「彼」
次の日、私は体に衝撃を感じてはっと目を覚ました。
私の目の前に、春生が立っている。
しかし何かがおかしい。穏やかなはずの彼の視線は今は冷たく私を見下ろし、しかもあろうことか私は彼に蹴り起こされたようだ。
私が戸惑って言葉を発せずにいると彼は、
「僕はもう空腹だ。世話係のくせに患者を待たせるとは、とんだうすのろだな、お前は」
と言い放った。私は突然のことに何が何だかわからなかった。
彼はそんな私を一瞥すると、
「早くしろよ」
と言い、さっさと私の部屋を出て行った。
当然私は混乱した。普段の春生とは明らかに違う態度にあの冷たい目。
―しかし落ち着いて来ると、私は一つの結論に思い至った。
その後、起床して布団をたたみ、肩まであるかないかの茶色い髪を一つに括り、洗顔をし、薄く化粧をする。
いつもの仕事体制が整った私は、8時になると朝食を持ち、春生の部屋を訪れた。
ノックをする。いつもだと春生の返事が返ってくるが、何も反応は無い。
私は緊張の面持ちで襖を開けると、そこには頬杖をつき、窓辺に寄り掛かった「彼」の姿があった。
「朝食を持ってきました」
私が言うと、彼は不機嫌そうな顔でこちらを見た。
「遅い」
先程と変わらず彼の態度はふてぶてしかった。
「朝食の時間は8時と決まっているの。私はあなたの小間使いじゃないんだから、あなたの我がままが通るとは思わないことね」
私が毅然として言うと、彼は卑屈そうに笑って、こちらに近付いてきた。
「思ったより強気なんだな。「あいつ」には随分優しく接していたようだけど」
「あなたは「唯人」ね。・・・あと、手厚い対応が受けたかったら、あなたもそれ相応の態度を取ることね。あと、職員の部屋への入室は禁止よ。」
私達は近距離で対峙した。唯人は愉快そうな目で、私はきつい表情で、相手を見据えた。
やがて唯人がふっと笑った。彼の笑いは、春生のような穏やかなものでは一切なく、常に卑屈な笑い方だった。
「別に僕は手厚い介護なんか望んでいない。僕は僕の好きなようにさせてもらう。」
と言って、彼は私から朝食のトレーを奪い取ると、しっし、と手振りで私を追い払った。なんて態度だ。私は溜息をついて、彼の部屋をあとにした。
「唯人」が表に出てきたことで、医師側はこれ幸いとばかりに彼の治療にあたろうとしたが、唯人は全くもって治療を受ける気が無いようだった。医師が彼の部屋を訪ね、問診を試みようとするが、何を聞かれても唯人はそっぽを向いて、「さあ?」とか「知らないね」と言うばかりで、医師達を困らせた。
多重人格を直接治す薬は存在しないので、唯人が治療に協力的でないことには、医師達もお手上げ状態だった。
当然、治療を受ける気がないのであれば、何故彼は表に出て来たのだろうという疑問がスタッフ達の間で上がっていた。
そして唯人は、私に対しても依然として傲慢な態度を取り続けた。
彼が出て来てから一週間程経った日、朝食を持って行った私に彼は言った。
「ここは本当に患者を治療する気があるのか?
