8.

 エレミアが学園と王太子妃教育を休むようになってから一週間。

 バージル王国王太子ウィリアムは全く変わらぬ日常を送っていた。

 婚約者がいようがいまいが関係ない。むしろいない方がうっとうしい存在を視界に入れなくて済む分、気が楽であった。

 エレミアが欠席を始めた初日、学園から王宮へと戻った王太子は王に呼ばれて執務室へと赴いた。

 ソファを勧められることもなく、デスクの前に立った息子に王は一言、声をかけた。

「公爵令嬢に何かしたか」

 端的に問われた内容に一瞬理解が及ばず、王太子は首を傾げた。

「…何か、とは何でしょうか?」

「おまえと婚約者との仲が、よろしくないことは周知の事実だぞ」

「…何をおっしゃるかと思えば…」

 書類から目を離すことなく、王は小さくため息をついた。

「おまえの婚約と婚姻は生まれる前から決まっている。不満があることは理解しているが、王太子としての役目だと心得ろ」

 顔を上げ、諭すような口調に王太子は眉を顰めた。

「理解することと、受け入れることは別です」

「…ウィリアム…」

「公爵家の娘と結婚したら、私は後宮を持つこともできません。愛する相手と過ごすことも出来ず、あの女と添い遂げなければならないのですよ」

 父王は愛する女を正妃として娶り、さらに後宮には側妃として五人も囲っているのだった。好きな女を侍らせることが出来ている男に、自分の苦しみなどわからない。

 そう言いたげな目線を受けて、さすがに王は同情した。

「気持ちはわかるが…決まりなのだ。仕方ないだろう」

「何故そんな決まりが必要なのですか?破ったらどうなるのですか?」

「…我が国は、あの公爵家の外交によって富を得ている。世界に流通している魔虹石の九割が我が国産であることは知っているだろう。販路を開拓し、他国から侵略されないよう舵取りをしているのはあの家なのだ。定期的に王家に血を入れることで、他国へ牽制している。…決まりを破るということは、公爵家を我が国に縛り付ける理由を失うということなんだぞ」

「王家に血を入れずとも、公爵家が存在していれば問題はないのでは?」

「王家に血を入れるということは、公爵家に対する人質の意味を持つのだ。…それくらいは理解できると思っていたが…」

 蟀谷を抑えて溜息をつく父に、王太子も同じように溜息をつき両手を広げて見せた。

「父上、逆に考えて下さい。公爵家は、我が国の魔虹石を取り扱える立場であるからこそ、他国と外交が出来るのですよ」

「…それが?」

「公爵家を通さず、王家と、王家に忠実な貴族家が魔虹石の販売をすればいいではありませんか」

 名案だと言わんばかりの得意げな王太子に、王はさらに盛大な溜息で返して見せた。

「馬鹿め。それが出来るならとうにやっている。魔虹石が採れる鉱山は、公爵家の所有なのだ」

「…えっ全てですか?」

「おまえは今まで何を学んで来たのだ…?」

「あ、いえ、その…」

「公爵家は鉱山以外の領地を持たぬし、政治への口出しもしない。外交を担っているといっても、役職があるわけでもない。外務大臣は別にいる」

「……」

 ようやく話を聞く姿勢を見せた息子に頷いて、王は立ち上がりようやくソファを勧めた。

 息子が腰かけ、向かいに王も腰かける。

「公的な役職を持たぬから、公爵家には俸禄もない。国からの援助や補助もない。鉱山で採れた魔虹石の売り上げの六割は、国庫に入る」

「六割…!?」

「あの公爵家は鉱山を所有しているとはいえ、維持や人件費、輸送費などで魔虹石の利益はたいしたことがない。あの公爵家が今も存在していられるのは、他国との貿易のおかげであって、我が国からの恩恵は何もないのだ」

「…知りませんでした」

「己の婚約者の家のことなど、真っ先に知っておくべき事柄だと思うがな。公爵家にとって、我が国の貴族である意味は鉱山を所有している、という一点にしかないのだ。鉱山の権利を持ったまま他国に行かれて見ろ、我が国は終わりだ」

「……」

「だから、四代ごとに王家に血を入れる必要があるのだ。理解できたら婚約者を大切に扱ってやるのだな」

「そんな、無理です」

「何故だ」

「僕にはすでに愛する人がいます。それにあの女は陰気で気持ち悪くて、近くにいられると苛々するのです…」

「…それを何とかするのが婚約者の仕事だろうが」

「父上はあの女のことを知らないからそんなことが言えるのです!!」

「…ウィリアム…」

「あの女と婚姻しなければならないと考えるだけで、虫酸が走る思いです。…どうして僕は、愛する人と一緒になれないのですか…!!」

「……」

 たった一人の息子を、王もまた溺愛していた。

 自分は好きな女を囲っている自覚もあった。

 息子に不自由を強いなければならない立場に、心苦しい思いがあったことも事実であった。

 だから王は、話してしまったのだった。

「…四代前の王太子は、形ばかりの婚姻をした。初夜後の儀式を済ませた後、公爵家の娘は死んだ」

「それは…どうしてですか?」

「儀式は公爵家の娘と二人で行わねばならぬ為、婚姻はした。だが王太子は他の娘を愛していた。初夜は愛する娘と行った」

「そんなことが可能だなんて…!…で、その儀式というのは?」

「我が国の主要な特産品と言えば魔虹石とドラゴン・ハートだが…。鉱山の安泰と、国の安寧を夫婦となった二人が祭壇で祈るのだ」

「公爵家の娘は何故死んだのですか?」

「『夫婦』となっていない二人が儀式を行った為、神の怒りを買ったのだろうと言われている。娘が死んだだけで王太子にも王家にも、その後側妃として入った子爵令嬢にも不幸はなかったようだがな」

