1月1日

 眠れない。一向に眠れそうな気配がない。我ながら情けない話だが、帯刀の寝息のせいではなかろうか。先刻から静かな室内で吐息がすーすーと聞こえている。今は二時四分。一度は眠れたが浅かったようで、一時間ちょっとで起きてしまった。再び寝ようするものの時間が経てば経つほど目が開いてきて、今や全く眠たくなくなった。一度眠れないとその日はしばらく眠れない。テレビだと眠れないときは本を読むといいと言っていた。無理に寝ようとしては逆効果らしい。僕も諦めて考え事をしている。だがそれも「なぜ帯刀は誘ったのか」と「今日はどうしようか」の二つを交互に何度もループさせるだけ。結構辛いけどこういうとき大して頭は働かないのだ。同じ考え事が頭に浮かんで、違うルートを辿って同じ結論に達する。これを何度も。

 何か打開策を、と思った。トイレでも行ってくるか。ベッドの右側に脚を出して座る。帯刀を眺める。抱き締めたらどうだろうと考えている。駄目だろう。どんな反応するか楽しみだ。わざわざ危険な方に近付くまいよ。ずいぶん無防備だな。帯刀はそもそも僕と一緒に寝たいと言ったのだ。つまりそういう誘いなのではないか? 意外と僕が何もしてこないことに怒っているのでは? そうか、じゃあせめて抱き締めるくらい何ともないことだろう。むしろ嬉々として受け入れるかもしれない。

「はあ」

 僕はベッドから立って、ドアの方に向かった。もうさっさと出よう。

 ぎゅっと腕を掴まれた。相手はお化けじゃない。振り返らずともわかる。僕は立ち止まって向き直った。帯刀は両脚を外側に開く、男子には難しい例の態勢でベッド上に座っていた。暗い中で見下ろしているので顔はよく窺えない。

「どうした。大丈夫か?」

 僕はなるべく声を和らげて尋ねた。なかなか話を切り出す様子が無かったので仕方なく。息が荒い。手が熱い。汗で湿ってる──泣いてる。

「……ねぇ、帯刀?」

 帯刀が面を上げると頬から涙が伝っていた。僕は衝撃があんまりなので動けなかった。代わりに帯刀がゆっくり言葉を吐き出した。

「唯都くん、行かないで。一人にしないでよ」

 一人にしないで? 行くな? 僕はどう答えたら良い? なぜむせび泣いてる? 帯刀は僕の手を離そうとしない。

「えっと、僕はトイレに行くだけだから大丈夫。すぐに戻るよ」

 帯刀は縋るような涙目で僕を見た。悲しい目だった。ようやく離してくれた。僕は帯刀に背を向けないように部屋を出た。バタリと扉を閉めると僕は一度立ち止まってしまった。あの様子は何だ。寝惚けてたのかな。

 考えたところで思い当たる節があるとも思えず階段に向かった。目が眩むようなオレンジの電気を点けてU字の階段を一段ずつ下った。トイレに入って用を足した。何も考えていなかったと思う。ぼうっとして終えて流した。トイレを出て洗面所で手を洗う。石鹸を使って少々時間をかけて洗い流した。その間、鏡の反対側の自分の顔を眺めていた。普段の僕がいた。まさか薄くなってはいないだろうと思った。手をタオルで拭って洗面所を出た。廊下の電気は点けっぱなしだった。トイレと洗面所の電気は消したと思う。階段を上がろうとはせず、リビングに入った。特に用事は無いはずだが、何となくとか魔が差したとかだろう。リビングにも電気を点ける。パッと広い空間が開けていた。

 雰囲気が違う。一歩一歩進んで行った。安定した立ち位置が欲しくてキッチンに立った。ここは部屋全体が見渡せる。頭に浮かんだことを整理することで落ち着かせる。

 僕の気持ちを一言で表すと「怖い」だ。帯刀といたときは温かなリビングだった。今は違う。何も無い、誰もいない空間の量が圧倒的である。この無の空間に押し潰されるような感じがした。原因を冷静に考えれば人がいない以外にもある。照度が寝る前のように調整されていないこと。暖房が消えてしばらく経っていたこと。だけど、やはり一人でこの広い空間に置かれていることが主な理由じゃないかと思う。僕は帯刀の言っていた一人で眠るのが怖いという主張がわかる気がした。誰かといるとき、ここは温かくていい。では、一人でいなくてはいけなかったら? 僕をも誘った帯刀の寂しさに初めて気付いた。

 今日だけじゃない。帯刀は以前からそうだったはずだ。あいつの孤独をここに来てやっと知った。僕から遠い所にいる帯刀。そんなのはもういなかった。僕の傍にいるときもあいつは笑っていた。嫌われ者で人嫌いの僕でもあいつは気にしてなかった。寂しかったのだろうか。案外、誰でも独りなのかもしれない。本当に心を許している相手などいないのかもしれない。悪いけど、僕は帯刀の寝る間に心の中を土足で上がり込んでしまった。

 キッチンの上に目線を落とすと食器の水切り棚が目に入った。二人分のコップが並んでいる。あと小さめの皿が数枚。菜箸やフォークやスプーン、箸、しゃもじも目に入った。

 戻らないと。僕はリビングを離れ、階段を上がり、電気を消す。廊下が暗くなったのを確認して寝室に帰った。帯刀は脚を放り出して座り、僕を待っていた。

「わざわざ悪いな」

 僕はベッドに潜る。帯刀の顔は詳しく見なかった。そもそも暗さに目が慣れていないのでよくわからなかった。帯刀もどうやら横になったようだ。僕は反対側を向いて寝ているので帯刀がどうしてるのか見えてない。無言の時間が続く。僕は暗闇を眺めた。

「帯刀、寂しい?」

 返事はしたくないようで何も返って来ない。

「あのさ、何があっても──」

 返答が欲しいのにしてくれないとき、僕は余計口が滑ってしまう。

「僕は帯刀の味方だから」

 言ってみる。聞いてないかもしれない。寝ている可能性もある。帯刀のいない方を見ながら言ったからだ。これは自己満足で完結しても仕方ない話だと思う。

「────おい。あんまり引っ張るなよ」

 やれやれ。

「寒いんだから」

 そのまますぐ夢の中へ。なぜか此度は安眠することができた。


 視界にうっすらと白い光が入る。背後のカーテンが開いている。閉め忘れたか。シーツの肌触りがいつもと違う。寝相が悪かったか。目が開いてくると前に低い本棚があるのが目に入る。『愛の渇き』といった題があるが、はてどんなあらすじだったかと思い出そうとして「ここはどこだ?」と思った。見知らぬ光景が目前に広がっている。

「あ、あれ?」

 上半身を慌てて起こし、背中になっていた側を見る。僕はベッドの端に寄って寝ていた。危ない。隣にはずいぶん空白がある。ああ、そうだ。ここは帯刀家だ。横のベッドは空だった。帯刀がいない。なぜ。

