番外編

約束の時

「ふぅ、やっとゆっくりできるね」

「お疲れ様、あなた」

 執務を終えた旦那様にメイドの代わりにお茶を淹れてあげて手渡す。温かい飲み物で多少リラックスできたのか、彼は深くソファに凭れかかった。

「あの子は元気かな?」

「ええ。とてもやんちゃで元気に走り回っているわ。一体誰に似たのかしら?」

「あはは、間違いなく君だろうね」

「まぁ」

 クスクスと楽しそうに笑みをこぼす彼に、わたくしも同じように笑みを浮かべる。無事に出産できた我が子はすくすくと成長している最中だ。

 夫婦水入らずの時間をお互いゆっくりと過ごす。彼の元へ嫁いで来てからやることが多くてお互いバタバタしてしまっていて、こうした時間を過ごせるのが実は少ない。でもきっと、元王子の彼の元へ嫁いでいたらこんな時間すらなかったかもしれない。

 彼は、ノアとは幼い頃王家主催のパーティーで出会った。お互い顔を合わせ軽く挨拶した程度でしかなかったけれど、第一印象は随分と気の弱そうな子だと思った。親の後ろに隠れて挨拶する声も小さくて。彼が嫡子というのだからセンティード家は今後大丈夫なのかといらない心配をしたりして。

 けれどわたくしが王子の婚約者として決まってからも、彼は意外にも社交の場でこまめに話しかけてきて気にかけてくれていた。周りはわたくしを敵視する者ばかりで、そんなわたくしを不憫に思ってのことだったのかもしれない。けれど、孤立しそうになるわたくしを放ってはおかない彼には優しさがあった。

 彼はすでに父親の手伝いをしていたため学園に在籍してはいなかった。けれど手紙のやり取りを何度かして、学園で起こった騒動を耳に挟んだのかその時は心配しているという旨を綴った手紙も寄越してくれた。

 そうして、王子との婚約破棄が成立して真っ先に婚約を名乗り出たのが彼だった。

「実は君のことずっと好きだったんだ。王子の婚約者となってから諦めようとしたんだけど……僕のしつこさが功を奏したみたいだ」

 結婚したあとに彼は照れながらそう告げた。彼がわたくしに想いを寄せているとはなんとなく気付いていたけれど、ずっと想っていてくれていたなんて。

 王子の不祥事が原因だったとはいえ一度婚約破棄をされた身。そんなわたくしを娶りたいと思う男性なんて出てこないと思っていたのに。彼は家柄など関係なく、わたくしの幸せだけを考えていてくれていた。

 喜ぶわたくしの両親や使用人に祝われる中、本当は……とても複雑な心境だったことをわたくしは誰にも告げてはいない。

「なかなか傍にいれる時間が少なくてごめんね……本当はちゃんと守ってあげたいんだけど」

「いいえ、そこまであなたの手を煩わせるわけにはいかないわ。自分に降りかかる火の粉ぐらい自分で振り払うから」

「君は相変わらず強いね、アリシャ」

 喉を潤す彼のティーカップに紅茶を注いであげる。学園の騒動でも少しは頼ってほしかったなと眉を下げる彼に、「そこまでしなくても」と出そうになった言葉は喉の奥に飲み込んだ。そんなこと言ってしまえば彼は傷付いた表情をすると思ったから。

「ねぇアリシャ、実はずっと言いたかったことがあるんだ」

「何かしら?」

 改めて言いたいことあったのかしら、と思いつつ首を傾げながら彼の次の言葉を待つ。

「……アリシャは、僕が好きで結婚したわけじゃないだろう?」

 思わず息を呑みこんだ。何かを言わなければならないのに、わたくしの思考は綺麗に停止してしまい連動するように動きも止めてしまった。

 そんなわたくしに、ノアは緩く微笑んだ。

「いいんだよ、君は悪くない。君はただ貴族の娘として役目を全うしようと僕と結婚する道を選んだだけだ。立派だよ、君は。それに仕方のないことだと僕もわかっている。貴族では、想いを寄せている人と添い遂げるのはまずできない」

「……そうよ。フィーリア家のために貴方と結婚したの」

「はっきり物事を言ってくれる君が好きだよ、アリシャ。ありがとう」

「でも勘違いしないで。誰でもいいわけではなかったの」

 わかっている、わたくしは悪くないと言ってくれているけれど。彼の僅かに震えている手に気付いていないわけがない。傷付けているのはわかっている。ノアと結婚したらこうなることはわかっていた。けれど、それでも勘違いしないでほしいと震える手に自分の手を重ねた。

「わたくしは貴方をとても信頼しているの。ずっとずっと、わたくしを気にかけてくれていたのは貴方だけだったわ。貴方でなければわたくし、婚約を断っていたもの」

「アリシャ……」

「そうでなければ、子を成そうとも思わなかったわ?! わたくしは貴方と同じ気持ちを返すことはできないけれど、それでも貴方を支えたい一緒に幸せになりたいと思っているのよ!」

