゾンビ達はその状況に気付いてもいない訳だ。


「(広がっていないなら、コイツらは大した驚異じゃない!)」


 ゾンビがこの町を制圧出来た一番の要因は、その圧倒的な数だろう。何処に逃げても現れる多さ故に、人々は逃げ道を失った。

 言い換えれば、纏まってしまえば怖くもなんともないのだ。

 もしもゾンビの数が三十四十といたなら、こんな小細工も通じなかっただろう。ちょっと横に広がるだけで、紅葉の逃げ場はなくなってしまうのだから。しかし夜空はただゾンビに無視されるだけの男。こんな輩にそんな大人数を誘導が出来る筈もない。連れてこれるのは、物理的に引っ張れる一〜二個体が限度。勿論時間を掛ければ何十と集められるだろうが、自衛隊が救助を始めるお昼までの時間というリミットがある中ではそうもいくまい。

 夜空がゾンビに噛まれない体質だと予想していた時から、何かやられてもこの程度だと紅葉は読んでいた。問題は、夜空が他の策を何か用意していた場合だが……


「ぐ……クソが……!」


 夜空の苦々しい表情から、その心配が無用である事が窺い知れた。


「(良し。まずは第一段階はクリア。問題は……ここから)」


 ゾンビ達の塊を維持するよう走りつつ、少しずつ速度を落とす。元々体力はあまりない紅葉。今のうちに少しでも回復させておく。

 それでいて、ゾンビの群れを誘導する。

 群れの位置は出来るだけ屋上の縁……夜空が陣取る扉の前から遠く。それでいて扉までの直線距離を塞がないよう、横向きになるように。

 考えなしのゾンビは、紅葉の動きを素直に追ってくる。誘導は容易く、簡単に思った通りの向きになってくれた。

 次いでちらりと、夜空の方に目線を向ける。

 ……苛立ってはいるが、警戒はしていない。逃げ回るばかりの紅葉に出来る事などないと、たかを括っているのか。


「実に好都合、だっ!」


 その姿を好機だと判断し、紅葉は夜空目掛けて走り出した!

 走ってくる紅葉を見た夜空は、最初少し驚いたように目を見開く。けれどもすぐ、にやついた嫌味ったらしい笑みを浮かべた。自分に挑んでくるなど命知らずだ、と言わんばかりに。

 尤も、余裕に満ちていた表情はやがて強張ったものに変わる。

 夜空の想定では、取っ組み合いのケンカを想定していたのかも知れない。しかし生憎紅葉はそんな上品なやり方をする気は毛頭なかった。腰を落とし、夜空との距離を詰めてもスピードは落とさず加速し続ける。

 端から戦術は短期決戦。

 全身全霊の力を込めて、夜空に頭から体当たりをぶちかます!


「ぐあっ!?」


「ぐ……!」


 体当たりの衝撃を受け、夜空は突き飛ばされた。紅葉の目論見通り、と言いたいところだが……紅葉の想定では体当たりの反動で、自分は反対側に飛ばされる筈だった。

 ところがどっこい、夜空が思っていた以上に無抵抗なものだから、二人は絡まるように密着してしまう。


「(こ、これは流石に、不味い!?)」


 力で勝てないから体当たりなんて無茶をしたのだ。取っ組み合いになるなんて、最悪中の最悪である。

 すぐに離れなければ。そしてそのまま扉から外に出れば……夜空を突き飛ばし、紅葉はどうにか逃げ出そうとする。

 しかし、流石にそれを許してくれるほど夜空は甘くなかった。


「こ、んの糞アマぁ!」


 爽やかだった青年の顔を憤怒に歪め、夜空は紅葉の足を掴む。

 ぞわぞわと走る悪寒。女の敵に触られる事と、このまま取っ組み合いになる事への恐怖心から、紅葉は反射的に足蹴を繰り出す。しかし暴力などろくに振るった事がない彼女の攻撃は、虚弱でない男子の身体相手では満足に怯ませる事も出来ず。

 足を掴んでいた手は、やがて制服のスカートを掴む。尤もそれを脱がそうなんてしてくる事はなく、そのまま制服を掴み、夜空は立ち上がる。

 紅葉も握り拳を夜空の顔面に叩き込んだが、やはり怯まず。それでも何度も何度も顔面を叩く。女の力とはいえ、手加減なしの本気の拳だ。夜空の顔には青痣が幾つも出来る。

 合わせて、彼の顔に浮かぶ殺意も色を濃くしていき。


「ッ――――!」


 夜空は右手を振り上げた。

 腹を目指す拳。これは避けられそうにないと反射的に思うも、紅葉には何も出来ない。大人しく殴られた

 筈だった。


「うっ」


 殴られた瞬間、紅葉の口から声が漏れ出る。

 次いで、


「は、はぁ! はぁ!」


 夜空は息を荒くしながら、紅葉を突き飛ばして離れていく。酷く興奮した様子ながら、あまりの興奮で身体が強張っている様子だ。

 逃げるなら今がチャンス。頭ではそう分かっているのだが、しかし紅葉は自分の身体を思うように動かせなくなっていた。

 原因は、腹の痛み。

 ただの腹痛ではない。脇腹辺りが、じんじんと熱を帯びた痛みを発している。感じた事のない痛みに、紅葉は軽いパニックを覚えた。どうにか冷静さを保とうと呼吸を整えながら、無意識にその手は痛む脇腹に伸び、

