星逢
深雪 了
穏やかな青年
一生忘れることのできない人、刹那の想い出。
一体どれだけの人が、そういったものを抱えて生きていくのだろうか。
私の働く療養所は、木々の緑豊かな山合にあった。
そこは内面を患った人を受け入れ、サポートし、治療していくことが目的の療養所だった。患者はそこに泊まり込んで生活し、私達スタッフも住み込みで職務に当たっていた。
私の仕事は直接患者の治療をすることではなく、患者の身辺の世話をすることだった。
私と同じく身辺の世話をするスタッフが他に二人、看護師が二人、直接治療を担当する医師が二人という体制だった。
療養所がわざわざ不便な田舎にあるのは、患者により癒される環境で治療に臨んでほしいためだった。少しでも堅苦しい印象を与えない為、建物も病院のような施設ではなく、使わなくなった広い古民家を使用していた。
患者は現在五人入設していたが、今日から新たな患者が増えることになった。私だけ受け持ちの患者が一人だった為、必然的に新患者は私が担当することになった。
医師から渡された資料に目を通すと、名前の欄には緑川
正午になり、患者が到着する予定の時刻になると、私達スタッフは広間に呼び出された。そして医師に連れられて広間に入ってきた一人の青年を見た。
その人物は名前の通り春の日差しが似合うような、穏やかな雰囲気の青年だった。中性的な整った顔立ちをしていて、やや灰色がかった黒い髪が肩の上まで伸びていた。歳は二十歳の私と同じくらいか、少し上くらいに見えた。
医師に緑川君だ、と紹介を受けると、彼は頭を下げ、
「今日からお世話になります。宜しくお願いします。」
と静かに言った。とても礼儀正しそうな青年だった。
そして医師が私を差し、彼に
「彼女が君の身の回りの世話をしてくれる、明智みやさんだ」
と紹介し、私が宜しくお願いします、と言うと、緑川春生は髪と同じく灰色がかった瞳で私を見つめ、
「ご厄介になります。宜しくお願いします。」
と言った。私は直感的に、彼となら良い関係を築いていけそうだと思った。
―これが運命の出会いになろうとは、その時私は微塵も思っていなかった。
それも、その運命の出会いとは、私と緑川春生との出会いのことではなかったのである。
緑川春生の世話係となった私は、彼を彼の生活する部屋へと案内した。彼の荷物は小ぶりなスーツケースが一つと、何日かかるかわからない入院生活の割には身軽だった。
「困ったことがあったら何でも言って下さい。」
私が言うと、彼は顔を伏せ、
「何から何まですみません、明智さん」と言った。
「みやでいいわ。それと、あくまで提案なんですけど、いつも貴方のお世話をするから、早く貴方と仲良くなりたいので、敬語は無しにしませんか?
貴方の方が年上かもしれないのに、失礼なお話ですけど」
「僕は構わないよ」
私の提案に、春生は二つ返事で頷いた。
「じゃあよろしく、みやさん」
普段の彼は常人と同じ状態であったので、世話をするのに困ることは何一つ無かった。他の患者のようにできないことがあるわけでもなく、こちらが気をつけなければいけないことも何もなかった。
そして最初に私が感じた通り、春生と私は良好な関係を築いていった。温厚で礼儀正しい彼は、こちらを困らせる行動など全く起こさなかった。
ある日私が春生に食事を持って行くと、彼は自分の持ってきた小型のコンポで音楽を聴いていた。
それは歌の入っていない音だけの曲で、とても癒される曲調だった。
「その曲、あなたにぴったりね」
食事の盆を置きながら私が言うと、彼は微笑んだ。
「こういう静かな音楽を聴いているのが好きなんだ。何も考えないでいられる」
私達の間に木漏れ日のような旋律が流れた。
「考えるっていうのは・・・やっぱりもう一人の人格のこと?」
私が尋ねると、彼は少し目を伏せ、寂しげに微笑んだ。
「・・・そうだね、とても悩ましいよ。彼とは十八年くらいの付き合いなんだけど、人格の切り替えの主導権は彼が握っているんだ。僕の意思とは無関係にね。・・・だから、いつ彼が出てくるかは分からない」
春生はそこで言葉を切ると、真剣な顔で私を見た。
「彼は僕とは違う。僕のように大人しくなくて、少し凶暴なんだ。・・・だからどうか、「彼」が出てくることがあったら十分に気を付けて欲しい」
「・・・もう一人の人格には、名前はあるの?」
少し臆した私が聞くと、春生は頷いた。
「彼は自分を
私は多重人格の患者と接したことがなく、またこの穏やかな青年が粗暴になることなど想像もつかなかったので、少し困惑しながら頷いた。
春生がこの療養所に入所してきて三週間近くが経ったが、依然として唯人が出て来る様子は無かった。別の人格が出て来ないことには医師も治療の施しようが無いので、施設側としてはほとほと困っていた。
「それを狙っているんだね、彼は」
私が治療が進まないことを話題にすると、春生は目を伏せながらそう言った。
「自分が消えたくないから、治療のしようがないように、引っ込んだままなんだ。本当に困るよ」
「このままずっと出て来ないつもりなのかしら?」
私が聞くと、春生は首をかしげた。
「さあ・・・前にも言った通り、人格切替の主導権は彼が握っているからね。でも・・・ずっと奥に引っ込んでるのに退屈してある日ひょっこり出て来るかもしれない」
私は兼ねてからの疑問を口にした。
「人格がもう一人に切替わっている時でも、中にいる方の自我はあるの?」
大抵はその間の記憶が無いことがほとんどだが、稀にそうでないケースもあった。
「うん、常に意識はあるし、もう一人が見ているものや、やっていることも把握できる。だから、彼は僕を通して君のことも見ているはずだ」
そう言って、春生は灰色の瞳で私を見据えた。
私は急に恥ずかしくなった。自分の知らない誰かに今まさに見られているのだ。
「私、そろそろ行くわね」
いたたまれなくなって、私は春生の自室を後にしようとした。その時、
「みやさん」
春生に呼び止められた。振り返ると、彼は真剣なような戸惑ったような表情をしていた。
「なあに?」
私は聞いたが、しかし春生は何でもない、と言って目を伏せた。私は不思議に思いながらも、深く追求することはなく、彼の部屋を去った。
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