白佳

和菓子辞典

本文

 今朝の暗さも明けていく。山向こうから顔を出す太陽が、空を橙赤に染めていく。散り始めた桜のすきまを満たし、濃い影を纏わす。けれど、反対側の空はまだ明けず、タカ少年の自転車はちょうど、そのはざまを駆けていた。

 煉瓦づくりの家々の間を横に過ぎては、顔を半分照らされ、半分暗く、呼吸を静かにするばかりに静穏だった。風が吹くとしかし、鼻が冷えるくらい寒い。薄桃色の花弁を肩に吹きつけられて、風情と迷いつつはらい落とした。

 その寂寥感が幻を見せたのではなかった。


「君、止まって」

「え。はい――」


 凍てる大気を肺いっぱい吸いあげた。

 陽に透けているのかと思ったし、その髪は実際に透けていた。ほんとうに白い髪は光を通すと初めて知った。一面まっさらに白い肌を縁取る朝の光が、きっと神様はいると思わせた。桜のように、濃い影をまとわせている。けれどなお真っ赤な瞳はかすまず光っている。


「……はい」

「ごめんね。君はそこにいただけなのに」


 彼女は肉薄していた。間を歩くところを、タカ少年は見なかった。

 肉薄して、もっと近づき、彼は一生に最初で最後のキスをした。


「エニシ」






――――


――――


――――






 彼女の探索は果て、その腕にタカ少年が抱かれていた。


【こちら、文化的エコスフィア:ノアです!

 あなたを新たなマスターとして設定します。よろしければOKボタンを押して下さい!】


 妖しい濃桃色の空がタカを照らして、呪っているようで、吐息を震わせながら手を握った。まだやわらかくてけれど冷たい。

 求めた船は絵文字で笑っていた。彼女も口だけ笑った。


【ご登録ありがとうございます。船内へご案内します!】


 船体を靴が打つ音が、一定に三度四度、混じって乱れる音もなく響いていく。彼を横に抱える腕は、いらない元気にありあまっていて生きている。

 こんな今は知らないので天を見上げていた。天と言っていいほど精緻な空を描写するノアの天井。求めた船の姿だった。


【ディナーの用意をさせていただきます。よろしければご希望の品をお申し付け下さい。本船はあらゆる食材、あらゆる技能を取りそろえております!】


 指が震えた。


「……じゃあタカのご飯出してみろよ」

【申し訳ございません。『タカノゴハン』は未登録です】

「……」

【よろしければ調理法の登録を】


 指が震えた。


「ホムラ」


 各方のサイレンが鳴り響き、船は彼女を一斉に敵性とした。

 

「ミヅチ」

「クサナギ」

「アラタマ」

「イワト」

「……ヨモツヘグイ」


 ただ一つ確かなことは彼女が死ねなかったということ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白佳 和菓子辞典 @WagashiJiten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る