「──あれ?」

 カーテンは昨日の夜は閉じていた。今は控えめに開いている。直射日光ではないが光が差し込んでいる。帯刀が開けたのだろう。そう言えば今日は元日のはずだ。初日の出が見られるのか。いや、これは昇りきっている。何時だ? 枕元の時計を見ると八時十二分だった。まあまあ寝た。そりゃあ帯刀も起きてる。僕はカーテンを全開にしてから一階に下りた。階段にも白い光が入っていて清々しい気分だった。屋外の風も静かになっている。リビングから物音がする。素直にドアノブを手に取る。新年は挨拶が決まっているから顔が合わせやすい。

 手が動かない。思い出してしまった。夜の帯刀の泣き顔を。ぴたりと停止してしばらく無言の時間を作る。どちらにせよ開ける以外の選択肢は無いことに気付いた。思い切って入ることにする。

「おはよう、帯刀」

 帯刀はキッチンに立っていた。黄色、からし色、いや山吹色のニットを着て腕捲りをしている。ブラウンのエプロンを着けていた。僕の姿を見とめると驚いた顔をしてからにっこり微笑んだ。ほっとした。

「おはよう。あけおめ! ことよろ!」

「明けましておめでとう。よろしく」

 お互い笑顔で挨拶を交わす。吹っ切れているらしい。あのときは寝惚けていただけだろう。暖房の暖かな空気を閉じ込めるために後ろ手でドアを閉め、脚の高いキッチン前のダイニングテーブルに近付く。部屋を見渡すと昨夜閉じていたカーテンが開いてある。大きなドアガラスが庭の様子を透き通していて解放感があり、清新な朝を感じられる。

「あなた、朝ごはんできてるわよー」

 見ればわかる。テーブルには向かい合うように箸が置かれ、重箱ではないもののおせち料理が数種類平皿に並んでいる。手作りという訳ではなくとも、手際よくキッチンで仕事をする帯刀を見ると本当に奥さんみたいだ。

「用意してくれたんだ」

「早起きしてね。五目ちらしとお雑煮もあるから、よそう間にパジャマ着替えなさい!」

 帯刀はしゃもじで僕の方をつつくジェスチャーをした。それもそうだ。僕は部屋に置かれた自分のリュックを引っ張って洗面所に行った。まず洗顔をする。そして初めて鏡を見つめる。横に引っ掛けてある縦長のタオルで顔を拭く。口も漱ぐ。一応お腹や首元も触ったが特に異常は無かった。服を着替えることにする。ボタンを外して寝間着を脱いだ。中に着用していたヒートテックも背中に汗をかいたので取り替えようと脱いだ。そのときドタン、とドアが開いた。

「唯都く──きゃああ!」

 耳を劈く叫び声が家中に響いた。帯刀が垣間見に来て自爆したらしい。ドアを一旦閉め、黒の長袖のヒートテックを着てから取っ手を引く。帯刀は背中を丸めてうずくまっていた。

「昨日勝手に来るなって言ったよね。まだ下は穿いてたから良かったものの」

 帯刀は朱に染まった顔を上げた。口が動いているが声が出てなくて無声映画みたいだ。

「脱ぐなら、い、言ってよー」

 突然来たやつが何を言う。生身の上半身を覗かれた僕の気持ちになってみろ。

「私、何も見てないから!」

 そう言い残し、とたとた走って帰還してしまった。急の来訪客は帰り際に一番歓待される。思い返すとあいつは意外とイレギュラーに対してうぶな反応をする。

 その後、グレーで昨日より首の詰まった襟のニットと、昨日と同じ黒のスキニーパンツで今日の装いを完成させた。一応帯刀の物と思われるヘアワックスを無断で借りて寝癖がちの髪を整えた。甘い匂いが強い。

 リビングに戻ると帯刀は配膳をしている。コトコトと食器を配置する音が聞こえた。僕に気付くとエプロンを取ってキッチンの所定の位置に引っ掛け、にっこり笑って言う。

「朝ごはんできたよ」

 僕は照れ臭くて目を逸らす。腰に手を当てる。まあ、帯刀が元気そうで嬉しい。二人で向かい合って食器の並ぶテーブルに。先程目にした伊達巻き、かまぼこ、黒豆、栗きんとんに加え、帯刀の言っていた通りお茶碗に五目ちらしと、底の平たいお椀にお雑煮がある。これを作ったのだろうか。

「帯刀って料理上手いんだ」

 帯刀は驚いたような反応をするけど、実際喜んでいるのが口元からわかる。

「こっちのおせちは買ってきたやつ。ちらしはちらし寿司の素を混ぜて錦糸玉子載っけただけ。お雑煮は……私が作ったよ!」

 こういうときには謙虚だ。胸を張るでもなくそわそわと僕の感想を楽しみに待っている。

「そうか。ではこれは何だ?」

 てっきり「いただきます」がくると思っていた帯刀は虚を突かれ苦笑いした。テーブルには未紹介の目玉焼きがあった。塩が振りかけられている。

「それは……食べるのが毎朝の日課だから。朝ごはんって言ったらこれでしょ?」

 このごはんにマッチするだろうか。

「まあいいや。いただきます」

「いただきます! 唯都くんに餌付け、ふふ」

 まずは手作りだって言うお雑煮から。具材はもちろんお餅。真四角の白色がお椀の底を隠している。他は無難に鶏肉やにんじん、しいたけ。一度すすってみる。帯刀は笑顔で感想を待つ。

「丁度いい味付け。あと温まる」

「美味しい?」

「うん。美味いよ」

 帯刀は箸を持ってない左手でガッツポーズをした。言い方によってもっと喜ばせられただろうが、これくらいが丁度良いさじ加減だ。調子に乗せないのがこいつの最適な操り方である。帯刀が餅を漫画のように伸ばして食べる間に五目ちらしを口に運んだ。酢飯にレンコンや筍などが混ざっていて、こちらも美味しくいただけた。こんなにまったりした朝ごはんはいつ振りか。思わず顔に出てしまった。口角が上がっていたのが帯刀にばれた。

「うふふ。楽しいね」

「ごはん食べてるだけじゃんか」

「そうなんだけど。でもね、私思うの」

 僕のことを見つめる。伊達巻きをつまんでみたが、予想より甘かった。

「朝ごはんを一緒に食べるのは本当に親密な人だけだよね。家族とか」

 僕は家族とも朝ごはんは食べないけど。

「だから朝ごはんを共にしてる唯都くんは特別な人」

 帯刀は目玉焼きを半分に切って食べた。黄身がこぼれないくらいの固さで火が通してあるようだ。僕も目玉焼きを味わう。塩だけのしょっぱさと黄身の甘さが組み合わさった味。

「ま、帯刀と食べてるときは大体美味しいね」

 帯刀はこの程度じゃ驚かない。僕がわざと素直に言葉を発するのも想定内らしい。

「黄身と塩ってやっぱり一番合うよね」

 きみとしお?