「では…!初夜を行わずに儀式を行えば、公爵家の娘だけが死ぬ…?」

「…そうなるな」

「ならば!婚姻しても構いません!…いや、でもやはり正妃となるのはベルでなければ…」

「おい…正妃にするのはさすがに無理だ」

 考え込んでいた王太子が顔を上げ、笑みを浮かべた。

 何かを思いついたようなそれに、王は怪訝に眉を顰める。

「どうした」

「父上、そのことは公爵家は当然知っていますよね?」

「無論。儀式の場には夫婦だけではなく、終了を見届ける王も宰相も公爵もいる」

「では公爵にこう言ってみてはどうでしょう。「王太子は公爵家の娘と婚姻しても初夜は行わない。だが儀式は行う」と」

「…おい、ウィリアム、それはさすがにまずいぞ」

「娘を死なせたくなければ鉱山を渡し、婚約破棄を受け入れろと」

「……」

 そんな非道は許されない。

 まるで娘の命を盾に、要求を通そうとする凶悪犯のようではないか。

 相手は王家と対等とされる公爵家なのだ。

 ごねられるに決まっているし、脅迫だと訴えられたら勝ち目はない。

 あからさまに顔を顰めた父を見て、王太子は宥めるように両手を上下に振って見せた。

「父上、考えてもみて下さい。公爵家の利権…鉱山の所有権を王家に移すことが出来れば、公爵家と繋がっている意味もなくなるとは思いませんか?」

「それはそうだが…いや、儀式は建国の頃より続いている神聖なものだ。神の怒りもある。なくすわけにはいかん」

「ですが、娘が死んでも何もなかったのでしょう?現に百年近く経ちますが、我が国は平和で、とても豊かです。何も困ったことなんてないではありませんか」

「……」

「『夫婦』の祈りが必要ならば、別に公爵家の娘でなくともいいでしょう。王宮にある祭壇なのですから、神は王太子の望みを叶えて下さったのでは?」

「…いや、だが」

 躊躇する父に、息子はここぞと畳みかける。

「この国と、四代ごとに生まれる王太子の為です。愛してもいない相手を、唯一として迎えなければならないなんて、本当に不幸だとは思われませんか」

「…公爵家の娘と、歩み寄ることはできないのか」

「無理です。婚約破棄できないなら、婚姻後死んでもらいます」

「…さすがに何の罪もない娘を死なせる、という選択は推奨できん」

「では婚約破棄を、お願いします」

 王太子は勝った、と思ったし、王は可愛い息子の為に出来ることはしてやりたいと思うようになっていた。

「…考えてはおこう。公爵家の娘は卒業まで体調不良で学園を休むそうだ。王太子妃教育もすでに終えている為、王宮へ来ることも辞す、ということだ」

「顔を見なくて済むなら清々します。ならば卒業パーティーで、堂々と婚約破棄を突きつけようと思います」

「もっと穏便に済ませればいいではないか」

「それはいけません。我が国の民達に、今までの公爵家の横暴を伝え、王家は屈しないという所を見せなければ。あちらは王家と対等の関係だ、と思い上がっているようですが、王家が上であることを思い知らせてやるのです」

「…とにかく、話はしよう」

「どうぞよろしくお願い致します、父上。公爵家から解放されるのです。父上と僕は、後世必ずや感謝されることでしょう!」

「…手続きが終わるまでは、公言せぬように」

「もちろんです!」


 建国神話を知らぬわけではなかったが、この国の民…特に貴族は忘れていた。

 何故この国が豊かでいられるのかを。

 最も恩恵を受けているのは王家であるにも関わらず、都合の良い上澄みだけを享受して今まで来てしまったのだった。

 執務室で交わされる会話に、物申す者はいない。

 王家を筆頭とした上層部は、すでに公爵家の存在を取るに足らぬ物と認識していたのだった。

 

「ウィル様」

 授業を終え、伯爵令嬢はいつものように王太子と腕を組む。

 もはや婚約者の存在などないかのように、学園内では相思相愛のカップルのように振る舞っていた。

「不快な奴がいないから、最近食事が美味しいよ」

「わかります、わたくしもそうですもの」

「視界に入るなと言っているのに、ちらちらと入り込んでくる様が羽虫のようで本当に不愉快だった」

「ふふ、ずっと欠席だと嬉しいですわね」

「卒業まで来なくていいよ」

 こちらは事情など知らぬのだという体を取る。

 向こうの都合で勝手に休んでいるのだから、こちらが気にかけてやる必要もない。

「むしろ、そろそろ君が王太子妃教育を始めた方がいいかもしれない」

「まぁ、そんな、…よろしいんですの…?」

 頬を赤く染め、恥ずかしそうな上目遣いに王太子は気分が良くなる。

「本心を言えば今すぐにでも、と言いたい所なんだが、やはり卒業までは待たないといけないだろうな…忌々しいよ」

「でも、嬉しいです。卒業したらウィル様とずっと一緒にいられるようになるのですね…」

「もう少し、我慢しておくれ」

「はい…!」

 王族専用サロンで、放課後の中庭で。

 二人の世界を作り、そして誰も咎めることはしないのだった。  

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