28.

「は?何だって?」

 書類に落としていた視線を上げ、問いかけた王太子ウィリアムの表情は怪訝なものだった。

「平民の流出が相次いでいるようです」

 同じ言葉を繰り返した男は王太子の同級生であり、学園卒業後は一番の側近となった侯爵家の嫡男である。

 伯爵令嬢の元婚約者ではなく、他家の男だった。

 伯爵令嬢の元婚約者は三つ年上で宰相補佐官として働いており、令嬢の学園卒業を待つ身であったが破棄をされ、「せめてもの詫びに」と王太子の側近の一人、伯爵令息の妹を婚約者としてあてがわれた為、また学園卒業まで婚姻を待たされる日々を送っている。

「どういうことだ?」

「文化庁にいる友人の話なのですが、平民学校に入学する児童の数が少なすぎることに疑問を持った役人が、確認をしたのだそうです。そうしたら転出の届けも出さず、一家揃って国外に出て行っていると。しかも大量に」

「…何故だ?別に飢饉もなければ天災もない。魔獣の襲撃などありえないし、平民同士で戦争でもしたか」

「いいえ、そんな報告は上がっていません。ただ帝国寄りの郊外に住む住民のほとんどが、帝国へ移住しているようでして」

「帝国で条件のいい働き口でもあるのか」

「さぁ…」

「王都の平民は?」

「まだ表立って目立つ人数ではありませんが、移住をしている者は確かにいるようです」

「ふーん」

「…殿下?いかがなさいますか?」

「放っておけばいいだろ」

「…よろしいのですか?」

 驚いたように目を瞠る側近に、王太子は不快げに眉を顰めた。

「平民ごとき、いなくなったところで誰も困らん。それに全員いなくなることなんてないだろ。平民でも稼いでいる奴はいるからな」

「かしこまりました。陛下には…」

「文化庁の奴らが動いているなら、向こうが報告するだろ?俺の仕事を増やすな」

「御意」

 卒業から二ヶ月が経過し、側近達は皆王太子の側に張り付くだけでなく、将来の王の頭脳となるべく各省庁に派遣され、下っ端仕事から真面目に働かされていた。

 学生時代は王太子の側にいるだけであらゆる特権が享受でき、社会を舐め腐っていた側近達は、各省庁に回されその権威が通用せず、それどころか「無能」のレッテルを貼られかけ必死に働き始めていた。

 各省庁には、歴代公爵家のマニュアルが行き届いており、その通りに仕事をすることで今まで問題なくやってきた。国を動かす手足となるべき官僚が役立たずでは回らない。大臣は上位貴族の独占でありお飾りだが最低限、事務方の人間は優秀でなければならないという方針の元、建国の頃よりやってきたのであった。

 幸い不測の事態が起こることもなく、何か問題が起きそうになれば事前に公爵家が全て秘密裏に処理をしていた為、この国の誰もが「我が国は平和で安泰。官僚は優秀で、任せておけば安心」と思い暮らしているのである。

 公爵家が各国の官僚制度の良い所を取り入れ、長年かけて練り上げてきた成果であることを、この国の民はもはや誰も知らなかった。

 側近の男はその報告のみをしに来たようで、さっさと退出していった後には集中力の切れた王太子が、茶を飲みながら溜息をついていた。

 最近、父である陛下の機嫌が最悪なのだった。

 終始険しい表情で無言を通し、時折舌打ちを漏らしたかと思えば所作も荒々しく、何かに苛立っているようだがその理由は誰にも話さない。

 母である王妃は怖がってしまって側に近寄らなくなってしまったし、食事も別々になってしまった。

 父と二人の食事の時間がどれだけ苦痛であることか。

 言葉はないものの、鋭く睨みつけられ身が竦むのである。

 今まで公爵家が担っていた外交と貿易は、分散して貴族が担うことになった。

 貿易は婚約者である伯爵令嬢の父が我が国最大商社の会長であるから任せ、外交は外務大臣が元々いるのだから任せることにした。

 魔虹石の利権は王家の手に入り、陛下は本来であれば左団扇で満面の笑みを浮かべていてもおかしくないはずなのだ。

 一月程前から様子がおかしくなり、最近では視線が合えば殴られるのではないかとすら恐怖する日々である。

 我が国は官僚が優秀である上に平和であり問題も少ない。山積みの書類に追われて休む暇もない、などということはない。王太子はデスクの上に乗った数枚の書類を見やり、今日中に処理するのは容易だと結論づけて休憩することにした。

 伯爵令嬢の妃教育が始まっており、毎日朝から晩までみっちりと学んでいるだろう彼女を労ってやろうと歩き出すが、その足取りは重かった。 

 婚約者の顔を見る度、元公爵令嬢の顔が思い浮かぶようになってしまったのだった。


 誰だ、あいつがブスだなんて言ったのは?