 都合のいいことを言っているってわかっている。けれど、恋愛の意味はなくてもわたくしはノアを愛している。日々庶民のために心を砕き寄り添い力になろうとしている彼の傍、そんな彼を支えたいその夢を応援したいと思っていた。いや、今でもずっとその気持ちはこの胸にある。

「……ごめんね、アリシャ。謝らなければならないのは僕のほうなんだ。君の気持ちを知っておきながら、君の立場を利用して僕は君に婚約を申し込んだんだ。とても卑怯な男なんだよ」

「いいえ……貴方もまた、貴族という立場で苦しんでいたはずだわ。わたくしたちは、同じなのよ」

 この告白をするまで、きっとノアは苦悩の日々を過ごしていたはず。こうやって打ち明けるのにも勇気がいったはず。

 彼の手を強く握りしめれば、更にそんなわたくしの手を彼は上から包んでくれる。

「アリシャ、一つ約束してほしい」

「何かしら」

「君が、貴族としての役目を果たしたあと……心のままに自由に過ごしてほしいんだ。傍にいたかった人と一緒にいてほしい。自分の気持ちを内に押し込めないで。僕は、君が幸せならそれで幸せなんだ」

「……なんて無欲な人なの」

「君をこうして手に入れた時点で無欲な人間ではないよ」

 彼はそう言って微笑み、「食べようか?」とテーブルに置かれていたデザートに視線を向けた。疲労していてそして甘党の彼のためにと準備をしていたものだ。

「ねぇノア。わたくしのことをなんでも知っているようだけれど、もしかして……」

「ああ、君の想い人? うん、わかっているよ。だって君はわかりやすいから」

「なっ……!」

「あははっ! そんなに心配しなくても、君がわかりやすいのは彼の前だけだよ」

 クリームたっぷり盛ってあるケーキを口に運び、嬉しそうな顔をしながら彼は何事もなくそう口にした。いいえそれでも、聞きたいことはたくさんある。そんな、いつから気付いていたのとか、そんなにも彼を前にするとそんなにわたくしはわかりやすいのかと。

 色々と聞きたいのにうまく頭が回らない。わたくしこんなに頭の回転が悪い女だったかしら。ノアはというと、置かれているケーキを美味しい美味しいと嬉しそうにパクパク食べているだけ。

「……そんなにだったかしら」

「そうだよ? そうでなければ護衛騎士として真っ先に自分の傍に置こうとは思わないだろう?」

「……!」

「彼のこといつも目で追っているし」

「……?!」

「傍にいるといつも嬉しそうな顔をしている」

「……参ったわ、降参よ」

「君を言い負かしたのはこれが初めてだ!」

 なんでノアがそんなに嬉しそうなのよ、と苦笑しつつわたくしも同じようにケーキを口に運ぶ。彼のとは違ってこちらは多少甘さ控えめだけれど。

「でもわかるよ。彼は同性の僕から見ても格好良く、立派な人だ」

「まぁ、本当にそう思う? 目に涙を浮かべる女性に手を差し伸べない薄情な男よ?」

「それで君は決心したんだろう? 彼もわかっていたんだよ、君の背中を押してくれたんだ」

「……わかっているわ」

 若干不貞腐れたところでノアは楽しそうに笑うだけ。気の弱い、けれど優しい人だとは思っていたけれど、やはりそこは貴族。強かな部分もあるに決まっている。

 でも気付いていたのならば、これからはいくらでも愚痴を聞いてもらおうかしらねと彼に口角を上げてみせれば今度は苦笑が返ってきた。


 そうして夫婦仲は順調に進み穏やかな日々を過ごしていた。それは貴族として多少の荒波に揉まれはしたけれど、ノアとだったから乗り越えることもできた。

 そんなノアも心労が祟ったのか、いいえ、元からそう身体が丈夫なほうではなかった。そのためか、彼は息子に跡を継いだあとまるで役目を終えたと言わんばかりに先にこの世を去ってしまった。

 もちろん、悲しかった。つらかった。だって彼のことを愛していたのだから。半身がいなくなったような、ぽかりと空いた穴はしばらくの間埋まることはなかった。最近徐々に埋まるようになってきたのは、我が子たちが子を成して幸せな家庭を築いてくれているから。

 そしていつでもどんな時でも、わたくしの傍に立っていてくれる存在がいたから。

 結局彼は家庭を持つことはなかった。お嫁さんをもらって幸せな家庭を築いていてくれていたら、わたくしだって多少は諦めることができたのに。彼は一切わたくしを楽にさせてはくれなかった。

 目の前で子どもたちが楽しく大きく遊んでいる。みんなとても丈夫に育っている。幼い頃から外で目一杯遊んで体力をつけていたおかげだろう。怪我はするけれど、それをちゃんと擦り傷程度に抑えてくれている。

「ノア、貴方との約束……果たしてもいいかしら?」

 わたくしが最後に貴方にできることは、貴方との約束を果たすこと。手元にある、綺麗に磨かれているわたくしが授けた剣をゆるりと撫でる。彼はたった一度も折ることも刃こぼれもすることもなく、大切に扱っているのがわかる。

 そうして賑やかに駆けつけてきた孫たちと、そして目が合った彼の表情を見て、わたくしは思わず癖で頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。

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