第十二章
自分の仕事は、この櫓から
どれだけ強い軍であっても総大将を失えば、その勢いは乱れる。しかも篁の軍にとっては敵の懐深くまで踏み込んだ遠征の途上だ。一つの矢で形成を逆転することもありうる。
朱鷺は、自分が少し気負っていることがわかっていた。
頬に朝日があたる。
今日は夜が明ける前に、城門の前に
開戦と同時に、激しい勢いで両軍がぶつかる。混戦の中、墨烏の軍が中央から東へ東へと軍を押していく。敵陣の中央にあった本陣の姿が朱鷺のいる北西の櫓から、少しづつ見えてきた。
わずかな隙間でかまわない。祠篁と自分の間に遮るものがなくなる瞬間を待っていた。
朱鷺は心を鎮めて、矢をつがえ、弦を引き絞った。向かい風だが、このくらいであれば自分の矢は届く。ただし、向かい風のあおりを受けるため、狙いを定めるのが難しい。
誰もいない櫓の上、自分の弓の弦が引き絞られる音だけが低く響く。
朱鷺の目には祠篁の姿がはっきりと映っていた。弦を限界まで引き絞り、狙いを定めて矢を放った。
放たれた矢は風を切り裂いて、篁の軍の本陣にいる祠篁を捕らえた。
確かに捕らえたと、朱鷺は思った。しかし、その矢は紙一重で躱された。
「はずした……!」
朱鷺が狙いを外したというよりは、矢が風を切る音に気付いた祠篁が、身を捻り寸前のところで避けたのだ。
祠篁はすぐに傍らにある自分の弓に手を伸ばした。
朱鷺はその間にも二の矢をつがえて、放った。
これはすでに読まれていた。祠篁は大きく弓を振りかざし、自分を狙う矢を叩き落とした。
朱鷺は舌打ちをしながらも、三の矢をつがえる。
矢が放たれた場所がこの北西の櫓だと、相手は気付いている。祠篁もこちらを狙って弓を引き絞っている。
「あたるものか……」
ここは崖にへばりつくように立てられた四層建ての櫓だ。祠篁のいる本陣からでは、下から上へ狙うことになり、距離もある。いくらあちらからでは追い風になるといっても、ここまで矢を届かすことができるのは自分くらいだ。そう、朱鷺は思っていた。
朱鷺が三の矢を放つ。ほぼ同時に、祠篁のその指からも矢が放たれた。
祠篁も狙いを定めていたため、思うように身動きがとれなかったのだろう、朱鷺の矢をよけきれず、その矢は頬をかすめ、一筋切り裂くと血が滲みでてその滴が地面に落ちた。
そのとき、朱鷺の右わき腹には、祠篁の放った矢が突き立っていた。その鏃は朱鷺のまとっていた鎧を突き破り、その身の内に深々とめり込んでいた。
ぐふっと血がこみ上げてきて、口からこぼれた。どうやら内臓をやられたようだった。
あの距離から、しかも下から射た矢がこの櫓まで届くなど、信じられなかった。しかし、この痛みが現実のものだと知らせている。
朱鷺は背を壁に預けると、そのままずるずると崩れ落ち、床に尻をついた。
あたりが暗くなったような気がする。傷口から流れる自分の血は温かいのに、手足がひどく冷たい。
「死ぬのか……。若、御役にたてず……」
自分の使命を果たせないままなのが心残りではあるが、自分ではどうすることもできない。朱鷺はゆっくりと目を閉じた。
「祠篁様! 血が!」
「祠篁様の顔に傷なんて!
「かすり傷だよ」
「かすり傷でも顔ですよ。痕がのこったらどうするんです!」
「名誉の負傷だよ。あちらは、鸞の國の『
朱鷺が北西の櫓を見上げてそう答えると、足元に刺さった自分を狙った矢を手に取って、その矢羽が良く見えるよう、珂筐に手渡した。
あそこから放たれた矢を、よく躱すことができたと、祠篁は思った。強い向かい風の中、この距離を寸分たがわず狙ってきた。一の矢を躱すことができたのは、単なる偶然だと祠篁にはわかっていた。
「あちらは?」
「当たったと思うよ。ただ姿が見えなくなったから、どうなったかまではわからない」
祠篁は沿ういうと、弓を珂筐にわたし、手巾で頬を拭った。
朱鷺は、自分の血の臭いで目が覚めた。しかし、まだ瞼がうまくあけられない。声を出そうとしてもうまくいかない。
「朱鷺? 気が付いたのか?」
それは間違いなく、
自分は、生きているのか?
