夏の日、残響

 ――ああ、夏の空だな。

 窓の外に見える入道雲の白と青空のコントラストを、ぼんやりと眺める。

 窓ガラスで隔てられていてもやかましいセミの声と、見てるだけで汗が出そうな眩しい日差しに僕の思考はそのまま虚空を漂いだした。

 この世で最も重い物体はもう愛していない女の体である、と言ったのは確かフランス人だっけか。

 なら今感じているこの腕の中の重みは、幸せのそれを表しているんだろうか。

伊織いおりくん」

 とりとめのない思索は、天道てんどうつかさの僕を呼ぶ声で中断された。

 滞在五日目ともなれば遠慮も消えて、ひと夏のプチ同棲を満喫中の彼女はぴっちりしたホットパンツから白い美脚を惜しげもなく放り出し、すっかりくつろいだ姿をさらしていた。

 今は座椅子に座った僕を背もたれに、綺麗に並んだ貝のような手の爪にやすりをかけているところだ。

「なに?」

「あのね、明日一度家に帰ろうと思って」

 ホッとする気持ちと残念に思う心は、自分でも判別がつかないくらい絶妙な割合でせめぎ合った。

「そっか、分かった」

「うん」

 承諾の意を伝えても天道の機嫌は損なわれなかったので、少なくとも表面上は嬉しそうではなかったらしい。

「そういやそもそもこんな連泊して大丈夫だったの?」

 少し前までは正式に婚約者で、現在も恋人関係とは言え天道家は古風なお金持ちの家である。いかに僕が九十九人目というド級の性経験が家族に知られたとはいえ、嫁入り前の身で男の部屋に泊りは許されるのだろうか。

「おばあさまは黙認だし、母と姉さんはちゃんと仕留めてきなさいって」

「ええ……」

 天道家は何なの、捕食者の家系なの?

 顔も良くてお金持ちな頂点捕食者なの?

 思い返してみれば祖母と孫娘だけじゃなく、母娘、そして姉妹でも天道家の女性は面差しに共通点が多かったように思う。

 やっぱり肉食家系じゃないか(絶望)。

「――あれ、でもお父さんは?」

 二代続けて婿を取った天道家では発言力はまず天道の祖母であるちとせさん、その長女である天道のお母さん、その次に入り婿のお父さんと来るらしい。

 そうは言っても男親は一般的には娘の異性関係には口うるさいのでは?

「内心がどうであれ、父はおばあさまと母に逆らえないから」

「むごい」

「あら、そんなこと言ってていいの?」

 思わず同情の声をあげた僕に、天道は悪戯っぽい笑みを浮かべてぶりかえった。

「この前知ったけど、うちの母って伊織くんのお父様にフラれたのよね?」

「その言い方はあれだけど……まぁそんな感じらしいね」

 それが果たして僕とどうつながるのか。

「つまりね? 伊織くんは父にとって妻の初恋相手の息子で、可愛い娘の元婚約者兼現恋人で、おまけに頭が上がらない義母に男を紹介した、いろんなものを大変脅かしそうな相手なわけだけど――」

「ヒエッ」

 一つでもそれぞれ思うところが発生しそうなのに、それが三つもそろえばもうトリプル役満では? アークエネミーでは?

 僕にその気が無かろうとも、ちとせさんとお母さんの態度次第で一層肩身が狭くなりそうだし、しかもそれはなかなか起こりうる事態っぽく思える。

「教えてあげるのがフェアだから言うけど――結構、目の敵にされてるわよ」

 父は特に私に甘かったしとの言葉に、僕は天道父が一生家庭内地位が低いままでいてくれることを願った。


 §


「――でね、本題なんだけど。今夜は伊織くんが作ったご飯食べたいなって」

「ええー、めんどい」

「言い方。あのねせっかく泊まりに来たのに手料理食べてないじゃない?」

 確かにスーパーのお惣菜に、コンビニの弁当、ピザの出前にレトルトのパスタソースと精々米を炊いたくらいで出来合いのもので済ませたけども、それはそもそも天道がセックスの合間に人間としての最低限文化的な生活をする、みたいなスケジュールを組んだせいでは?

