志野伊織の敗北(三度目
のちに婚約者だと紹介される大学の同級生をはじめて見かけたとき、天道つかさがふと思い出したのは幼い時に近所の老夫婦が飼っていた犬のことだった。
シロという身も蓋もない名前をつけられたその白い毛並みのミックス犬は、体が大きくて大人しい、子供好きの老犬だった。
今どき珍しく室外によく出されており、老夫婦が車を処分して使わなくなった駐車スペースを定位置にいつも置物みたいに座っていた。
ただ通学路になっている家の前を子供たちが通るたびに顔をあげ、声をかけられると尻尾を振ったり小さく一声鳴くような愛想があった。
老齢のためか動作は緩慢で、フェンス越しに触れる位置まで来ることは珍しかったけれどシロは子供たちには大人気で、主人である老夫婦も毎朝毎夕と大層騒がしかったろうに好きにさせてくれた。
つかさもそんな彼に魅せられた子供の一人で、親類の家でドーベルマンに吼えられてから犬は苦手だったが、大人しいシロだけは特別だった。
幼いながらも自分はシロだから好きなのだと理解していたつかさは、家人に犬を飼うのも強請るでもなくただただ日に二度、通学と帰宅の際に物静かな老犬と見つめ合うだけの関係に満足していた。
けれど子供というのは移り気なもので、今となっては思い出せないなにかに夢中になったつかさは一週間ほどシロの前を素通りしたことがあった。
そしてその間に人ならば八十歳を越えていた彼はこの世を去ってしまった。
老衰だったと、婦人からそう聞かされたのは空っぽの駐車スペースを不思議な気持ちで眺める日が一週間続いたあとのことだ。
家の前を通る多くの子供の一人にすぎなかったつかさの気まぐれと、老齢だったシロの死に無論因果があろうはずもない。
けれども、幼い少女にはなんとなしの後ろめたさが残った。
――自分が目を離したがためにシロはいなくなってしまったのではないか。
トラウマというほど深刻ではないが、小さな傷が確かに心に刻まれたのだ。
そこへきて、そんな老犬とどこか印象が重なる婚約者の出現である。
誕生日がつかさより遅くまだ二十歳になっていないのにその枯れっぷりはどうなのかと思うし、のちに意外と口が達者で中々憎たらしい気持ちにさせてくれると知れたが、それでもその第一印象が覆ることはなかった。
天道つかさにとって苦手な犬の中で唯一の例外がシロならば、顔も見えなかった婚約者像をはじめとした男性の中の例外が
少女と呼ばれる時期は過ぎ、とっくに外見も内面も性経験も大人になっていたつかさは、それでも過去の体験から半ば強迫的にこう思った。
この人から目を離してはいけない、いや
§
「つかささん、こっち」
天道つかさがショッピングモール前の停留所でバスをおりると、すぐに気の抜けた声がかけられた。
ひらひらと手を振る青年の元へ、日傘を広げながら精々焦らすような足取りで向かう――こういう細かいテクニックがどれほど通じるだろうか、と考えつつ。
「おはよう、待たせちゃった?」
まだ午前中だというのに白いタイルに落ちた影は色濃く、空調の効いた車内との気温差がすぐに背に汗を浮かばせる。
日差しにさらされていた時間はごくわずかなのに、日陰に入るとふっと体が軽くなった気さえした。
「おはよ、いやこっちが早く着いただけ」
「中で待っててくれてよかったのに、暑いでしょ」
「あー、それもそうか」
肺に吸い込む空気の熱にさえ気だるさを覚える暑さの中で、しかし志野伊織はまったく普段通りにどこかぼうっとして見える自然体だ。
つかさの婚約者である彼は平均よりやや高い身長で、骨格はしっかりしているが肉が薄いためかえって痩躯が目立っている。
顔立ちは地味で、決して美形ではないが温和な印象を与える、上の姉による「眠たげな好青年」は適当な評価だろう――もっとも、中身に関してはその印象通りではないが。
連れだってモールの自動ドアをくぐると別世界のような冷気が二人を迎えた。
「それで、どっから回る?」
そして伊織は休日のデートだというのにいきなり用件に入った。
ここは軽く服装について話をはじめて相手のセンスを褒めたり、少なくとも興味と関心を示すべきだろうに、とつかさは眉を持ち上げる。