気力を振り絞って目を開き、飛び起きようとして、あまりの痛みに起き上がることができず、もう一度床に沈んだ。
「まだ、動かないほうがいい…」
枕元で発せられたその声は、やはり翠鸞のものだった。
ゆっくりと目を開きなおすと、翠鸞が心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。
「矢は抜いたけど、出血がひどかった。すぐに起き上がるのは無理だ」
いつまでたっても北西の櫓から矢が放たれる様子がないことに異変を察し、翠鸞が人をやると、そこには血まみれになった朱鷺が倒れていた。そして、そのまま本丸の負傷者部屋へ担ぎこまれたららしい。
「若、祠篁は…?」
「ああ、夕刻まで陣で兵を指揮していたよ」
「夕刻?」
そのときになって朱鷺はあたりの暗さに気が付いた。
「私はどのくらい、気を失っていたのですか?」
「朱鷺を迎えに人をやったのは昼前だ。いまはもう夜だよ。今日はお互いもう兵を退いた」
「若、すみません……。わたしは…」
「うん。朱鷺だって何もかもが思うようにいくわけではない。わかっている」
翠鸞は朱鷺が祠篁を討てなかったことを攻めたりはしなかった。それよりもゆっくりと休むよう、朱鷺にいったのだった。
「父上は、この戦、和睦に持ちこむほうが良いのではとのお考えだ」
「そんな…」
この時点での和睦は実質上、降伏と同じだ。
「わたしも、もう少し父上と話し合ってみるつもりだよ」
深手を負った朱鷺には、この戦ではもう出陣せず傷を治すようにと言い置いて座を立つと、
翠鸞が軍議に姿を現したときには、紛糾している論議の真っ只中だった。
「軍の編成を見直せば、まだ何とか持ちこたえることができるかと…」
「それは、ちぃと甘いんじゃないか、白鷹。現時点でも押されている。頭数を減らせば一気に押し切られるぜ」
白鷹と墨烏が疲れをにじませた顔で睨み合いを続けている。
朱鷺には告げなかったが、この一日で戦況は厳しい状態に陥っていた。祠篁の城攻めは、間断なく波状攻撃をしかけるもので、東で押し返したと思うと、北の城門に破城槌が現れるといったように、まったく鸞の兵に休ませる隙を与えない。兵の数で劣勢に立たされている側としては、持ち堪えるだけで精一杯だった。
籠城戦とはそもそも援軍がくることを前提に取る策だ。
「軍師殿は、篁の軍の余力いかほどとお考えですか?」
白鷹の問いに、
「おそらく、篁の軍は、
いつまで凌げば、篁の國が諦めるのか、それがわからぬまま戦い続けることが、さらに鸞の國の兵を疲れさせているのだ。
「あの、祠篁の考えることだ、補給路だって確保してるに違いねぇさ。でなくて、この経路で戦をしかけてくるもんか」
墨烏の言葉は、真実をついていた。実際このとき、篁の國の補給部隊は山越えをし、着々と鸞の國にむかっていたからだ。
「こちらの、軍備は?」
藍鷺の言葉に、後方に控えていたものたちが答える。
「兵糧は、あとひと月ほどもつかと」
「しかし、矢がそこまでは持ちません。おそらく、一両日中には尽きるかと」
「そんなばかな。半月分以上の備蓄があるはずだ」
白鷹は榛の國の護城の役をこなしつつ、遠方からこの鸞の國の軍備を整える役目を担っていた。何がどれだけこの城にあるのか、最も詳しいはずだ。開戦してまだ丸二日。矢が尽きるような日数ではない。
「どうしても櫓や城門上からの矢の攻撃が主体となっております。これだけ攻め立てられては…」
想定よりも激しい攻撃に矢を惜しんでいてはいられない。そのため、備蓄されていた矢を使い果たそうとしていたのだ。
どうにもならぬ。そう皆の考えがまとまりかけたとき、翠鸞が口を開いた。
