第三場 大階段室

 舞台にはW大学図書館大階段室の舞台装置。絵画「明暗」が背景正面に掲げられている。

 田宮と男は図書館の閲覧室には入らず、大階段室に留まっている。上手に田宮が立ち、下手に男がベンチに座っている。二人は階段を挟んで対話する。


田宮「君はさっき記憶喪失だといっていたが、本当ならやっかいだ。病院に行った方がいい」

男「そうだな……」

田宮「住んでいる場所も分からないのか」

男「さっき目が覚めたばかりだから、ここでの生活などまったく何も……」


 田宮は訝しそうに男を見る。


田宮「どうも話がうまく繋がらないな。本当に記憶があやふやなようだ。頭を強く打っていたりしないか」


 男はゆっくりと腕を持ち上げ、自分の頭をさすって傷がないか確かめる。


男「コブもケガもなさそうだ」

田宮「それでもやはり病院に。生憎俺は金の持ち合わせがないが、西野は持っているだろう。西野が戻るまでここで少し休めばいい」

男「そうだな……。ああ、すまない、今日の日付を教えてくれないか」

田宮「一九七二年の三月三十一日」

男「一九七二年?」


 男は反射的に自分の手を見下ろし、ひどく驚いた表情で手の甲の皮膚をなでさする。恐る恐る自分の頬にも触れ、そしてゆっくりと田宮の顔を見る。


男「……今から五十年前?」

田宮「何を言っているんだ」

男「まさか! そんな!」

田宮「今は一九七二年。先月は札幌で冬季オリンピックが開催された」

男「スキーのジャンプ競技で日本人選手が表彰台を独占した、んだったな」

田宮「なんだ、知っているじゃないか。テレビに映し出される華やかで勇壮なスポーツの祭典。一方で、日本全国の大学では革命的暴力を謳う活動家たちが締め出されるようになった」

男「そうだ、それは同じ時代の出来事だった」

田宮「そして群馬県の山地に追い詰められた活動家たちは、地元住民の通報によって行われた山狩りにより全て、一人残らず逮捕された」


 男、大きく息をのむ。


男「それは、それは、僕が知っている事実とは……違う!」


 舞台暗転。

 スポットライトは田宮と男のみをそれぞれ舞台の上に照らし出す。


田宮「彼らの活動は既に政治的主張とはかけ離れ、ただの原始的な暴力が支配する集団に変わり果てていた。あのまま放置しておけば、よりひどい事件を起こしていたに違いない」

男「……あさま山荘事件は」

田宮「あさま山荘? あの辺りの山小屋のことか? 人が少ないから、動物に食料を取られるくらいだろう。事件と呼ばれるような何か、起きたのか」

男「連合赤軍という団体は」

田宮「そんな団体は知らないな。軍とは軍隊のことか? 物騒な名前だな。そんな名称は学生には受け入れられないだろう。今は言論を武器にした学生運動が盛り上がっている」

男「……安田講堂の封鎖解除は、学生運動減衰の切っ掛けにはならなかったのか」

田宮「安田講堂が封鎖? なんだそれは。確かに一時期、東大内には暴力的な思想を持った学生が集まっていたが、彼らは全て大学から排除された。いい加減、平穏を求める学生の数が意外と多かったんだ。俺と西野はその声を拾い集め、大学事務局や警察と連携を取った。西野の人脈は広かったし、機動隊は実によく働いてくれたよ」

男「では……!」


 田宮は苛立たし気に手を振るが、それは心からのものではない。もともと他人と議論することを好む田宮はいっそう乗り気に熱を入れて男との対話を続ける。


田宮「どうも君と話していると話が食い違う。君が当然と考えているその知識は、いったいどこで学んだものなんだ」

男「自ら学ばなくても、人から聞かなくても、僕自身に元から備わっている知識だ。常識だ」

田宮「君の言う常識と俺の常識がどうやら違っているから困惑しているんだ。常識という言葉は、事実を定義する言葉として最も効力が薄い言葉だ、安易に使わない方がいい」

男「……この後、どんなことが起きると、君は予想している?」

田宮「漠然とした質問だな。せめて範囲を決めよう。日本のこれからか、世界のこれからか」

男「どちらも、だ」


 田宮は腕を組み、少しの間考えるそぶりを見せる。十数秒後、組んでいた腕を解いて男の顔を正面から見る。


田宮「日本は文化の親子である中華人民共和国と、朝鮮半島を統一した朝鮮民主主義人民共和国とともに、近代社会主義国家の模範となる国になるだろう」

男「日本が? 社会主義国家の模範に?」

田宮「それだけではない。ソヴィエト連邦の社会主義が完成されれば、アジア大陸は社会主義一色に染められることになる。そしていずれ社会主義と資本主義が正面から衝突する第三次世界大戦が勃発し、今度こそ日本は欧米に、世界に、勝利する」

男「間違っている! 君の言うことは間違っている! 僕の知っている歴史とは……!」

田宮「君の知っている歴史とは、アメリカやイギリスのように一部の富豪や特権階級が権力を持つようになる資本主義型民主主義が席巻する世界のことか」

男「日本も、その一部だ」

田宮「仮にそんな世界が実現したとしよう。だが民主主義が世界を覆えば、この世の中に争いはなくなるのか」

男「争いをしてはならないという各国の倫理を、互いに尊重しあうことで平和が実現している」

田宮「君の知っているというその歴史の先、一九九〇年を過ぎても、二〇〇〇年を過ぎても、昭和という時代が終わっても、第三次世界大戦は絶対に起きないというのか」

男「それは……」

田宮「君の知る世界では、資本の力によって西側と東側の軋轢は収束し、世界は一つにまとまったのか。争いは火種を残すことなく、すべてが鎮火されたのか」

男「……それは」

 

 舞台床にスライド画像が投影される。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アイルランド紛争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、天安門事件、9.11同時多発テロなど。このスライドには開演される時代によって適宜新しい画像を用いるようにする。


 スライド終了後、舞台暗転。

 再びスポットライトが点灯するが、その間に田宮は退場しており、舞台上には男しかいない。


男「ここは、過去の世界なのか。けれど、僕の知っている世界の過去じゃない。僕がいたのは二〇二二年の三月三十一日、確かS駅で地下鉄を下り、その先のY通りを渡ろうとしていた。大学の教授と会う約束の時間が過ぎていたから、信号機が点滅を始めていた横断歩道を走って渡ろうとして、そして……」


 車のクラクション音とブレーキの音。男は強く頭を振る。


男「ここは……、生まれ変わった先の異世界? そんな荒唐無稽な創作話のようなことがあるのだろうか。それとも意識を失っている間に見ている邯鄲の夢なのだろうか。あるいは、僕の記憶の、いや、いつか僕が思索したことがある“もし”、の世界に入り込んでしまったのだろうか」


 照明が次第に舞台中央の絵画「明暗」を照らしていく。


男「誰かの思考実験が現実となった世界」


 絵画「明暗」にあたる照明と、男を照らすライトの照度が同じ強さになる。


男「どのような道を選んでも、どのような思想に従っても、あの大戦後に人類が辿る結末は大して変わらないというのだろうか。決められた未来を僕たちは生きるしかないのか。だがそれは、それではあまりにも救いがない。……それとも、この世界の先には、僕が知る世界とは異なる未来があるのだろうか。……あるいは、もっと悲惨な結末が待ち受けているのだろうか」


 男は上手をしばらく見据えたのち、早足で舞台下手へと退場する。

 舞台上には絵画「明暗」のみが照明で照らされて浮かび上がる。

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