「その前に志野くん、感想は?」
こんな直截な聞き方は不本意だが、この婚約者には反復で刷り込みでも行わねば一生自発的な発言はでてこないだろう。
証拠に、伊織が口を開いたのは不思議そうな表情を浮かべたあとだった。
「――夏のお嬢様っぽい」
それがたとえ小学生でも言えそうな、簡素に過ぎて賞賛なのかわからない評であっても興味を示されないよりはマシだ。
まぁおそらく季節感があって上品(あるいは清楚)だと言いたいのだろう。
今日のつかさは淡いブルーの襟付きシャツワンピ、足元はシンプルなダブルストラップのサンダルと伊織の好みと踏んだ大人可愛い系コーデでまとめている。
表現力はともかく感想としては妥当なところか。
「そのまんまだけど、ありがと」
「どういたしまして」
ただこの「しょうがないな」って表情はどうにかならないだろうかとつかさは内心でため息をついた。まったく、憎たらしい。
「で、どっから回るの?」
同じ言葉で問い返されるのも抗議したいところだが、彼を相手に細かいことを気にしていては本当にキリがない。
「先に志野くんの買い物から済ませましょ、たしか靴が見たいんだったわよね?」
そう疑問形で言ったものの実際にはしっかりと覚えていた。
なにせ渋る彼に捻り出させた「新しいスニーカーが欲しい」という理由がなければ、このデートは成立しなかったかもしれないのだ。
「別にあとでいいよ。すぐに済むし」
「なら先でもいいでしょ? 志野くんの買い物が終わってれば、私が時間を気にしなくていいじゃない」
「ええ……?」
少しでも婚約者の好みを把握するためのつかさの建前に、伊織は心底困惑するような顔を浮かべた。
そうして三階のシューズショップに着くと伊織は、まっすぐスニーカーの棚へと向かい、端から端まで眺めてひとつを手に取った。
それは側面のブランドロゴと踵の部分にコルクを使っていること以外は、これと言って特徴ないシンプルなベージュのスニーカーだった。
値札を確かめて店員を呼ぶと、サイズを確かめて二歩三歩と歩き「これ買います」とあっさり決断する。
吟味にかかった時間は呆れるほどに短かった、十分もかかったかどうか。
「志野くん、私別に急かしたつもりじゃないのよ?」
「え、いや、普通に選んだだけだけど」
もしや気を悪くしただろうかと聞いたつかさに彼はいつも通りの調子で答える。
「そう? ならいいけど……」
つまり伊織にとって買い物は「必要なものを予算の内で選ぶ」という原則に従うもので娯楽ではないのだろう。
おそらくどの服に合わせるかなどは考えもせずに選んだに違いない。
それでいつも微妙にチグハグな格好になっているのだな、とつかさは納得した。
今日にしたって肩幅はあっているが丈が余り気味で、縦ストライプにも関わらずぶかぶかに見えるシャツ、ズボンにしても細身のデザインなのに上げていない裾が足首であまっている有様だ。
無頓着と無関心の結果が生んだ伊織の服装ははっきりいって少々だらしない。
もっとも、今の段階でそれを指摘すれば他の女子の気を引きかねない、改善してもらうのは外堀を埋め切ってからでもいいだろう――
「それじゃ、次は私の番ね」
そう言った内心をおくびにも出さず、つかさは伊織の腕を取った。
目指すは特設の水着売り場――野望達成の為の決戦の地である。
§
「――それで志野くん、結局海にする? プール? それともナイトプール?」
下りのエスカレーターでつかさがそう問いかけると、一段下の伊織は顔だけで振り返った。
「それってやっぱり水着を選ぶのに違うもの?」
「ええ、だってそれぞれ微妙に違うでしょ?」
「まぁそっか、じゃあナイトプールは除外として」
「あら、行ったことあるの?」
「いや、ないけどあんなパリピ空間では生きていけない」
「そんなわけないでしょ……」
「いいや、あんなリア充空間に僕なんかが踏み込んだら大変なことになるよ」
大抵の人間がうらやむだろう自分という婚約者がいてリアルが充実してないというのはどういう了見だ。と言いたいところをつかさはぐっと堪える。
「具体的に、どうなるの?」
「――死?」
首を傾げながらも、伊織の表情と声音は真剣そのものだった。