「父上、少しよろしいですか…」
翠鸞は、懐から包みを取り出すとそこから、赤子の指の先ほどの粉を取り出し、小皿の上にのせると部屋の中央に置いた。
灯り皿から紙燭に火を移すと、皆に壁際まで下がり、耳を塞ぐようにいった。
「直接光を見ないように」
そう言って、手にした紙燭を粉の載った皿に放り投げた。
閃光と爆音が響き渡った。
粉の載っていた皿は粉々に砕け、その下の床には穴が空いていた。
皆、声を失っていた。
かろうじて正気を取り戻したのは白鷹であった。
「それは、
翠鸞はうなずくと、手元の包みを広げてみせた。
「爆薬というのだそうです。援軍を出せない代わりにと、稜榛様がわたしにこれを託されました」
あの少量でこれほどの威力があるとすると、拳一握りほどもありそうな爆薬の量に火をつければどうなるのか。
「稜榛様もこれをどう使えばよいのか思案中だと言われておりました。できれば使わずにすめばよいとも……」
しかし、状況がそれを許してくれそうはなかった。
「この爆薬を使うためには、誰かが火をつけねばらなん」
その言葉は、これまで黙って皆の意見を聞いていた碧鸞だった。
「その者は生きては戻れんだろう」
「はい……」
翠鸞は、この爆薬をこれまで出すことができなかった。それは、必ず誰かが犠牲になるということが理由だった。
この爆薬を持って敵陣の中へ切り込み、そして火をつける。それは一番の手柄であり、死を約束された行為でもあった。
「いいぜ。俺がやろう」
「墨烏…」
碧鸞は苦し気にその顔に目をやった。
「この鸞の國には世話になりっぱなしだからな。俺でいいんなら、一発、敵さんの中で爆発させてくらあな」
笑みさえ浮かべて言う墨烏の決意に、皆、何も言えなかった。
「そのお役目、わたしがいたします」
「朱鷺! どうやってここまで!」
ついさきほどまで付き添っていた翠鸞が驚いて、朱鷺の方を見る。
「嬢ちゃんは、さっさと寝床に戻って寝てるんだな。歩くのもおぼつかない奴が、敵陣までたどりつけるわけねえだろ」
「敵陣まで行く必要はない」
「なんだと?」
「誰かが火をつける必要もない。誰の犠牲もいらない」
「朱鷺…」
そう、声をかけたのは藍鷺だった。傷をかばいながら部屋に入ってきた養い娘を気遣うような声だった。
「わたしなら、鸞の國の誰も犠牲にすることなく、この爆薬に火をつけることができます」
翌朝、朱鷺は再び北西の櫓の上にいた。ただし、今日は一人ではなかった。翠鸞と、朱鷺の手当にずっと付き添っていた
脇腹の傷は縫合されて血は止まっているが、痛みは続いている。しかし頭が朦朧とした状態になるのを避けるため、痛み止めは断っていた。橙燕に頼み、脇腹を固く巻いてもらい痛みをこらえる。それでも、歩くのもやっとだった昨夜にくらべれば、幾分ましになっている。頑丈な自分の体がありがたかった。
昨日と同じく、夜明け前から城門前には軍を出していた。
法螺貝とともに、両軍がぶつかりあう。昨日の再現を見ているような戦いぶりだ。ひとつ違うのは、今日はできるだけ敵を遠くまで押し戻し、城から引き離さなくてはならない。爆発に城を巻き込まぬためだ。
最後の力を振り絞ったかのように、鸞の軍はぐんぐんと篁の軍を押し返していく。
「墨烏も従兄上もすごい」
翠鸞は遠眼鏡を片手に、そう呟いた。これまで墨烏と白鷹の二人はほぼ休まずに討ってでている。それでも尚これだけの力を出している。その二人に率いられた兵もまた、篁の軍に一歩も譲らぬ勢いで攻め立てる。
ただ、この勢いは長く続くものではない。
十分に追い込んだ頃合いを見計らって、城から再び法螺貝の音が響き渡る。