「僕と栞が合うって?」

「え。栞って呼んでくれた?」

 帯刀は笑った。これは見飽きた。もっと色んな表情をこいつはするんだ。

「黄色の身と塩分が合うよねって言ったの! 唯都くんと私も相性バッチリだけどね」

「そうか?」

「ソファーでイチャイチャしたし」

 嘘つけ。さっき半裸を見て卒倒したくせに。僕らはその後もテンポ良く食べ進めた。昨晩から食べ過ぎだ。

「そうだ。僕はご飯食べたら帰る、よね?」

 語尾が思い付かず、尻すぼみになった。僕はここの住人ではないし、いつかは帰らなくてはならない。そもそもご家族と出くわしては都合が悪い。

「えー、孤独死しちゃう」

「親御さんはいつ帰られるんだ?」

「午後二、三時って言ってた。お買い物するんじゃないかな」

「お姉さんは?」

「お姉ちゃん、今日は絶対帰って来ないって!」

「……僕はいつ?」

「もう唯都くんは家族同然だから、今日からうちの養子ね。帰らなくて良し!」

 別に構わないが、手続きしようにも役所がやってない。真面目な答えを引き出すのに苦労する人だ。僕は溜息を吐く。

「ねぇ、お昼までいてって言ったら嫌?」

 早く帰るに越したことはないが、帯刀を一人にしたくないみたいな変な義務感がした。

「いいよ。お昼作ってね」

 帯刀は歯を見せて頷いた。朝ごはんはごちそうさまを終え、食べきった。時間を見るのをしばらく忘れていたが、今は九時十六分。帯刀は洗濯に、僕は皿洗いを買って出ている。すぐ終わった。僕も家事はそれなりにできる。ソファーに座した。ここが落ち着く。テレビを点ける。

「──ん?」

 テレビじゃない。横の棚に目が行った。歩み寄る。アルバムだ。昨日見たアルバムの背表紙がちょっとだけ飛び出ている。戻し忘れたのか。僕はそっと人差し指で押して戻した。証拠隠滅を終えてまたソファーに座る。すっかり自分の家のようなくつろぎようである。そして帯刀が家事をするのを待つというのも日常的で落ち着く。こういうのも悪くないと思った。将来は一人で生きようと昨日までは考えていたが、家族を持つのもいい。家族なんてただの血縁関係による便宜的な同居人だとみなしていた。帯刀のおかげでちょっとはその利点が理解できたのかもしれない。

「どうしたのー? お皿ありがとう」

 帯刀が戻るなりこちらへ寄って肩を揉む。

「そっちもお疲れ様。将来奥さんや子どもを持つ立派な亭主になってみたい」

 笑われた。帯刀の髪の毛が柔らかに僕の頬を撫でる。くすぐったい。

「いいね、頑張れ。昨日歯磨きしたときよりは意志があるように聞こえた」

 そう言えば何か言った。そっちは本気じゃない気がする。なぜああいう発言してしまったのか今じゃ到底思い出せそうにない。

「それとも間接的なプロポーズでしたか?」

 何を言い出すんだか。帯刀は顔を覗き込むように笑い掛けてきた。肩揉みが上手い。

「帯刀、テレビ一緒に観るか?」

「いいや。キャッチボールしよ?」

 キャッチボール? どういう風の吹き回しだろう。帯刀は親指で肩甲骨の内側を刺激する。ちゃんと肩揉みしなくていいよ。

「唯都くん野球やってたんでしょ? お父さんのグローブあるし、やってみない?」

「いいね。だけどキャッチボールの相手がいなかったから久しくしてないな」

「自虐しないでよ。反応に困る」

 帯刀は苦笑した。帯刀の狼狽を見るとき、大抵僕は愉快な気分になる。帯刀も僕を困惑させて喜ぶへきがあるから、お互いに根はだいぶ悪性だと思う。

「どこでするの。公園とか?」

「庭でいいよ。対面して投げるだけなら充分。早速行こう!」

 帯刀は僕を起立させて廊下に連れ出した。こんなに寒かったか。乾いた空気がしんとしていた。帯刀の足元を見るとくるぶしにかけて裾の広がったパンツを穿いているのだとわかった。キャッチボールには不便ではなかろうか。スカートとは違い、脚が一本一本離れているから案外歩きやすいのか。

「なーに、ぼうっとしてるの! グローブ取りに行かなきゃいけないでしょ」

 玄関に足を向けていた僕を帯刀が首根っこ掴んで引き留めた。服が伸びてしまう。リビングの反対の部屋に入室する。電気が点くと中はリビングより二、三回り小さいとわかる。デスクとパソコンの周囲に書類が煩雑に置かれているのを見るとお父さんの書斎なのかな、と思った。あと何となく気になったのはリビングとは異なる匂いがしたことだ。この家に入ったとき、もちろん他人の家の香りがした。だが、この部屋はそれとも別のものであると感じた。ちなみにプロ野球チームのユニフォームが飾ってあるが、僕の好きな球団とは別のリーグで安堵した。

「確かここの押し入れにしまってあるの」

 帯刀は部屋の端の押し入れを開扉させた。男物のスーツや上着が上段にぶら下がっていて、下段にプラスチックケース等々が文字通り詰め込まれている。帯刀はしゃがんで、そのケースのうちの一つから黒と黄色のグローブをそれぞれ取り出した。

「いいやつだね」

 僕は黒の方を装着してみて手の平を開閉する。最近は使用してないのかもしれないが、結構使い込んである。内野用かな。

「ボールが無い! どこだ。これでいいか」

 帯刀は、僕の試着の様子は無視して何かを捜していた。ボールだったらしい。机の脇のショーケースの中からそれを出して見せる。

「それたぶんサインボールだよ。やめよう」

「大丈夫だって。どうせ使ってないし」

 使ってはならないからだ。そもそも庭で硬球を用いては危険だ。

「ゴムボールとかテニスボールはある? それ投げよう」

「ある、かな。お姉ちゃんの部屋にあると思う。テニス部だったし──ふぁ。う、ああ」

 帯刀は血の気の引いた顔で僕を見下ろしていた。言葉がまともに出ていない。

「いやあっ!」

 帯刀は一目散に退室した。並みの陸上競技者にも劣らない速度だった。こんな喩えを昔にした記憶があるけどいつだったか。陸上を生で見た記憶が無いことからしても、だいぶ適当に生きていると思う。それであいつはどうしたのだ。僕はグローブを放って廊下に首を出した。帯刀は突き当たりで冬眠中の熊のごとく丸まっていた。

「ゴキ……」

 悟った。「ゴキ」の発音から始まって日本語で常用されるのは「ゴキブリ」か「ご機嫌よう」くらいだ。前者を帯刀は意味しているはずだ。ならば先ほどの反応も納得がいく。後者は使ったことが無い。僕はドアから廊下に顔を出しているが、今度は反対に廊下から部屋に注意を向けた。黒色を探す。しかし、部屋の中に生命反応は無いように思えた。首を傾げていると、後ろから帯刀が両手で僕の肩を掴んできた。