エスカレーターを下りきって、視線で行先を問うた彼の腕を再び取る。
一瞬、体をこわばらせて距離を取ろうとした手をぐっと握って、ぶつかるように身を寄せた。
「どうしてよ、大げさね」
観念したように力を抜いた彼を引きずりながら話を続ける。
「いや……あとまぁ、万が一楽しかったりすると、時間も遅いから帰りが億劫になりそうだし」
「その時はそのまま泊まったら? 市内のはほとんどホテルのプールよ」
良い提案とばかりにことさら愛想よくつかさが言うと、伊織は露骨にいやそうな顔で首を横へ振った。
「だから除外するんだよ……あぁそれ考えると、ちょっと遠出になりそうな海も厳しいかな」
「そうね、市内だとだいぶ東の方になるし、綺麗で静かなところならM市までいかないと。まぁ海にこだわるなら一番良いのは泊りがけで県外だけど」
「無理」
想定はしていたけれども、その強烈な一言につかさは一瞬言葉を失った。
伊織はときおり自身が女子にモテないと嘆くが、それは自業自得というものだ。
みたところ彼に気がある女子は過去にも今もそれなりに存在している。
ただ伊織自身の妙な勘の悪さと、情け容赦の一切ない返事をする性格が女子からのアプローチをためらわせてきたのだろう。
自分も例外にされないことを除けば、つかさとしても助かる話だが。
「ねえ志野くん、前も言ったけど無理はやめて、泣くわよ」
冗談めかして言ったそれは偽らざる本心でもあった。
つかさだってなりふり構っていられない現状でなければ心が折れてたっておかしくはない。相手が伊織でなければ一度で思い切っているだろう。
「分かった。となるとプールかな、海浜公園の」
それが分かっているのかいないのか伊織はあっさりとした様子で話題を続ける。
「そうね、あそこも人は多そうだけど、平日ならまだ家族連れは少ないかしらね」
ため息をつきたいところを堪えて、水着売り場の前で足を止めた彼の腕を引く。
「この期に及んで往生際が悪いわよ、志野くん」
「こんな往生は迎えたくなかった……」
とは言え抵抗もわずかのことだ。
売り場には女子同士も多いが、カップルだって珍しくはない。そこでまごついていた方がよっぽど目立つのははっきりしている。
「じゃあ、人の多い屋外プールで志野くんが私に着てもらいたい水着選びね」
「いや、つかささんの好みでいいでしょ」
「ワンピース? それともセパレートのほうが良い?」
「聞いてよ」
「じゃあ私のおへそが見たい? 見せたくない?」
「より答えづらくするのやめてくんないかな……」
「じゃあやっぱりビキニね」
「露出が増えてるし、どうして『やっぱり』なのか分からない」
考えが分かりやすいところも、こういう時には悪くはない。
「あら、だっておへそが見たいから答えづらいんでしょ?」
外堀が埋められるのを警戒してか、なにかと返事が渋く付き合いも悪い伊織だが、結局のところそれはつかさに魅力を感じているからだろう。
その手ごたえだけは確信があった。
「ね、やっぱり男の子的には小さいほうが良い?」
「――透けたりズレたり、そういう事故が起きないのが良い」
「ええ、わかった」
切実かつ深刻な伊織の「お願い」をつかさは微笑んで受け入れた。
「――どう?」
そうして試着室を出た瞬間の伊織の表情をつかさは生涯忘れないだろう。
何事かを言いかけては口を閉じることを繰り返す彼に、思わず笑み崩れた瞬間。
「綺麗だけど?」
半ギレの声で、しかも真剣な表情でそう言われてつかさは噴き出した。
どうしてそこまで悔しそうな顔をする必要があるのか、そのくせ言葉と視線は正直なのか。
ひとしきりつかさが笑い終えると、仏頂面のまま伊織はスマホを取り出した。
「つかささん、撮ってもいい?」
「いいけど、じっくり見るのは家に帰ってからにしてね」
浴衣の時みたいに微妙な気持ちにされるのは御免と先手を打つ。
伊織はいやそうな表情のまま頷いて、再びつかさの自尊心を大いに満足させた。
そうして即席の撮影会のあとで、彼は頭をかいて難しい表情になった。
「どうしたの?」
「……撮ったあとでなんだけど、それちょっと事故りそうじゃない?」
