9月3日
騒がしい朝の通勤時間ではあるが、僕らは静かだった。一緒に登校しようと言われた僕は身構えてはいたのだが、予想に反して帯刀は無言。何か話題があるのかと思った。二人して何も喋らず駅の出口へ向かう。帯刀はちらちらとこちらを窺っている。背丈は僕より五センチほど低い。僕は目線を四十五度下に向けている。気まずくはないのだろうか。はっきり言ってこういう空気は苦手だ。
クラスの中で帯刀はとりわけ目立つ人じゃない。特異な名字だから四月の自己紹介で全員の二度見を誘ったとき照れ笑いを浮かべていた記憶が何となくある。よく笑っているのを見かけるし、印象はどちらかと言えば明るい。男子と話す場面も何度か見たことあるので、こうして他の男子と登校することも無いことは無いのだろう。
だけどなぜ僕を誘うのかよくわからなかった。僕は帯刀と会話した経験が無い。あくまで推測だが帯刀は僕を変人として誘ったのではないだろうか。僕は高校に友人を持っていなかった。入学して五カ月、声を掛けられたら愛想よく答えているので気を遣って話してくれるのもいるが、友人と呼べるほどの人はいない。僕は友人が要らないという訳ではないが積極的に欲しくもないというスタンスでいるので当然といえば当然だと思う。だが、それを周囲からどう受け取られているか気掛かりではあった。
結局、駅では一緒に歩いただけだった。帯刀は外に出ると「コンビニに寄る」と言って駅前で二、三分僕を待たせた。普段ならあり得ない待ち時間が生まれる。屋外は酷暑だった七月に比較すれば、日光にフィルターがかかったようで日射しが怖く感じない。今年の夏は暑さに殺されると思えるほど酷かった。だからこれくらいの残暑はどうってことない——と感じる体には流石になれない。待つ間、街路樹の陰でも汗だくになる。
帯刀はコンビニの袋を戦果のように掲げて登場した。袋は小さく、パンやお菓子などを買っただけのように見える。そして僕のいる木陰に体の半分が入るくらい近づいてにっと笑った。顔が近いのを嫌がって半歩下がる。こっちは汗をかいているんだ。
「よし、行こう」
充足感のある表情。僕は軽く頷いてぐいぐい進む帯刀の半歩後ろを付いて歩く。周囲の人や車が心なしか急いているようだ。そのほとんどは駅に向かうため、僕らとは逆方向に流れていく。
「ねえ帯刀さん、何買ったの?」
興味があった訳では無いけれど、訊いて欲しそうだったので訊いてみた。
「えへへ。たまごパン」
やはり嬉しい様子。
「一緒に行くんじゃないの? 歩くの速い」
帯刀は僕を斜め背後にして話している。追い付かせてくれない。
「いきなりだけど公園寄らない?」
僕の要求には応えず、突拍子も無いことを提案した。後から気付くのだが帯刀は基本、まともに話を聞かない。帯刀は笑顔で言った。
「朝ごはん食べたい」
僕らは二席しか無い公園のブランコを占拠していた。住宅街の中にポツリと置かれた公園なのでこれと滑り台以外目立った遊具もない。人も僕らしかいなかった。網状のフェンスの外で小学生がちらほら歩いているのだけ見える。彼らからはどう思われるのだろうか。
帯刀は袋からパンを取り出して、はむっと食いつき、美味いと呟く。話もせずに食事を隣で眺めるというのもよろしくない気がする。
「朝ごはん食べてないの?」
「食いっぱぐれて」
パンを見つめたまま答える。夏休み型の生活に慣れると寝坊がちになるのはわかる。
「でもさ、家で食べる時間あったよね」
僕らは登校するには少し早い時間に到着している。今は八時七分。ホームルームまであと二十三分。食べる時間くらいあっただろう。
「時間はあったよ。だけどお母さんが寝坊して朝ごはん用意できないって言われたの」
母親が朝ごはん作っているようだ。僕は両親の仕事が忙しいとき朝食や夕食を作るから、咄嗟にぴんとこなかった。帯刀はもぐもぐ食べ進めている。女子にしてはハイペースな気がした。こうして観察するのも悪いので。
「そう言えばどうして学校で食べないの?」
「朝から食べてるのをクラスメイトに見られたくないんだー。恥ずかしいでしょ」
今度はこちらに目線を向けてはにかむ。朝から弁当を広げている運動部の男子はいるが、女子は気にして食べられないのか、なるほど難儀だ。いや、なるほどではない。
「僕は、その、クラスメイトにはカウントされてないのかな」
すると帯刀は今度こそ手を止め、咀嚼を止め、可哀想なものを見る目を向けた。
「常磐くんがクラスに友達がいないからといってもそれはないよ」