「びっくりした。どこにもいないぞ」

「いるって……。ほら、壁だよ!」

 耳元で鼓膜を破壊するような声を上げる。見ると、いた。あのおぞましい黒光りの体。想像の一・五倍の大きさはあった。

「唯都くん、倒して。私は絶対無理だよ」

「待て。あいつの退治したことないんだけど」

 ゴキブリはカサコソと壁を伝って蠢く。動きまで奇怪だ。これを処理しろと言われても。僕の家にも出没したことはあるが、直接関与したことがない。

「男の子でしょ! これくらいできなきゃ将来奥さんを呆れさせるよ」

 僕は顔をしかめた。帯刀の怯え方を見るといずれにせよ僕がやるしかない状況だ。これは言い掛かりだが、男とか女を主語に話すのは現代ではタブーではないのか。ただ、これを言い放って帯刀にやらせたら僕の株は下落するだろう。溜息を吐く。

「武器をくれ」

 この状況下では、何を指すのか理解できるはずだ。帯刀は一目散にリビングに駆け出すと、大晦日の新聞と殺虫剤と金属製のトングとビニール袋を持って来た。

「死体の始末は任せてもいいか」

「う、うん。殺虫剤使うなら窓開けて。なるべく部屋は荒らさないで」

「行って参ります」

 僕は新聞紙と殺虫剤を受け取ってから入室してドアを閉める。ゴキブリはまだ壁を歩いている。こちらの気配は悟られていない。押入れとは反対側にある窓にそっと近付いて開ける。スライド式の窓の向こうは庭があり、柵を隔てて家の前の道路だった。冷気が吹き込んで来る。

 会敵。忍び足で寄って、殺虫スプレーの口を向ける。案外緊張して手が動かないもんだなと思った。ふう、と小さく息をついてから噴射する。すると、飛んで来た。

「飛ぶのかよ!」

 僕は姿勢を低くして後ろに退く。地に落ちたヤツは殺虫剤の効き目があったのか、方向感覚を失い、ぐるぐる歩き出した。もう後戻りできない状態。ヤツの命を狩る前に自分の心を殺す。丸めた新聞紙を構え、思い切り振り下げて叩く。結構な威力だったが棒の下ではまだギコギコ動いていた。ええと、今のところ存在するどの日本語を用いても綺麗な形容は与えられそうにない惨状であった。とどめを差さなくては。もう一度、心を殺す。

「死ね、死ね、死ね、死ね!」

 何度か叩き潰して更に恐ろしい惨禍を生み出して、僕の初任務は終了した。呆然とした気持ちがあった。もし僕が戦場に行って女性や子供を殺さなくてはならなかったら、今よりずっと心を失うのだとわかった。だが、今回は義務だったから仕方ないんだ。特にゴキブリは人類の敵。敵なら死んでも仕方ない。ドアノブを引いて廊下にいる帯刀を見ると、およそ表情というものが抜け落ちていた。

「下にいる。後は頼んだ」

「お帰りなさい。任せて」

 帯刀は部屋に行ったので、僕はリビングで新聞をゴミ箱に捨てた。手を洗っていると、帯刀が帰還した。黒のビニールを見せた。

「死が重なるって意味で四重に縛った」

 僕は軽く敬礼する。帯刀はそれを蓋付きの生ゴミ箱に叩き込み、入念に手を洗った。

「唯都くん。気を取り直して外行こっか」

 先に帯刀がスニーカーを履いて玄関のドアを開ける。そのまま外に飛び出すのかと思ったが、顔を出したところでストップした。僕は帯刀が誰かと話しているのだとわかった。

「おはようございます! 明けましておめでとうございま——え。あー、すみません。従兄弟が来てまして。あはは。騒がしいかもしれませんが。本年もよろしくお願いします」

 帯刀はドアの向こうにお辞儀をしていた。僕が「誰?」とその背中に声を掛けると、振り返って眉をひそめた。

「お散歩中の隣の家のおじいちゃんがいたの。大声聞かれてたって!」

 大声と言えばあのゴキブリ退治のときの僕の声だろうか。帯刀の家に男は父親しかいないのだろうから、何事かと思われたかもしれない。僕はこういう近所付き合いが無いから何とも言えないが、存外近い距離感なんだなと思った。一軒家でも生活音は気にしなくてはならないのだろうか。

 帯刀と僕はグローブとボールだけを持って玄関を出て、一面芝生の庭に集合する。外は澄んでいる高い青空だった。庭と言っても、バレーのコート半面くらいのスペースで花壇や物置小屋が取り付けられている。ここはリビングの大きなガラスに面していて、縁側のように使えるようだから、マンション住まいの僕は少し憧れた。

「綺麗だね」

 僕のシンプルな感想に帯刀は笑顔で応えた。庭の奥にバックで下がり、グローブをはめた。

「でしょ? このシクラメンは私が植えたの」

 足元の花壇を指差す。花壇はレンガで黒土を囲んでいる。その内側に咲くこのひらひらした白やピンクの花はそういう名前なんだ。帯刀がこれをのんびり植えている姿が浮かんで、似合うと思った。

「じゃあ、投げるよー」

 僕が下を向いているのにもかかわらずボールが放たれた。本当に硬球にしなくて良かった。僕はグローブをぐいと押し込んで指先まではめて、山なりの投球を受け止める。右側に少し流れたボールだが、なんとか体は捕り方を覚えていたらしい。だけど百均で売ってるピンクのゴムボールだから、捕ったときは柔らかい感触で少々物足りないと感じた。手の平がジンと痛む感覚を味わいたい気もする。

「久し振りだ。やっぱり面白いね」

 手の中でボールを回してからゆったり構え、帯刀に返球する。ボールは帯刀の胸元にドンピシャ。帯刀は驚いて受け取った。

「怖い! 速いし真っ直ぐだし!」

 胸元に来たのが怖いならどこに投げたらいいのだろう。一番捕りやすいボールだったと思うけど。それに速く投げた訳ではない。

「唯都くんが楽しいならいいよ」

 帯刀はまた投げ返す。絵に書いたような女子投げ。またしても山なりで、数メートルしか離れてないのに僕の前でワンバウンドした。僕は掬い上げるように捕る。

「ありゃ。上手く投げられない」

 帯刀は苦笑した。僕は面白くて笑う。

「帯刀って、運動音痴だろ」

 投げると、今度は帯刀の顔の高さに飛んでしまった。目線の高さだと球筋が見にくくて捕れないかな、と思った。やはり駄目だった。帯刀はグローブの先で弾いてしまう。

「うわー。これ使うの難しい」

 帯刀はしゃがみ込んで拾い上げる。ニコニコしながらグローブを開閉する帯刀はいつもより飾らない感じがした。

「最初は難しいよ」

「はは。私全然運動できないんだよね。唯都くん羨ましいな」

 帯刀は返球。僕は一転して胸元に届いたボールに反応する。筋のいいスローボールだ。

「僕は大したことない」

「野球続けてたら甲子園行ってるかな」

 それには生返事をする。帯刀は僕が小学生時代に八番セカンドだった事実を知らない。お世辞にも上手くはなかった。バントとゴロの処理はチーム一だったけど。

「だけどいいんだ。遠回りでも、僕は今の僕の方が好きだ」

 帯刀は素っ頓狂な顔を見せる。適当なこと言ったんだから適当に返して欲しい。僕の投球を目を瞑って捕っていた。

「唯都くん、彼女いたことあるの?」

 何の話だ、ばか。帯刀の投げ返したボールが腰の高さに来たので少し屈んで捕った。

「いっぱいいるよ」

 苦笑された。僕は強く投げる。帯刀は胸の前でつついて落とした。

「やっぱり美海ちゃんと会いに行くの?」

 そのことか。すっかり記憶の隅に行ってしまっていた。僕は帯刀が投げた頭上の高さの投球を手を伸ばして捕る。

「そりゃ、向こうが約束を取り付けて来たんだから馳せ参じるほか無い」

 肩が温まってきた。帯刀の胸にボールが直進する。かの帯刀もだんだん的を射るようになってきた。こうやってキャッチボールをしていると相手によってテンポが違うことに気付く。そのリズムが心地良い。これは心の交換の作業でもある。