家は古いし、蜘蛛の巣はあるし、ロクな空調も付いていない。僕だったらずっとこんな所に居たら心が休まらないよ」
つらつらと述べ連ねる彼に、私は言い返した。
「前にも言いましたけどね、あなた達はお客様じゃないの。旅館じゃないんだから、少しは我慢して」
すると唯人は頬杖をつきながらふっと笑って私を見た。
「お前本当に見た目より気が強いんだな。僕といい勝負だ」
「あなたに勝っても嬉しくありません。・・・それと、私には明智みやって名前があるの。春生さんだった時にあなたも聞いたでしょ?お前呼ばわりはやめて」
「僕の勝手だ」
私は深い溜息をついた。これ以上の論争は無駄なようだ。
「大体、あなたここに居るのが嫌で治療も受ける気がないのなら、どうして表に出てきたの?みんな不思議がってるわよ」
私が尋ねると、意外にも彼は黙り込んでしまった。そして不機嫌そうな顔でそっぽを向き、頬杖をついた。
「答える必要は無い」
私は再び深い溜息をついた。これはもう退散した方が良さそうだ。
私は相変わらず不機嫌そうな横顔を見せる彼を残し、部屋をあとにした。
それから更に数日が経った頃、いつものように食事を持って唯人の部屋を訪ねると、春生が以前音楽を聴くのに使っていたコンポが目に入った。
春生が使用していた時とは違い、だいぶほこりを被っていた。
「あなたは音楽を聴かないの?それとも単に掃除を怠っているだけ?」
私が聞くと、唯人は鼻をならして笑って私を見た。
「僕はあいつみたいに繊細で軟弱じゃないんだ。こんな物に用は無い」
彼は音楽を聴かないようだった。
「じゃあ、一日何をして過ごしているの?」
私は一日三回、彼に食事を持って行くが、私が部屋に入ってもいつも彼が何かをしている様子は無かった。
せめて唯人が何を好きかが知れれば彼との距離を縮められるかもしれないと思ったが、返ってきた返事は「お前には関係無い」といつものように身も蓋もない発言だった。
私は何度目かわからない深い溜息をついた。その時、彼の白い服に水色の糸が付いているのが見えた。
「これ、付いてたわよ」
私が糸を取ると、彼はすぐにそれをひったくってゴミ箱に捨てた。お礼の一つも言えないものかと私はまた心の中で溜息をつきながら、彼の部屋を去った。
唯人が現れてから二週間ほど経ったある日、私は休日だった為、ずっと自室にこもっていた。
休日と言っても住み込みの勤務でずっと古民家にいるため、あまり休んだ気にはならなかった。
加えて、昨日は私が受け持っている、もう一人の患者の十六歳の男の子が癇癪を起こし、自分の部屋のカーテンを破いてしまったため、それの補修を今日私がやらなければいけなく取り掛かっていたが、そこまで手先が器用ではない私はやや苦戦していた。
その時、自室のふすまが勢い良く開いた。驚いた私が振り返ると、そこには唯人が立っていた。
彼が私の部屋を勝手に開けたのはこれが二回目だった。何の変哲もない古民家で各部屋に鍵などないので、これからは突っかえ棒でもしておかないと駄目かしら、と私はぼんやり考えた。
「何よ、突然」
私が怪訝そうに尋ねると、唯人は憮然とした表情で、
「お前が来ないから、からかう相手が居なくて退屈してたんだ」
「私の勤務表は最初に渡したはずよ。あなたって本当に書類に目を通さないのね」
彼は私の勤務表どころか、療養所の決まりにも目を通していないようだった。彼は平気で施設内の細かい決まり事を破っていた。
「私は今日非番なのよ。だからあなたの相手をする義務はないわ」
私が冷たく言い放つと、彼は私の手元のカーテンを見下ろして、くすっと笑った。
「それにしては雑用をやらされてるようじゃないか。休みの日も働かせるなんて、ブラックな職場だな、ここは」
「あなたがもっと従順ならもう少しホワイトになるわ。邪魔しに来ただけなら帰って」
私が再び冷たく言うと、唯人は真顔になって再び私の手元を見下ろした。
そして私からカーテンと針を奪い取ると、驚いている私をよそに針を動かし始めた。その手つきは素早くかつ滑らかで、あっけにとられている私を置いてどんどんと縫い進めていった。そして何分ともかからないうちに縫い終わってしまった。私が縫った箇所はシワが寄っていたが、彼が縫った部分は綺麗で、縫ったことなどわからない出来ばえだった。
「すごい・・・随分手慣れているのね」
「お前は見た目より不器用なんだな」
彼はいつも通りの減らず口だった。しかし、私はあることに思い至った。
「貴方、一人の時はいつも裁縫をやっているんじゃないの?
だいぶ手慣れているし、この前服に付いていた糸はその時付いたものなんじゃなくて?」
私が問うと、彼は無表情で黙り込んだ。
図星のようだったが、私は彼の意外な一面を知れて少し嬉しくなった。
「春生さんのことを繊細だって馬鹿にしてるから、裁縫をしてるって知られたくなかったのね。それで私が来る前にいつも片付けていたんだわ」
そのせいで私が訪ねて行くといつも部屋に何もなかったのだ。
私が問い詰めると、彼はそっぽを向いてしまった。
「助けてやったんだから、明日の朝食は豪華にするんだ。いいな」
そうして、出て行ってしまった。
この頃、私と唯人は依然として友好的な言葉は交わさなかったものの、会話の棘は前よりも無くなり、軽口を叩き合うような感じになっていた。
春生との穏やかな会話も嫌いではなかったが、私はいつの間にか唯人とのやり取りに僅かながら心地良さを感じていた。そして、そんなことは当初予想もしていなかったので、自分でも少し驚いた。
だが、彼は多重人格の別人格。いずれは、消えなくてはいけない存在なのだ。
私はそう感じながら、無意識にそのことを頭の中からしめ出そうとしていた。
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