「そこはつかささんが作ってくれるところじゃないの?」

 男子たるもの彼女の手料理への普遍的な憧れくらいは持っているもので、僕だって例外ではない。

「ダメよ、まだ練習中だから」

 けれども天道の返事はにべもなかった。

 お嬢さん育ちの彼女ではあるけども、ここ五日ほどを見れば生活能力は普通にあるし、過去の話でもメシマズエピソードは出てこなかった。

「や、でも僕も別に料理上手ってわけじゃないんだけど」

「でも男の子は料理できるだけで加点でしょ? 一般に女子はくわえておいしくないと減点されるし」

「どっかの団体から抗議されそうな発言だなあ……」

「あら、多分一般論だけど」

 まぁ天道自身がそう思っているというわけじゃなくて、そう言う見方をされるものだ、という話だろうし、全くの妄想とは思わないけれども、それで僕にお鉢が回ってきて恋人の手料理が遠のくというのはちょっと理不尽な気もする。

「僕はそう言うの別に気にしないけどな」

「私が欲しいのは目先の好感度より、将来の満足度なの」

「だんだん上手になっていく過程を見せるってのもアリじゃない?」

「それも一理あるけど、私のブランディング戦略とは違うから」

 ブランディングとは、またえらく意識高そうな単語が出てきた。

 さては天道自分の顔とか諸々にそれだけ大層な価値があると思ってるな? 僕に限って言えばその通りだぞ。

「あとね、伊織くんに上手なのはセックスだけじゃないって思ってもらいたいの。見栄くらい張らせてよ」

「ンぐ」

 そしてまた絶妙に嬉しいような心のかさぶたが痛痒いような発言が飛んでくる。

 もしこれを狙ってやってるんだったら天道は実は結構なドSなのかもしれない。

 どっちかっていうとただ鈍感系ヒロインなだけ説はあるけども。

「――――そう言うのって、僕に伝えたら台無しでは?」

「キミなら健気で可愛い恋人って思ってくれると信じてるから」

 嘘だゾ、絶対そう思えって誘導だゾ。

 こんな圧力のかけ方ってある?

「ね、そう思わない? 伊織くん」

 そう分かっていても顔面偏差値激高の笑顔を前に、恋愛偏差値クソ雑魚ナメクジの僕はもろ手を挙げての降参しかできなかった。

「はい、健気で可愛い彼女がいてくれて幸せです、市民」

「よろしい……市民?」

 実際のところもうなんかちょっと天道の掌で転がされるのが、楽しくなってきてる自分もいてどうしたものか。

 キャバ嬢に熱をあげる人ってこんな気分なんだろうか、まぁ少なくともお金がかからないだけ僕はマシだな(逃避)。

「――言っとくけど、本当に凝ったものは作れないからね」

「平気よ、私好き嫌いも特にないし、なんでもいいわ」

「じゃあカレーでいい?」

 途端にスンと天道の顔から表情が抜け落ちる。

 美人な彼女の無表情はどこか作り物めいていて、実に夏らしくホラーだった。

「伊織くんが、お泊りの最後の夜は香辛料の匂いがする彼女が良いって言うならそれでも良いけど?」

「ごめんて」

 声もめちゃくちゃ冷たかった。

 実際くつろいでいるようでいて天道はこの五日間もセックスの前後をのぞけばいつでも良い匂いがして、化粧を落とすのも寝る直前なら起きるのも僕より早いととにかくすっぴんを見せないようにしていた。

 そういう努力をしてきた彼女からすれば、一生カレーを食べないわけにもいかないとは言え今日ではないだろう、ということか。

 あとお泊りって言い方がちょっと可愛くてズルい。

「えーと、じゃあ冷蔵庫も多分カラだし、買い物しながら考えるってことで」

「…………」

「二人でご飯の材料買いにスーパーとか同棲感あっていいと思うんだけど……」

「よろしい」

 許された。


 §


 白い雲は遠く西の空にとどまり、晴れ渡った空から降り注ぐ午後の日差しは、眩しいを通り越して苛烈という表現が似合う気がする。

 片道二車線の大通りを渡るときにふと目をやれば、長い直線道路を去っていく車の下に逃げ水が見えた。

「あっついなぁ……」

「本当、もう少し涼しくなってからの方が良かったかもね」

 そう言いながらも天道は僕よりはずっと余裕がありそうに見えた。

 Tシャツとホットパンツの上に白い長そでの夏用パーカー(僕の)を羽織り、キャップ(これも僕の)を被っただけのラフな姿でも、近所に買い物へという気楽さより、まるでリゾートに来たような感じが出るのだから美人はずるい。