やはりそう思われていた。僕はブランコを漕ぎ始め、地面を蹴っ飛ばす。手前に置いてある自分のリュックに砂が被って溜息をついた。落胆しているが会話を中断するのも失礼なので質問を続けようと思う。
「でも僕の前で食べているよね?」
帯刀は笑った。ブランコが上下に小気味良く揺れる。何がおかしいのか。こっちは切実なのに。
「だって一人きりで公園で食べてたらおかしいでしょ」
質問を回避された気分がする。大方ご飯は食べたいがそれをクラスメイトに吹聴するようなやつと一緒は嫌なので、丁度良く現れた無害で話す友人もいない僕に頼んだという訳だろう。力になれて良かった。
この時点で帯刀はパンを半分食べている。ゆで卵とマヨネーズを混ぜ、コッペパンに挟み込んだシンプルなもの。それを美味そうに頬張るのでこちらの腹が減ってくる。眺めていたので「食べる?」と気を遣わせてしまった。僕は滑り台に乗ることにした。
ブランコの前にある膝高さの柵を跨ぎ、下まで向かう。滑り台はブランコ側からすると側面を見せるように位置している。
金属製でスケルトンの足場をかーんかーんと打ち鳴らして登ってゆく。もちろん子供向けに設計されているので手すりが低くて恐怖を煽られる。そして頂点に立ってみると意外と高い。下手に落下すればそれなりの痛みを伴うだろう。
「楽しい?」
帯刀が訊いてくる。声を張る必要はないが、顔を上げて一応耳に届きやすいようにしてくれる。僕は頷いて、肯定。
「あのさ、仲のいい友達いる?」
同じ声量で言った。いきなりで驚いた。僕は答えに窮する。
「もしかして、言いづらいことがあるの?」
僕が答えないのを見ても帯刀は笑顔だった。たぶんこの質問に悪気はない。無邪気に何も考えず疑問をぶつけただけだ。実を言うと、こういった質問されたのは人生で初めてではない。彼女のような根が明るい人間は、僕のようにまるきり異なる人間に、どうしてそんなに大人しいの? とか、何で喋らないの? とか直球で尋ねる。僕は大体困って終わるけど、相手側は決して僕を貶めようと言っていないのだ。今の帯刀もきっとそう。
「うーん、難しいな」
僕は愛想だけは保とうと思って笑顔を浮かべる。帯刀はパンを一口食べた。どうしようか。真正面から返答すべきなのか。とりあえず滑ろう。制服が汚れるのを恐れ、腰を浮かせ、手すりに手を当てながら滑ったので、しばしば止まりつつゆっくり滑り下りた。
「ははは! シュール」
笑い者になるのは不本意だが、童心に返る心持ちだ。そう言えば小学生以来だ。僕はブランコの方に歩いて行き、帯刀の前の柵に座った。
「僕、人見知りなんだ」
帯刀は不思議なものを見た顔をする。
「そんなこと……。私だって人見知りだよ」
僅かに語気を強めた。君は今更何を言ってるんだ、というニュアンスのようだ。
「私も初めて話す人だと緊張するし、上手く話せない」
こういう人はよくいる。喋り上手な人に限って人見知りだと自称する。嘘ではないのだろう。そりゃそうだ、誰しも他人と交わるのは恐い。どうやら帯刀の満足する答えではなかった。もちろん僕が人見知りというのは間違いではない。ただ、それが根本的な原因かと訊かれると少し違う。しかし僕が本音を出したところで相手はどう思うだろう。出会って早々重たい話をするやつは嫌いにならないだろうか。帯刀をもう一度見る。にこにこしている。どうでも構わないか。
「誰かと一緒にいると、意図しない形で傷付けることがある。それが嫌になった。きっかけみたいなものもあってやめた。僕は良好な関係を他人と作るのに向いてない」
言い終えてすぐ足元を向いた。帯刀のリュックに靴がぶつかりそうなのに気が付いて足を避ける。
「ふーん。同じだ」
「同じ?」
「同じだなぁと思って! 私もね、向こうがどんだけ仲良しでも、親友でも変な空気になること言ったり、今の発言をこういう風に捉えれば悪口に聞こえたかもな、とか考えると一日中忘れられないの。お風呂とかベッドでもそのことが頭から離れなくて。向こうはきっとそんなの何とも思ってないはずなのにね」
驚いた。僕の考えをそのまま帯刀が口にした。帯刀も僕と同じなのだろうか。僕は勝手に帯刀を異なる人種のようにみなしていた。でも違った。帯刀は色々な人と関わり、相手を見て傷付いていた。僕は大いに反省する。きっとほとんどの人は帯刀と同じで毎日たくさんの人と交わり、傷付き、でも逃げていない。口にしないだけだとやっと気付く。