「ねぇ唯都くん」

 帯刀は苦笑というより困った笑顔をしていた。初めて見た。

「美海ちゃんと仲良くしないでって言ったら怒る?」

 帯刀はボールを投げる手を止めた。答えを待っているのか。あいにく質問を十全に理解するまで頭が追い付かない。何を問うたつもりなのだろうか。僕が答えあぐねているのをどう曲解したのか帯刀は腹を抱えて笑った。思考を司る部分のネジを締める必要があるようだ。

「あはは! 気にしないで。私が馬鹿だった」

 確かに日常生活で帯刀は馬鹿だと思うことが少なからずある。けど、学業成績について僕は格段に劣るだろう。

「君はする後悔より、しない後悔を選べる人間になれ。勇気を持つんだよ」

 帯刀は科白じみた口調で言って演技がかった微笑みを見せる。僕は帯刀のボールを緩慢に受け取る。

「帯刀はたまに脈絡の欠落した話をするね」

 もう単純な微笑みしか見せてくれない。帯刀の人のよさそうな笑みは素性を覆うことに特化した仮面ではないかと思う。

「そう? 私はね、ちょっとお馬鹿な心配を催しているだけなのです」

 パシッ、パシッという音が静かな住宅街に小気味良く響き合う。

「唯都くんはさ、友達ができたり親友ができたり彼女ができたりしても私と仲良くする?」

 帯刀はなぜそこまで心配するのだろうか。僕が西川さんと仲良くなると都合が悪いのか。そもそもそんなに上手くいくとも思えないし、仮に上手くいってどう変わるか。あまり大きな変化は到来しないだろう。まして僕と帯刀の間柄においてをや。何だかんだ四カ月近くクラスメイト、友人として付き合ってきた僕に疑念を感じすぎている。

「するさ。僕は薄情者ではないし、限りある交遊関係に自ら制限を掛ける動機も無い」

 帯刀はUFOを白昼に見たような顔をした。驚きとも疑いとも呆れともつかない表情だ。

「本当かなー。どんなに大事な人でも会わなくなったら忘れちゃうもんだよ。人間はある意味で上手く出来ているから、無意識では非情なの」

 それは脳が勝手に必要な情報だけ覚えて、要らない記憶は忘却する性質を述べているのか。だったらそれでもいいじゃないか。

 僕は小学生時代にいじめた強気なあの女の子の顔を今でも覚えている。かなり明確に。あの悲痛と孤独と絶望を含んだ無惨な瞳は今でも忘れられない。夢にも時折あの子が普通のクラスメイトとしての役割を割り当てられて出てくる。これは関係無いかもしれないが昨日の回顧から連鎖的に思い出したのは、同じ中学に進んだあの子が僕に気に掛けるような目線を向けていたことだった。てっきり因果応報だと言わんばかりの憐憫を示すかと恐れていた僕にはちょっとした衝撃だった。つくづく自分が酷い人間で、あの子が友達を作れて嬉しいと思ったことだろう。

 他にも忘れて当然の記憶を僕はたくさん持ち合わせている。野球からは当分離れているが、監督や保護者から、チームの「縁の下の力持ち」だとよく褒められていたことは覚えている。あまり褒めるところが無い僕が言われる数少ない褒め言葉うちの一つ。当時はそんなの褒め言葉ともとれなかった。少し大人になった今の僕から言えることは、どうせ舞台に上がったって滑稽にも転倒するなら、舞台裏で堅実に仕事をこなして舞台仲間から頼られる方がいいということだ。結局は何が言いたいかというと、つまり何だったろうか。忘れないうちに言葉にして伝えないと。

「自我、つまり自分の性格や生き方を構成する記憶はきっと忘れることは無いよ」

「へぇ」

「思い出しにくくなったり、思い出す頻度が落ちるだけ。もしそうなっても、大事な核の部分は抜け落ちない」

 僕は色々な記憶に思いを巡らせる。

「例えば、僕が帯刀に逢った日のこと。あのとき何を考えていたとか、帯刀が拾い物を渡したときの表情とかは明確に覚えてない。でも他ならぬあの日に帯刀と初めて話したっていう事実は覚えているし、電車内でスマホを落としてはいけないっていう訓示も胸に刻まれたままだ。ちゃんと必要な部分が残っていたら僕は満足だ。だから帯刀のことは忘れない。僕の人生の大事な部分に、それこそ中心に爛々と君は位置しているからね。死ぬまでフルネームで覚えてやる。子細な記憶は──こうした会話の中身はいつか忘れ去ってしまうだろうけど、帯刀と元旦にキャッチボールをして、大事な話をしたことは忘れないよ」

 言い終えると帯刀は目を細めて頷いた。

「もし忘れてもそれは罪悪じゃない。それは今の自分にとって、さして重要でなくなったというだけだから。人は環境が変われば価値観が変わる。過去の記憶に囚われて無理にしがみつこうとすると取り残されて辛苦を味わうんだ。ついこの前までの僕がそうだった。結果は受け入れなくてはいけない。無理に抗っても、過去に縋っても、いい思いはできないよ。たまにゆとりがあるときに思い出すくらいでいいんじゃないかな」

 そうして先ほどまでのペースに合わせてボールを返そうとすると、帯刀が硬直しているのに気付いた。僕も投球動作を停止する。

「どうした?」

 帯刀は少し口の端を歪ませた。

「……唯都くん。なんでそんな話をしたの?」

 震えながら後退りするようにも見られる気がした。僕もペラペラ話しすぎた感はあるものの、そこまでの反応をされる謂れは無かった。

「私は中学校の頃、どんな子だった?」

 また文脈から飛び出した話題。それはタブーか何かを恐れるよう慎重に出た言葉だった。僕は泰然として投げるのを再開する。

「僕は中学時代の君に接触していないし、そう言えば帯刀の中学の思い出話を聞いてない。訊きたいとは──少し思うかも」

 帯刀から温かな笑みが溢れた。よくわからない感情のフローだ。基本、女子なんて何を考えているのか不明だから今更どうとも言わない。余計なところに鋭かったり、時たま鈍すぎたり、不思議な生き物だと思っている。もっとも帯刀という突飛な女子を代表に据えた場合であるが。