「散歩が途中で嫌になった犬みたいになってるわよ、伊織くん」

「それはよく分かんないけどひどいな……」

 僕はどんな顔してるんだろう、と思いつつスーパーの入り口へたどり着く。

 屋根が張り出して日陰になった入り口前のスペースでは、日向に出るのをためらうように買い物帰りの人がげんなりした顔を並べていた。

「おつかれさま」

「ありがと……」

 脱いだ帽子を団扇代わりにして天道があおいでくれる。

 外では文字通り焼け石に水だったけども、店内に入れば空気が冷え、一気に効果は倍増した。

「伊織くん、カートは使う?」

「や、いいよ。二人分ならそんな量にならないし、つかささんの買い物は?」

「そうね、部屋に置かせてほしい日用品くらい?」

 あ、これからも泊りに来る気なんだ。

「……じゃあ、やっぱり無しで大丈夫」

「わかった、はい」

 嬉しいやら恥ずかしいやらで答えが遅れたのはばっちり天道に伝わっていて、実に楽しそうに笑われたけども、ここでムキになっても喜ばせるだけなのも分かってきた。

「……横並びは迷惑だと思うんだけど」

「ええ、そうね」

 手渡されるかに思われたカゴを一緒に持とうとした彼女にせめてもの抵抗でそう言うと、予想していたとばかりにくるりと左に回られて腕を組まれる。

 僕知ってる、これ周囲に白い目で見られる系の若いカップルだ。

「それで、何にするかは決まりそう?」

「あぁ、うん、そっちは大丈夫」

 周囲に白眼視されないように速やかに買い物を終えねば、と決意を新たにする僕の目に、青果コーナーに山積みされた緑の苦い奴が飛び込んできた。

 一人暮らしの自炊において地味に問題なのが分量で、特に野菜は上手に献立を考えないと余らせて駄目にするか、そればっかり食べることになる。

 そこらへんが億劫でついつい一人分を買える総菜やコンビニ弁当になるのだけど、これが二人分ならそこまで悩むこともない。

「ゴーヤってことはチャンプルー?」

「うん、自己流だけど夏っぽいし、一人で大量に食べたいものじゃないからちょうどいいかなって」

「へえ」

 おおむね切って味付けて炒めるだけで簡単だし、というところは黙っておく。

「つかささん、ゴーヤ大丈夫?」

「ええ、苦いのは平気」

 これ、拾っちゃうあたり童貞魂染みついちゃってるんだろうなとか、でも言い方ってもんがさあ、と思っていると天道が「あ」と小さく呟いた。

「――あの、伊織くん、変な意味じゃなくてね? コーヒーとか、チョコもビターのほうが私好きだし」

「うんごめん大丈夫つかささんは全然悪くないから僕がキモいだけだから………」

「そ、そう?」

 気遣われるといよいよ気まずいってレベルじゃなかった、どうして僕はこうなのか……。気を紛らわすために無心で木綿豆腐に、卵と買っていく。

 さすがの天道も対処に困ってか黙っているけども、今は何を言われても傷口が広がるだけなのでそっちのほうが有難い。

 あとは豚肉とー鰹節とー、それくらいか。

「伊織くん、それちゃんと見て選んでる?」

「え? うん」

 言われて念のために確かめてみると、卵も豆腐も十分に期限に余裕があった。

「大丈夫、てか卵はまず期限近くまで残らないし、豆腐だとシール貼られて別の棚にいってると思うけど……なんか高いの選んでた?」

 たまによくわからない付加価値でとんでもない値段になってるのあるけども、それを拾ったんだろうか。

「ううん。そう言うわけじゃないけど、一人暮らしの人ってもっと値段とか吟味して、倹約しているイメージがあったから」

「あー……なるほど」

 お金持ちの家に生まれた天道に指摘されるとは思わなかったけど、確かにそっちの方が一般的な気もする。ただ僕の場合、基本的に食費にしか使わないしな……。

「ちゃんと毎月やりくりできてるから大丈夫だよ」

「私が家計簿つけてあげてもいいけど?」

「や、気持ちだけもらっとく」

 なんとなくパワーバランスが崩れつつある現状で財布を握られるのは避けたい。

 というかそれ考えると胃袋掴まれるのも危なかった説があるな……。

 そんなことを考えていたのが悪かったか、正面に人が立つ。

「あ、すみませ――」

「志野、ちょっといい?」

