第59話 認める想い
〈菫視点〉
「菫さんは何も間違ってないよ」
「え……」
綾乃さんはわたしの手を取ってそう言ってくれた。
思わず顔を上げる。そこにあったのは優しい笑顔。わたしの心を包んで、優しくほぐしてくれるかのような。
間違ってない……間違ってないって、わたしが?
一瞬聞き間違いだと思った。だけど綾乃さんの目はそうは言ってなくて。
「どうして……」
「どうして。どうしてかぁ。そう言われるとちょっと困るんだけど。私が間違ってないと思ったから? だってそうでしょ。誰かを好きになるってことに間違いなんてあるわけがない。たとえそれが実の兄であったとしてもね。少なくとも私はそう思ってるよ」
「でも、わたしは……」
あれは小学六年生の頃だった。
わたしはその頃にはもう兄さんのことが好きで。だけどわたしは知らなかった。兄さんを好きだって気持ちが普通には受け入れられないものだってことを。
好きな人の話になった時、みんながクラスの誰が好きだって話をしてるなかでわたしは迷わずに兄さんの名前を挙げた。
最初はお兄さんのことが好きなんだね、なんて言ってたみんなもわたしの気持ちが本物なんだってことがわかると、少しだけ驚いたような顔をして言ってきた。
『まだお兄さんのことが好きなんて言ってるの? あのね、兄妹は結婚できないんだよ。好きになったりしちゃいけないんだよ』
その言葉を皮切りに、その場にいた他の子達も口々にわたしの想いを否定した。
それはわたしの人格を歪めてしまうほどに衝撃的なことだった。その日からわたしは自分の想いを口にすることを止めた。
間違ってるんだって、この想いは正しくないんだってそう思ったから。必死に忘れようとして、でも忘れられなくて。
そうやってぐちゃぐちゃになった感情をわたしは彼女にぶつけた。
なのに、綾乃さんは――。
「あなたは間違ってない。他の誰が何を言ったって、私だけはあなたの気持ちを間違いだなんて言わない」
「っっ!!」
形容しがたい気持ちが溢れる。涙が溢れて目の前がはっきり見えなくなる。
あぁそうだ。あの時わたしはきっとそう言って欲しかった。
たった一言。その一言だけが欲しかった。
一度溢れ出した想いと涙は止まらなくて、綾乃さんはそんなわたしのことを優しく抱きしめてくれた。もしかしたらわたしの涙を覆い隠すためっていうのもあったのかもしれない。
散々泣いて、泣いて、泣き続けて。ようやく気持ちが落ち着いてきた頃にわたしは急に恥ずかしくなって綾乃さんから離れようとした。
「っ、ぅ……すみません、もう、大丈夫……です……」
「落ち着いた? はい、ハンカチ」
「いえ、自分のハンカチがあるので」
「いいから。あ、大丈夫だよ。ちゃんと綺麗なハンカチだから」
「そういうことじゃないんですけど……」
あまり断り続けるのも失礼かと思ったわたしは綾乃さんからハンカチを受け取って涙を拭う。
「服……ごめんなさい。いっぱい濡らしちゃって」
「ん? あぁこれくらい気にしないで。全然大丈夫だから」
そう言ってあっけらかんとした表情で綾乃さんは笑う。
やっぱりわたしとは全然違う。器の大きさも、何もかも。
気持ちが落ち着いてくると、浮かんでくるのは一つの疑問。
どうして綾乃さんがわたしのここまで優しくしてくれるんだろう。
兄さんのため? そうなのかもしれない。だけどどうしてだろう。それだけじゃない気がする。
「綾乃さんはどうして……わたしの気持ちを間違ってないって思ったんですか?」
そこにはきっと理由があるはずだ。綾乃さんなりの理由が。
でもわたしはそれがわからなくて。
知りたいと思った。綾乃さんのことを。
「うーん……うん、そうだね。私も菫さんと同じだから、かな?」
「同じ?」
「あ、って言っても私も実はお姉ちゃんのことが好きーとか弟のことが好きーってわけじゃないよ。もちろん家族しては好きだし、愛してるけど。恋愛的な意味で好きなのは、その、やっぱり零斗のことだけだから。だから厳密には同じじゃないんだけど」
「???」
「あ、ごめん。回りくどい言い方しても良くないよね。その驚かないで聞いてね」
一つ前置きしてから綾乃さんは言葉を続ける。
何を言うつもりなのかとわたしは思わず身構えてしまった。
だけど続く綾乃さんの言葉はわたしのそんな些細な防御なんてあっさり突き崩してしまうほどに衝撃的なものだった。
「私、『性転換病』なんだよね」
「……え?」
思わず頭が真っ白になる。
『性転換病』。その病気自体は知ってる。十万人に一人かかるかどうかという病気。男性が罹患すれば女性に女性が罹患すれば男性になるという奇病。原因も、治療法も不明。現代医学ではどうしようもない病気。学校の保健体育の授業や道徳の授業なんかでも取り上げられたりもしてる。
その『性転換病』に……綾乃さんが?
「あはは、やっぱり驚くよね。ごめんね急に。でも嘘じゃないよ。ちゃんと証明書もあるから。はいこれ」
見せられたのは生徒手帳に挟まれた一枚の紙。それは確かに綾乃さんが『性転換病』の患者であることを示すものだった。
「え? え?」
頭が状況を受け入れられない。人間って驚きすぎるとこうなるんだなんて、そんな馬鹿なことを考えてしまう。
でも綾乃さんはそんなわたしの動揺を余所に話を続ける。
「私は中学三年生の時に『性転換病』の罹患して、『桜小路綾乃』になったの。だからね、私は元男なんだ」
「綾乃さんが……元男?」
嘘じゃないのはさすがにもうわかってる。証明書まで見せられたから。
だけど、だからってすんなりと受け入れられるようなことでもない。『性転換病』の罹患者。今までの人生でわたしは一度も会ったことがなかったから。テレビとかで見ることはあっても、こうして直接相対したのは本当に初めてだ。
思わず綾乃さんのことをジッと見てしまう。だけど、どこをどう見ても綾乃さんは女性にしか見えなくて。
これで本当に元男なの?
「男だった時から女顔だとかなんとか言われてたけどね」
「その……兄さんは、このことは?」
「もちろん知ってるよ。というか、知られちゃったことから始まったというか……だから、今度は私が教えてあげる。私が零斗と付き合うことになったその経緯をね」
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