「何でもなかった。気のせい」

 帯刀は僕に向けて呟く。程よく汗が滲む。屋外の寒さが気にならなくなってきた。

「中学校の頃はねー、控えめというか、私は内弁慶だからね。情けないことに仲のいい子の前でしか本音出して、ふざけられないんだよ」

 傍迷惑な性格をしている。どうせなら教室でも傍若無人っぷりを発揮していればいい。内輪にいるときに見せる奇怪な言動はクラスメイトから一笑い取れる気がする。

「そして、私はおかしな子だから──」

「知ってるよ」

 食い気味で言ったら一瞬眉を吊り上げた。流石に勘に触ったかもしれない。しかし、一転帯刀は笑う。

「うん。酷い言い草だけどそうなの。自己の脳内では一貫しているんだけど周囲からすれば突拍子もないこと言ったり、抽象的な話をするのが好きだったり、可愛さを周りの子と比べたがったり、無性にイケメンの愛を欲しがったり、お目出度いヤツなの」

 面白そうに笑う。僕からすればそれこそが帯刀栞然とした人物像だったので何も言いようが無い。

「でも、素顔の自分は時間掛からないと他人に出せない。意外とガラス? 氷? のように繊細な心を持ってるの。そういう意味では唯都くんは優秀ね。半年も経たずに私の心が融解してドロドロになった」

「キモい」

 帯刀は「あはは!」と喜色満面の様子。

「唯都くんのこと、誤解してたのかな」

 帯刀は自分に問うような声量で言う。

「唯都くんは違う意味で信頼して良かったのかな。もっと素直に寄り掛かってたら……」

 よくわからない。されても迷惑極まりない。

「今更だよね。もう手遅れだけど!」

 笑った。

「私のことどう見えてる?」

 帯刀は僕の心臓めがけて、今日で一番直線的に球を放った。

「上手くなってきたね」

 無邪気な笑顔が出た。時折思うのだが、帯刀のこういう笑顔は可愛いと思って正解なのだろうか。僕にはのちに若気の至りだ恥ずかしい、と思うことになる予感がして一向に拒絶しているのだが。適当にはぐらかす。

「僕にはヒトの女の子に見える」

「異性には見えるのね」

 僕は反駁を諦める。そう言って妖艶に微笑んだ帯刀は少し大人びて、手が届かない側の世界にいるような昔の印象を僕に甦らせた。


 僕らは熱中して球の投げ合いに取り組んで、終わったのがなんと十一時という始末だった。よほど消化不良的な体力を持て余していたとみえる。僕が腕時計を指して時間を告げると、帯刀は昼食を準備する時間が無いと慌てふためきだし、片付けは僕に一任して家に駆け込んだ。両親が昼に帰宅するんだったか。それまでに僕に昼食を振る舞う約束だった。

 僕は道具をしまって、それも帯刀の父に勘付かれないよう入念に部屋を復元しておいた。リビングでは帯刀が既にエプロンを着けて料理の準備をし出しており、冷やかすのも悪い気がして、トイレなんかを済ませた後にはソファーに座ってテレビ観賞を始めた。二十代後半の男性タレントが「この前、後輩の○○とご飯に行かさせていただいたときに──」と発言をしていた。誰に向けてなんて敬語使ってるんだと心の中で笑った。そのときだ。キッチンからゴトンという物音が聞こえた。シンクに物を落下させた音。「大丈夫か」とノールックで尋ねるが、答えが無い。次いでキッチンに目線を遣ると、帯刀がいなかった。

「たてわきー」

 僕の呼び掛けにも応じない。まさかエイリアンが帯刀を連れ去ってしまった訳ではあるまい。あんな迷惑でわがままな女子の検体を確保しておくメリットは少なからん。僕は立ち上がってキッチンの向こうを覗くと、黒い頭が視界に入った。どうやらしゃがんで下の棚でも見ているらしい。

「何してるんだ?」

 僕の質問はまたもやシカトされた。返事が来ない。悪い予感がして僕は帯刀の方に大股五歩で向かう。

「帯刀——?」

 帯刀はしゃがんでなどいなかった。ペタンと座り込んでぐったりと俯いている。「うう」と苦しげな声が漏れ聞こえた。

「大丈夫?」

 僕は努めて冷静を装い、背中をさする。帯刀はエプロンの前で両手を握り締めている。

「顔色悪いよ」

 僕が見る限り帯刀は唇を真っ青にして目は閉じていた。よく観察すると健康的だった肌も今は処女雪のように色を失っている。どうやらただごとではないと僕は悟った。

「喋れない?」

 僕は帯刀を落ち着かせるための手を止めなかった。するとたどたどしく言葉が出てくる。

「手を、切っちゃって。包丁で」

 帯刀の手元を見る。帯刀はその手で祈っている訳ではなく、左手の人差し指を押さえているようだった。血は垂れるほどではないからそこまで大怪我ではないのだろう。

「血が、出て。見ると、貧血に」

 帯刀は血液とかグロテスクなものを苦手としている。なのに切り傷を見てしまったのか。そうとわかれば、僕も対処できそうだ。

「帯刀、立てる?」

 僕は帯刀の肩を支えるが、全然力が入っていないようでとても立てない。背後に回り込んで脇を抱え、どうにか起立の姿勢だけ作らせる。そのまま水道の蛇口を開け、手を出させた。後ろから袖口を捲り上げるこの行為はいつしか帯刀にしてあげたことがあった。黄色のニットから細っこくて真っ白な腕が覗く。

「目は瞑ってろ」

 僕が言うと従順にもその通りにした。まったく、いつもこう素直なら可愛げがあるものを。帯刀に両手を離させると、左手人差し指の第一関節と第二関節の真ん中に真っ直ぐ切り傷が入っていて、血が滲み出てきた。こっちまで気分悪くなりそうだ。僕は帯刀の左手を取り、血まみれの箇所を中心にすすぐ。右手も血の跡が残っていたので洗ってやった。

「とりあえずそのまま水に。立っていられる? 絆創膏はどこ?」

 僕が訊くと比較的すぐ返答した。

「テレビの横に、救急箱がある」

 僕は帯刀を心配しつつも、ジェンガを抜いた後のようにそっと手を離してテレビの所へ行き、急ぎで絆創膏を取って来る。帯刀の手を取り、キッチンペーパーで拭い、絆創膏を傷口に合わせて貼った。反対側の手の水も拭いてあげて、我ながらかなり甲斐甲斐しく治療してあげたなと思い、一瞬目を逸らした隙に帯刀はその場に座ってしまった。

「あっ! 大丈夫? やっぱ気持ち悪い?」

 僕の慌てように少し笑顔を思い出した帯刀は一回首を横に振った。

「立てない。寝かせて」

 立てないと言う人間をどう運んだものかと思案したけど、おんぶしかないだろう。帯刀に背中を見せた。

「おぶるよ。掴まれる?」

 帯刀は力無く僕の背中に覆い被さった。首元に帯刀の乱れた呼吸を感じて必死に平静を保った。ゆっくり立ち上がる。持ち上げるのにこんなに筋力を行使するのはこいつの体重のせいか、僕の体躯のせいか。