知性の深さというものを感じることがある。僕が知性と呼ぶものはあえて換言すると物事を深く考える力だ。物事を考えるにあたって、どれほど深く考えるか。物事を多方面から考証するか。例えば一対一で口論をしたとき。なぜ彼はあの主張をしたのか。意見の相違点は何だったのかを考える。それをどれだけ慎重に細かく追究できるかが知性の深度を決めるものだと思う。勉強と知性は関係無い。逆に模範解答があるものに慣れると深く追究せず、解答とされるものに到達した時点で思考を中断する癖がつくから、知性が一定程度で止まってる人が多い気もする。もちろん物事について考えを進めるにあたって、ある程度の論の進め方、検証の仕方を学んでいる必要はあるから小学生や言葉を得ていない人は知性が浅くなるだろう。かと言って学力と知性は比例しない。
僕は今まで自分と同程度の深度を持つ人間に会ったことが無かった。周囲の人は自分ほど物事を深く考えているとは思えなかった。一時的な感情で動いている風に見える。僕は少しくらい信念や境界線を持っていて、感情だけで動かない。
でも先ほどの帯刀は僕と同じ深度の悩みを話した。初めて直接そんな言葉をぶつけられた。周りの人は僕が知らなかっただけで、実は知性を育んでいたのではないかと思えた。確かめてみたいと思った。僕が勝手に塞ぎ込んでいただけかもしれない。たとえそうでなくとも、帯刀はきっと同じだ。
「話してくれてありがとう」
僕がそう呟くと、「こっちの科白だよ」と笑顔で答えてくれる。なんだか胸が軽くなった。実際量ってもらってもいい。本当に胸がすく気分だ。帯刀はパンをあと二口ほどで食べきれそうである。僕はリュックを背負うために底を手ではらう。
「そうだ常磐くん、下の名前何だっけ?」
頬張りながら言うので聞き取りづらかったが、恐らくこうだった。僕は答える。
「唯都(ゆいと)」
「そっか。常磐唯都くんか。いい名前だね」
そう言われた経験はあんまり無かったし、取り立てていい名前とも思わない。
「『唯都くん』って呼んでもいいかな?」
そのときは帯刀とのこれからの関係など予想していなかったので適当に了承した。
「私のこと『栞』って呼んでいいよ! クラスの女子みたいに『しおちゃん』でもいいし」
「遠慮しとく。『帯刀』にするよ」
女子を下の名前で呼ぶのは慣れていなかった。帯刀はごちそうさまをし、滑り台を一回滑って登校する準備を完了させた。学校まではすぐで、通学路に復帰すると視界に入る生徒の数が段々と増えてくる。僕は帯刀の隣で学校のことを話しながら歩く。帯刀は歩くペースが早いので尚更汗をかく。
「そう言えば、今週文化祭でしょ? 唯都くんも皆と仲良くなるチャンスじゃん」
確かに今週の金曜と土曜には文化祭だ。今日は月曜で、木曜まで準備である。
「皆と仲良くなりたい訳じゃない。適当に過ごそうと思ってる」
帯刀は不満そうに頬を膨らませる。
「そんなんだから。一緒に見て回ろうね」
一度汗を拭う。独りの僕への気遣いだろうか。希望としては静かに過ごしていたい。
「あと準備も手伝ってもらわないと! うちの男子はまともに仕事しそうなのいないし」
思わず溜息が漏れる。帯刀にクラスで頼まれて、上手く断る自分が想像できない。だけど、文化祭の出し物の内容も知らない僕に何をしろというのだろう。
「あと、当日は──」
「栞! おはよ」
大声が背後でしたので、驚きを隠せず振り返ると、色白で精悍な顔付きの男子がいた。帯刀が「お、おはよー」とこちらは目を見開いて返答していた。一緒に登校するのかなと思い「じゃあ」と言って先に行くことにする。帯刀は笑って手を振った。
教室に着くと相変わらずの喧騒だった。運良く獲得した窓際の自席に座る。静かな窓際は好きであるが、夏は良くない。カーテンが閉まっていても窓から強烈な熱気が来て、冷房の効果が半減するのだ。リュックを机に引っ掛けて頬杖をつき、カーテンをぼんやり見つめる。どっと疲れが押し寄せる。それからなぜこんなことが起きたのか回想した。今日はいきなりスマホを落として、それから。その時点で気付いた。僕は朝から憂鬱に苛まれていたのだった。もうそんな感情は綺麗さっぱり無い。この意味で彼女には感謝すべきだと思う。やがて帯刀も教室に来る。昼頃にラインが来た。
『よろしくね! (笑顔のマーク)』
「しお」のユーザー名でウサギのアイコンから送られてきたその文意を僕はわかりかねる。何に対しての挨拶だろうか。一応返す。
『こちらこそ、よろしく』
すぐ既読がついて、教室の手前の席にいた帯刀が僕に微笑みかける。僕は苦笑いして顔を背けた。帯刀はスマホを机に置いて何かの本を読んでいたようだった。
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