今度は猛烈な速度で城内まで撤退をする。昨日の夜のうちに鸞の兵ひとりひとりに徹底して知らしめてあった。二度目の法螺貝の音がしたら、後ろを振り向くことなく一心に城内まで走れと。
いきなり、潰走をはじめた鸞の兵に、最初篁の兵は戸惑っていたが、すぐ体勢を立て直して追ってきた。しかし、すでに十分な距離は空いている。最期の兵が鸞の城の城門をくぐり抜けようとしたとき、朱鷺の弓がうなりを上げた。
矢の先に握りこぶしほどの包みが括り付けられていた。それを放物線を描くように上向きに射た。
その一の矢は大きな弧を描きながら、ゆっくりと篁の軍の上に落ちていく。
そこへ朱鷺が二の矢を放った。その二の矢はまっすぐに、一の矢に括り付けられていた包みを射ぬいた。包みがぱっと開き、爆薬の粉が上空にまき散らされた。
そして、傍らにいた翠鸞が朱鷺に三の矢を手渡した。
それは鏃に油を染み込ませた布を巻き付けた火矢だった。
朱く燃える火矢をつがえると、爆薬の舞い散った敵陣の上空に向かって矢を放った。狙いはいらない。ただあの空にこの火が届けば。それで良かった。
鸞の城が揺らぐほどの爆音と閃光だった。
櫓の上の朱鷺も立っていることができず、背後の壁まで吹き飛ばされた。爆発を予測して床に伏せていた翠鸞と橙燕も激しい衝撃に身を震わせていた。
もうもうと立ち込める爆煙が収まるのをまって、敵陣を確認すると、爆薬が舞い散ったあたりに立っているものは一人もいなかった。
「こんな…。これほどなのか…」
朱鷺が思わずそうこぼすと、隣でようやく顔をあげた翠鸞が、ゆっくりとかぶりを振った。
「これは、戦とは言えないね…」
一方的に敵を殲滅したことは確かだ。しかし、これはあまりにも残酷だった。
「稜榛様が使わずにすましたいと言われた訳がわかったよ…」
翠鸞は自分がこの爆薬を使うと言い出したことを心から後悔しているようだった。
「若の気持ちはわかりますが、あの状況で爆薬を手にしていたら、皆同じ決断をしたはずです。誰も若の言葉を攻めることはできなでしょう」
「うん。そうだね。それでも、わたしは、こんなものは使わずに済めばと思わずにはいられないよ」
「はい…」
翠鸞の気持ちが痛いほど伝わってくる。朱鷺はその言葉に頷いて返すことしかできなかった。
「祠篁様! ご無事ですか!」
自分に覆いかぶさっている主の下からはいずりでた珂筐は、すぐに祠篁の無事を確かめた。
「ああ、何とかね…」
二の矢でまき散らされた爆薬が放つ硫黄の香りに気が付いた祠篁は、そばにいた珂筐を突き飛ばし、その上に覆いかぶさるようにして地に伏せていた。
爆発の衝撃は凄まじかったが、このとき偶然にも補給を確認するため最後方まで下がっていたことで、巻き込まれずにすんだのである。
しかし、篁の軍の大半は、この爆風の餌食となっていた。助かったものたちが、声を掛け助け起こしてはいるが、無事なもののほうが少ないに違いない。
「あれは、何だったのでしょう……?」
「爆薬…。稜榛、完成させていたのか……」
「『朱鬼』の火だ! 俺は見たぞ、あの櫓から火矢が飛んできたんだ!」
「鸞の國には、やはり鬼がいたんだ!」
助かったものたちの中から、怯えたような声が次々とあがる。
祠篁はそれを訂正しなかった。これまで見たこともないものに対する恐れを、理屈で説明したところで、どうにもならないことを知っていたからだ。
「この戦、どうやら、私たちのの負けのようだね」
祠篁はそう言うと、珂筐の頬についた煤を指先で拭ってやった。
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