「き、昨日のベッドまで連れて行けばいい?」

 帯刀は首を振る。肩がくすぐったい。

「そこのソファー、でいいよ」

 帯刀の言葉が耳朶を打つ。帯刀の家のソファーはふかふかで広く、帯刀なら充分体も伸ばせる。わかったからもう声を出さないでいい。

 僕は帯刀を抱えてソファーまで運搬した。普段暇なときに筋トレをする僕でも帯刀が暴れていたら自信が無いほど、しっかり帯刀の質量を肌で感じた。決して変な触り方はしていない上に記憶も曖昧だが、温かみや柔らかさは女の子のものであるなと思った。何を考えているのだろう。

「とりあえず安静にしてろ」

 僕はエプロンを脱がせて袖も元通りにしてやる。これくらい自力で済ませてくれたら良かったのに。水を頼まれて給仕もした。

「ご飯、どうしよう」

 病人には世話を焼きたくなるのが性善説を地で行った場合の本能だが、僕も儚げにそう言われたらやってやるとしか思えなかった。

「僕が代打だ。ご両親はまだ帰らないよね」

 どちらにせよ帯刀をこの状態で放っといて自宅を目指すことなどできやしない。

「確か、二時過ぎに帰るって」

 帯刀の言葉を聞いて安心する。やましいことを帯刀家のお嬢さんとした覚えこそ無いが、鉢合わせた場合には弁明に多大なる労力を強いられることは目に見えている。いたいけな娘をたぶらかされたと思った両親の怒りはさぞ深かろう。

「すぐ出来上がれば大丈夫だよね。何を作ろうとしてたの?」

 僕の問いに笑顔を作った。健気で心打つものがある。普段からこういう子ならいいのに。

「カルボナーラ」

 たぶんカルボナーラなら作れる。帯刀が用意した食材を確認すると、当たり前のごとく普通サイズのパスタがあって、まな板の上にはベーコンが敷かれている。これを切っているときに手まで切ったのか。見ると包丁は横のシンクに転がっている。他にはすでに切られたニンニクと玉ねぎが置いてある。王道なカルボナーラを作る予定だったらしい。僕は前回帯刀をして微妙と言わしめたペペロンチーノを提供したため、さながらリベンジマッチの意気込みである。弱っている相手に復讐というのも大人気ないが、貧血ならすぐ回復するだろう。とにかく美味しいと吐かせるのが目標だ。

 湯を沸かす。その間に冷蔵庫を開帳する。かなり充実していて、買い物担当が有能なのだと知れた。たぶん生クリームを入れるので、生クリームのパックを取り出す。うちには無い物の一つだ。準備がいいのか、日常的にこんな物を使うくらい精神と懐が豊かな家庭なのか。鶏卵も取り出す。その量だが四人家族で三パック常備はなかなかやり過ぎではないのか。帯刀栞という大消費者がいるせいかもしれない。消費期限の早いものを四つほど選んでおく。そのうちにパスタを鍋に突っ込む頃合いになったので塩と共に入れて、同時進行でベーコンを細かく切り分ける。フライパンを準備して火加減を調整しながら食材を炒めて火を止め、ボウルでクリームや卵などを混ぜ合わせる。忘れていたけどスライスチーズを目分量で入れる。それをフライパンで合わせるが、そのときに引き揚げておいたパスタも同様に。パスタは前回柔らかすぎたかなと思ったので、パッケージの記載より三十秒程短く茹でた。フライパンで全ての素材を混ぜ、コショウを振りまぶしていい香りを感じたところで火を止める。丁度良かったのではないか。皿を食器棚から出し、使っていた菜箸で二人分の盛り付けを完成させる。僕が腰に手を当てると、帯刀が反応した。

「出来たの?」

 今にも消え入りそうな弱々しい声だった。

「まあ、ちょっと待て」

 まだフライパンが稼働中なのだ。僕は蓋を開けて中を覗く。そこには爛々と光る目玉焼きの二つ眼が僕を見つめていた。半熟のはずだ。フライ返しで一つずつ掬って、カルボナーラの上に載せた。きっとカロリーが高い。帯刀が正月太りで膨れた姿を始業式に見られる可能性がぐんと上昇した。僕は皿をソファー前の脚の低いテーブルに置く。あとはフォークとスプーンを置いて、空になっていたコップはオレンジジュースで満たした。

「帯刀、出来たよ」

 僕がなるべく柔和な声で言うと、目を開いて口元を弛ませた。

「いい匂い」

 多少は顔色も良くなったのか? 僕はカーペットに座る。帯刀もゆったりとした動作で下に座って髪を手櫛で直した。

「お腹は減ってるんだ」

 そいつは良かった。僕は手を合わせる。そういや帯刀と昨日の晩ご飯から三食連続で食べていた。こんなの初めてのことだ。

「いただきます。ありがとう、唯都くん」

 むずがゆい。帯刀は普段ありきたりな感謝の言葉は述べない。病人はたちが悪い。

「召し上がってくれ」

 帯刀はくるくるとパスタを巻いていく。口に運んで咀嚼する。少し緊張する。僕は気にしないフリを装って食べる。胡椒を更に効かせてもいい。帯刀はどういう評価をくれるだろうか。ドキドキする感覚があった。

「悔しいけど私のより美味しい。歯ごたえがいいし、ソースが滑らかで味が厚っこくないのね。唯都くんの味付け好きかも」

 そうして輝いた目を僕に向けた。輝いていたのは僕の完全な主観かもしれない。背後の昼の白光が帯刀を綺麗に映し出していたからでもあるのかな。自然光は見映えが向上するっていうし。僕の口から出た返事は照れ隠しのようになって、逆に不利になってしまった。

「慣れだよ」

 帯刀に微笑まれた。ムカつく。だがそれ以外に気付いたことがある。

「帯刀、食欲無いなら無理しないで。残したら僕が食べるよ」

 真っ先に目玉焼きを割ってないのを見ていた。いつもの調子でないことがバレバレだ。

「でも美味しいから食欲不振も吹っ飛ぶよ」

 何言ってる。こっちは胸元にゲロを吐かれたら堪らないから心配してるってのに。

「あっほら。唯都くん、美味しいって聞くたび口が弛んでるぞ」

 元気が戻ってきたらすぐこの憎まれ口。帯刀とは本当に相性が悪い。僕からも反撃する。

「うるさい。年明けにクラスメイトが驚くから体型には気を遣った方がいい」

 睨まれた。そして何事かをぶつぶつ一人ごちている。

「私、好きな男子がいる間なら痩せる努力もできるのにな」

 意味がわからない。考えても面倒臭い。話題を変えよう。

「僕らは昨日からとんでもない食生活してるね」

 帯刀は僕の切り替えに不満げだ。そっちもよく変な話題持ち込むからおあいこだろう。

「蕎麦、ピザ、寿司、餅、伊達巻きで昼にはカルボナーラって調子じゃん」

 帯刀は麺を飲み込んでから答える。

「いいんだよ。現代はぐろーばるな時代なんだから。食文化なんて形骸化してるの。和食の国の日本人がチーズを大量にかければ美味しいと信奉してるくらいだからね。好きな所で好きな物を食べるりべらりずむを謳歌しないともったいないよ」