 眼鏡を外し、前髪を上げたその顔は信じられない程に美しかった。

 キラキラと輝く虹色の瞳はしっとりとした潤いを感じさせ、頬は血色の良いピンク色、唇はぷるんと弾けんばかりの輝きと艶やかさで、長い睫が瞬きする度誘惑されているのかと錯覚する程。

 たった一瞬見ただけの元婚約者の素顔が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。

 伯爵令嬢の顔を見ても、こんなに平凡だっただろうかと思う。

 身体を見れば、あいつの胸はもっと豊かだったと思ってしまう。

 思えば、あいつの身体に触れたのは、学園に入る前、王家主催の舞踏会でエスコートをし、ダンスを踊った時以来である。

 学園に入ってからは伯爵令嬢を伴っていた為、あいつが何をしていたかなど記憶にない。

 あんなに美しいのに、何故隠していたのか。

 今まであいつの体型など興味すら持たなかったが、いつの間にあんなに魅力的な肉体になっていたのか。

 王太子は自分の言動のせい、などとは思いもしない。

 ただひたすら、惜しいことをした、何故隠していた、という思いだけがぐるぐると頭を巡る。

「あっ、ウィル様!来て下さったのですね!」

「やぁベル、休憩か?」

「え…あ、はい。休憩ですのよ」

「?そうか」

 婚約したとはいえ、まだ王宮に彼女の部屋は与えられていない為、教育用にと王家の居住エリアに近い、上等客室の一つが与えられていた。

 泊まることはなく、ここに教師を招いて学ぶのである。

 今伯爵令嬢についている教師達の多くは、母である王妃に妃教育を行ったベテラン達であり、母は彼女達を信頼し一任していた。

 母は妃教育を終えるまで学園卒業から六年かかったという話だが、六年も待てない。

 彼女には三年以内に終わらせて欲しいと伝えており、彼女もそれを了承していた。

 教育は詰め込まねばならず厳しいものだと聞いていたが、伯爵令嬢は弱音も吐かず王太子の前ではいつも笑顔を見せていた。

 まだ始めて二ヶ月、進捗はゼロに等しいと聞いているが、優秀な彼女ならきっとやり遂げてくれるだろうと、信じていた。


 そう、信じていたのだが。


 諦めたような無表情に近い微笑を浮かべて王太子に挨拶をし、退出していく教師の後ろ姿は、どこか疲れているように見えた。

 母には逐一報告がいっているようだが、最近は母もまた同じような表情を浮かべて「彼女との茶会は当分なくていいわ」と言うのである。

 まだ二ヶ月。

 二ヶ月だ。

 期限まではまだあるのだからそんな評価をしなくとも、と思うのだが、共に部屋で茶を飲んでいると、細かい仕草や作法が気になるのだった。

 思えば母から公爵令嬢の礼儀作法や妃教育について、一言も聞いたことはなかったと思い出す。

 興味がなかったせいもあるが、お気に入りで可愛がっている伯爵令嬢に対してすら「茶会はいい」と言う王妃が、公爵令嬢については苦言を聞いたことがない。

 聞くのはいつも容姿のこと、家のこと、そして王太子に好かれようと努力をしない生意気な娘だということだった。

 母のことだ。大嫌いな公爵家の娘なのだから礼儀一つあげつらい、気に入らなければ文句を言うに違いないのに、それがなかったと思えば、確かに彼女は学園に入る頃には妃教育は終えており、何も教えることはないと母が信頼する教師達に言わしめた実績があるのだった。

 今まで、気にしたこともなかった。

 学園で常に伯爵令嬢といたけれども、礼儀作法など当たり前のことすぎて視界にも入れていなかった。

 伯爵令嬢としての礼儀ならば悪くないのかもしれないが、王家の…この国最高権力者には、それに足るだけの礼儀も作法も必要である。

 もちろん、教養も。

 他国との付き合いは公爵家に一任していたから全くと言っていい程ないが、それでも知識は必要である。

 学園で習うのは最低限であるから、まだまだ彼女が学ばねばならないことは多い。

「先生は皆厳しい方ばかりで…でもわたくし、頑張ります。王太子妃になるのはわたくしですもの!」

「…ああ、うん、頑張ってくれ」

 元婚約者に、こんな言葉をかけた記憶はなかった。

 そもそも、まともに会話をしたことがあっただろうか?


 思い出してみても、それすらも、記憶になかった。


 あんなに美しいことを知っていたら、殴ったりしなかったのに。

「そういえばウィル様、皇国からの希少な茶葉は、もう全て飲んでしまわれましたの?」

 無邪気に問うてくる令嬢に、ああ、と頷く。

「まだ少し残っているよ。せっかくだから飲もうか」

「嬉しいです!最近国産の茶葉しか飲んでいませんのよ。やはり外国産は香りが違いますものね!」

「そうだね」

 こんな風に、普通に会話をすれば良かった。

 目の前の婚約者が色褪せて見える。


 もっと華やかで。

 もっとお淑やかで。

 もっと美しい。


 皇国産の茶葉は確か、公爵家から献上された物だったか。

 希少で数が用意できず、毎年各国の王家に贈ったら後は限られた者しか飲むことが出来ないという特級茶葉である。

 毎年贈られる物は両親が飲み、最初の一杯だけは食事の際王太子にも振る舞ってくれるという本当に貴重な物だが、公爵家からの献上品は父が息子にとくれたのだった。

「普段飲みたくても飲めんだろう。王になれば飲めるようになるが、せっかくの機会だ」

 と渡された物だ。

 王太子もまたそんな希少な茶葉をすぐ飲み干してしまう気になれず、少しずつ飲んでいたのだった。


「ああ、やはりとても美味しいですわね!」


 この茶葉は、そんな簡単に飲んでいいものじゃない。

「そうだね」

 次は年末から来年にかけて贈られてくるだろう。王太子は一杯は飲めるだろうが、彼女は王家に嫁がない限り飲む機会はないだろう。


 元婚約者が嫁いで来たなら、毎年公爵家から献上されて飲めたのだろうけれど。  


 なんとかして元婚約者を連れ戻せないものかと考え始める王太子だったが、悶々と過ごしてさらに一ヶ月後、ついに父である王から王太子は殴られ、床に転がることとなったのだった。

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