 ぬるりとした湿り気を感じ取った。


「……ああ、全く。この可能性を失念するとは、私も考えが足りないなぁ。人の事を馬鹿だなんだと言えたもんじゃない」


 一気に冴えてくる、否、冷めてくる頭。口からは自然と、達観した声が漏れ出す。

 それでも脇腹を押さえていた手を、思わず見てしまうのは無意識の願望からか。されどどれだけ祈ったところで、既に起きてしまった現実は変わらない。

 べったりと手に付いた血が消える事も、当然ながら起きなかった。


「はぁ! はぁ、はぁ! お、お前がぁ! お前が悪いんだ! 大人しく喰われないから……!」


 興奮した様子で喚く、夜空。血走った眼は、しかし今にも泣きそうにも見える。

 そしてその震える手に握られていたのは、小さなカッターナイフだった。

 どうやら自分は刺されたらしい――――この単純な事実を認識するのに、紅葉は少なくない時間を費やしてしまう。


「(コイツ、ゾンビに私を喰い殺させようとしておきながら、自分で手を下したらこれか……小悪党だとは思っていたが、想像以上にどうしようもない奴だな)」


 刺してきた相手を内心見下しつつ、紅葉はもう一度自分の脇腹を触る。

 出血は少なくない。記憶にある限り、紅葉の人生で一番の大怪我なのは確かである。

 しかし恐らく命に別条はない。刺された場所が脇腹で、刺した刃物も刃先が短いカッターナイフだからだ。傷は内蔵に達しておらず、皮下脂肪を刻んだ程度だろう……無論素人診断なので多分としか言えず、きっと大丈夫というプラシーボ効果で気力を維持する程度の役にしか立たないが。

 ともあれ死ぬと決まった訳ではないのだから、諦めるのはまだ早い。紅葉はゆらゆらと立ち上がり、もう一度扉に向かおうとする。


「そ、そうはさせるか!」


 だが、夜空の方が素早い。

 あっという間に扉の前まで戻った夜空は、下卑た笑みを浮かべる。

 全身全霊の体当たりでどうにか突き飛ばせた相手。脇腹を怪我した状態で、先程と同じ力を発揮するのは困難なのは想像に難くない。

 無謀な行動で体力を消耗するのは、得策ではない。胸の奥に込み上がる衝動を抑えつつ夜空と向き合う紅葉。対する夜空は、興奮を昂らせながら語る。


「ふ、ふへへ……そ、その傷がどれだけ深いかは分からないけどよ……そんな怪我じゃ、もう俺を突き飛ばすのは無理だよなぁ!」


「さて、どうかな? こういう命の危機を迎えると、人間意外な力を発揮するものだぞ? いくら君が馬鹿でも、火事場の馬鹿力ぐらいは知っているだろう?」


 痛みを堪えて不敵に笑えば、夜空は大きく仰け反る。紅葉には何度も『嫌な思い』をさせられてきたからか、こんなハッタリにも慄いてくれた。

 とはいえハッタリというのは、それ単体ではなんの力も持たない。本命の策と組み合わせて、初めて有意義な効果を生み出す。


「今なら見逃してやる。だからとっととこの学校から失せろ。ゾンビに襲われないお前なら、別に何処でも好きに行けるだろ」


 紅葉は夜空に対し、警告を行った。

 正直、かなり妥協した案だとは紅葉も思う。菜之花への狼藉を咎めず、腹を刺した件まで不問にするというのだ。ゾンビパンデミック前なら、こんな警告妥協をした紅葉の方が世論から叩かれたであろう。

 夜空にとっても大変旨味のある提案。だというのに彼が浮かべる表情は、紅葉を見下すような笑み。


「お前、立場分かってるのか? 命乞いするのはこっちじゃない、お前の方だ!」


「……退くつもりはないか」


「何度も言わすな馬鹿が! 俺の事を散々見下してくれたが、そんなハッタリが通じると思うなよバァーッカ!」


 口汚く出てくる罵倒の言葉。どうやら何度も馬鹿だと言われた事を相当根に持っているらしい。

 実に小さな帝王様だと、ほとほと呆れ返る紅葉。そしてこう思う。

 本当に、コイツはどうしようもない馬鹿だと。


「そうかい。なら、君の三日天下はここで終わりだ」


 きっぱりと告げた

 瞬間、紅葉はずかずかと夜空に歩み寄る。まさか近付いてくるとは思わなかったのか、夜空は驚いたように身体を強張らせた。

 お陰で紅葉は夜空と肉薄するところまで接近。渾身の力を込めて夜空目掛けて平手を放つ。

 そしてこれは、ただの平手ではない。

 自分の血でべっとりと汚れた、赤黒いな手だった。

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