 そうなのだろうか。ジュースをぐいと飲む。

「私は残りの人生、自由奔放に生きるわ」

 帯刀の表情が砕けた。帯刀にはその笑顔が似合っていると思う。

「そうも自由に安住できないと思う。来週から学校だ」

 僕自身にその実感が沸かないのであるが、あれだけ待ち焦がれていた冬期休暇も終了を迎える。いたずらに惰眠を貪らず、帯刀と予定を作って会っておけばまだ有効な消化ができたかもしれない。為したことと言えば、家事と睡眠と読書くらいであった。

「私は学校に行ってもいいよ。ことさら自由の侵害になるとは思えないもの」

 そうかな。学校は規律が存在して拘束されるし、上下関係に合わせた協調的な行動を要請されるから不自由の象徴だと思うのだが。

「僕にはのんびり帯刀と過ごす方が性に合ってる。社会は目まぐるしくて苦手」

 帯刀は首を傾げた。次にパスタを大口開けて運び込む。

「つまりはニートになりたいってこと?」

 流石の僕でもそれはないだろう。宝くじでも当たればなっても良さそうなものだが。

「そうじゃないけど学校は面倒だって言った」

 帯刀は唇を曲げて溜息をついた。そして半分だけ残った皿を僕に向けて押す。目線でどうしたと訊くと、お腹をタップして言った。

「あとは全部任せた」

 僕が一・五人前を平らげ、立ち上がろうとする帯刀をもちろん比喩で地べたに縛り付けてから皿を洗うと、ついには帰宅の時間がやって来たということを理解した。非常に充実した二日間だったから、もし一年の半時が外界では流れていても大して驚くことはないように思う。帯刀のお節介によりコートを羽織らせてもらい、玄関のノブに手を掛けて最後の挨拶をした。

「じゃあね。はあ、ガッカリだな」

 帯刀は意外なことに悲しみを顔に称えた。僕が唖然とすると、両手を広げて見せる。

「何だよ。帰るね」

「最後は素っ気ないのね」

 声が小さい。手は引っ込めない。

「お別れのハ・グはしないの?」

 今頃新年を祝い終えて寝静まっているだろうオランダの州都を指していないのなら抱擁の提案をされたらしい。恋人同士ならしてもいいが欧米人ではあるまいし、なにせそういう気分でもなかった。

「遠慮するよ」

 苦笑された。

「もうちょっと残念そうな顔してよ」

 どんな顔をしているかは無意識のときに自覚は少ない。

「また会えるよ、帯刀」

「うん。さようなら、唯都くん」

 僕は頷いてドアを開けた。真冬の風が一気に家に吹き込んで来た。僕は一度振り返ってからドアを閉める。玄関前の階段を降りて、駅に向けて歩き出す。帯刀家の駐車場にある空の空間を見送った以外、さして家の外装などは確認しなかった。駅の建物が見えてくる辺りで家のあった方向を向くと、いつの日か乗った観覧車のてっぺんが見えた。それくらいだった。上り電車に十分弱乗ったけど、その間も何も考えてなかったと思う。考えていたと仮定しても覚えておくほどのことは無かったと断言する。電車は初詣や初売り客であろう様々な年齢層の乗客で溢れんばかりだった。家に着いて着替えてからは無性に寝っ転がりたくなり、そもそも僕がそういう性質を抱えた生物なのかもしれないが、欲求の赴くままにした。無音のリビングのソファーに倒れるようにうつ伏せになる。

 ──違った。眠くはない。感傷というものか。寂しさが胸を穿って風穴を開けていたのだ。何かを考え出したら鬱になりそうだった。今は帯刀の目の前ではないから素直に認めよう。あと少し一緒にいたかった。

 帯刀の家にあって自分の家に無いもの。それは生活だったと思う。

 僕らがしたことは何だったか。食事であり、入浴であり、皿洗いで、排泄で、睡眠で、料理で、洗濯であった。あと強いて付け加えるなら直接的接触くらいか。これ全てが人間の動物的側面を表象している。生物が生きるために要求されること。人は物を食べるし、食べれば出す物があるし、自らや道具を汚すから清潔を保とうとする。また帯刀と僕の経験とは無関係であることを断っておくが、人間の異性同士は接触することで生殖を行い、それも含めて動物的と言える。

 対概念として文化がある。帯刀とした談笑はこちらだろうか。他にテレビ鑑賞、読書、絵画、スポーツが挙げられる。生物が生きる上で必須では無いことである。

 僕は文化を重視して生活を軽視していた。文化の中に仕方なく生活を挟んでいると考える。文化的なものは感覚の快い箇所を求めた結果である。反対にどうしても動物的なものには人間の嫌うところが介在する。汚さや面倒、場合によっては痛みや生死に関わるクリティカルな部分もある。特徴として感覚に対して良くも悪くも刺激があるものだ。美味しさや不美味さ、馥郁や悪臭を感じることなどがそうだ。更にそういったものは時間を食うから現代ではますます忌避される。だから便利な道具が開発されるのだろう。手を汚さず時短で衣食住を完遂したいという意欲は僕らが身近に感じるところではないか。

 僕は現代人として生活面を削ぎ落としたいと思っていたのではないか。文化を重視したかったのでは。料理や洗濯なんかは義務であって排泄や入浴は時間の浪費。本を読み、友人と交流するのは高尚なことだから時間を充てたい。

 帯刀と過ごして見方が変わった。生活にこそ充実があった。生きている実感なのだとわかった。帯刀とご飯を食べたこと。風呂で帯刀のことを考えてぼんやりしたこと。帯刀の体温に触れたこと。そこに独りでいるだけでは感じなかった満足感があった。これが温かな気持ちだったのではないか。

 自宅に帰れば失うものがきっとあったのだ。帯刀あってこその生活だった。心を通低で浸透させ合う相手がいなくちゃ、心は文化に逃避する。帯刀がいないとあんな仕事は忘れようとする。帯刀が待っていたから僕はご飯を真面目に用意した。だるくても楽しく食事することをイメージできたから家事は面倒事ではなくなった。帯刀の家にいるときは間断無く楽しめた。

『満足できた? 僕は満足した』

 僕は気付いたら帯刀にメッセージを送信していた。ほとんど衝動的に打ち込んだから文面が恥ずかしいものになった。僕は慎重に言葉を紡がないと明日には後悔することがよくある。返事はずいぶん遅くて、こちらが午睡をかましてから届いた。

『唯都くんの愛を感じる』

 ふざけてるのかな。僕は笑った。そう言えば、愛は生活なのか文化なのか。

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