 へ、と既視感を覚える流れで聞き覚えのある声に顔をあげると、夏祭り以来となる小倉おぐらがそこに立っていた。

 一層日焼けしたように見える彼女は、ずいぶんと硬い顔をしている。

「伊織くん、あとは何が必要なの?」

「――あ、ええと、豚バラの薄切り、小さいパックのやつで、それと鰹節」

「分かった、先に片付いたら入り口で待ってるから」

 すわ第二次スーパー気の強い女大戦のはじまりかとビビる僕をよそに、天道はカゴを引き受けると小倉とは言葉も交わさず去っていく。

「話があるから、ちょっときて」

 小倉もまたそれを一瞥すらせず、前置きもなしに言い捨てるとくるりと背を向ける。二人とも自然に僕の意志を無視してくれるな? と思いつつそれを追った。

「珍しいところで会ったね」

「図書館寄った帰り、水買いに来たんだけど志野たちが見えたから」

 そう言いながら手ぶらで小倉は外へ出た、二秒で冷房が恋しくなる。

 どうにも人に聞かれたくない話なのか、信号待ちで日陰に留まる人たちから離れた場所まできてようやくこちらを振り返った。

「――志野さ、天道と結婚すんの? 婚約したって聞いたけど」

「いや、婚約は解消になったよ、今は普通に付き合ってる」

 解消のところでちょっと表情を緩めた小倉は、その後に続いた言葉で顔をゆがめた。なるほど、これは天道が嫌いなだけじゃなくて、僕絡みのなにがしかもあるわけだ。

 それでも二人きりにしたって言うことは話をしてOKってことなんだろうけど。

「そ……ならさ、ちょっと見てもらいたいんだけど」 

 そう言って小倉が差し出したスマホにうつっていたのは、えっちい画像だった。

 ちょっと??

「――それ、天道じゃないかって回ってきたんだよね」

「は??」

 嫌な汗が噴き出すのを感じながら、改めて画像を確かめる。

 ホテルっぽい部屋で撮影されたらしきそれは、若い女性が目元を掌で隠し、シャツをまくって裸の胸を露出しベッドの上で煽情的な姿勢をとっているものだ。 

 ドクン、と心臓が強く高鳴る。

 白い肌、緩く巻いた茶色の髪は天道と同じ、全体に細身なのも似ている。

 半分隠れた顔は難しいところだが、笑みを浮かべた口元や輪郭は似ている気がしないでもない。

「言っとくけど、あたしは広めてないから。ただどっちにせよ、アンタには教えておいた方がいいと思ったから」

「あぁ、うん――ありがと」

 小倉の声をどこか遠くに聞きながら、僕は画面を食い入るように見つめる。

「…………で、どうなの?」

「――や、違う人だよ、コレ」

 そうして、安堵と共にようやく息を吐き出せた。

「なんでわかんの?」

「よく見たらつかささんこんなに胸大きくないし、ほら、ほくろもない」

「あっそ、天道の裸見たんだ、へーえ」

「――あ」

 動揺しすぎてやばいこと口走ったな?

 いや、でもまぁこれくらい付き合ってる大学生なら普通だし、セーフセーフ!

「そ、それによく考えたらこういうの撮られないように毎回するとき相手のスマホは没収してたって言ってたし。こんなノリノリで撮らせないって」

「……それ聞かされて思うところはないわけ?」

「いま言いながらちょっとへこんだ……」

 いったい僕が何の罪を犯したっていうんだ、と凹んでいると小倉はため息をついてスマホを仕舞った。

 見上げた顔は憑き物が落ちたようにすっきりしている。

「じゃああたしは一応否定しといてあげるけど、多分休み明け目ぇ冷たいからね」

「まぁ、それはつかささんの自業自得だし、仕方ないよ」

「彼氏なんでしょ? なんでそんなんとつきあってるのよ……」

「まぁ、色々……」

 好きだからかなあ、と思っていると小倉はクソデカため息をついて話はおしまい、と宣言した。

「小倉、教えてくれてありがとな」

 店内に戻る背に声をかけると、彼女は普段通りの笑顔で振り返って舌を出した。

「言っとくけどあたし天道ホンッット嫌いだから。そんなのに食われたアンタももう嫌い。二度と話しかけんなよ」

「ひでえ」

 今日もそっちから話しかけてきたのに、と言わないだけの頭は僕にもあった。

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