つかさが身に着けているのは白の三角ビキニだ。
布の面積事態はとりたてて小さいというほどではないが、トップのヒモは細めで、ボトムもサイドはかなり幅が狭い。伊織の心配も分かる話だ。
「本気で泳がなければ、大丈夫だと思うけど」
とは言え男女二人で行くプールだ。
間違っても競って泳ぐことはないだろうし、この年でプロレスごっこもないだろう。あったら速やかに延長して夜のプロレスに入ってもらうが。
彼の内心の葛藤を察しつつもつかさがそう述べると、伊織は珍しく歯切れが悪かった。
「いや、そうだけどさ、ウォータースライダーとかもあるし」
「それは当然志野くんと一緒よね? その時は助けてくれればいいじゃない」
「いやいやいやいや」
もちろんつかさだって公衆の面前で露出したいわけではないが、この手強い婚約者に意識させるためなら少々体を張るくらいは許容範囲だ。
まぁそういった打算を抜きにしても、気をつけていたところで事故は起きるもので、それが嫌ならそもビキニは止めておくべきだろう。
「もうちょっと大人しいのにしてくださいお願いします」
しかし当事者でない伊織はそこまで割り切れないらしい。
彼が敬語を使うときはだいたいが切羽詰まっている時だ。
困っているのも、つかさのことを心配しているのも本当だろう。
それはつかさにとって嬉しいことでもあったが、同時に譲歩を求められたのも間違いなかった。
「それは志野くん、婚約者としてのお願いってことで良いかしら?」
「ぐ……」
だから多少、駆け引きをしてもいいはずだとつかさは考える。
違う、と言えばそれは伊織の個人的な要望になり、そうだ、と言えば婚約者としての立場を認めたことになる。
どっちに転んでも「仮の」とか「一応」とかをつけたがる彼に婚約者たる、そうしてつかさを多少なりと意識している自覚を促すきっかけになるだろう。
そうしてたっぷり数十秒は悩んだあと、肩を落として伊織は降参した。
「ソウデス」
「そう、仕方ないわね。志野くんがそこまで言うんなら、別のにするわ」
「ありがとう……」
死んだ目で礼を言う伊織に、つかさは心底からの笑みを浮かべた。
「プール、楽しみね」
「……そだね」
結局、次に選んだ水着でも伊織はスマホを取り出した。
なんとなく疲れた様子の彼とは対照的に、つかさは終始ご機嫌でその日のデートを終え、大いに満足して帰路についた。
§
そしてその夜つかさの部屋に悩ましい声とシーツをかき乱す音が響いていた。
性的欲求は思案の外とするつかさは、その解消の助けに婚約者を用いるのをためらわない。
とくに成り行きで彼に抱きしめられた夏祭り以来、その腕に、胸に抱かれる妄想は実に捗るようになっていた。
骨っぽくて筋張った腕は力強く、薄いけれど広い胸には引き締まった硬い筋肉の感触があった。もう久しく感じていない他者の体温は、体の芯までを熱くさせる。
いつも眠たげなあの目を見開いて、自分のことを見て欲しい。
少し高い、少年のようなあの声で自分の名前を呼んでほしい、何度でも、熱心に、繰り返し――
その願いは今のところ叶っていない。目途も立たない。
かつて与えられて当然だったものが、しかし本当に欲しい相手からはそうでないと分かった時、つかさは満たされない飢えとともにある種の高揚感を覚えていた。
幸運だった、相手は家に決められたこととはいえ婚約者だったから。
ひるがえって彼の小さなそして断固たる拒絶を不幸とは思えなかった。
伊織がときおり見せる公正さと果断さが、それがつかさの決断が理由であると教えてくれたから。それを不運としてはあまりに反省がないというものだ。
そしてその事実は、むしろ闘志を一層煽った。
これは挑戦なのだ。
柔弱そうでいて頑固で、流されやすそうでいて意地っ張りで、辛辣で親切な志野伊織の「例外」になるという、困難で、それだけに挑み甲斐のある戦い。
そうしてそういった気持ちになる理由がなんなのか彼女はすでに知っていた。
天道つかさは、恋をしている。
それは、紛れもなく幸せなことだった。
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