親友と恋人
名も無き創作家
第1話 2年目の春
一年前、彼女はキスを情熱的なものだと思っていた。甘く、熱く、そして心臓を弾ませるものであると。キス。接吻。恋人などが相手若しくは互いを求めて行う愛情表現の一種。世間的に見てもそれは祝い事であり、第三者をもってしてもキャーキャーと色めき立たせられるような衝動的情緒の原因たり得る。
たり得るのだが────
「……今する必要は無かったんじゃないかな。大家さんも見てないし」
「いつも言っているでしょう。あの人を騙すには普段からの『作り込み』が大事だよって」
今の彼女は、欠片も心を高ぶらせていなかった。
地球。
日本。
某県某市。
某名門女学園から徒歩五分圏内。
オマケに駅が近い。
そんな、学生にとって夢のような立地の賃貸住宅『白百合荘』に、去年の春、新たな入居者が訪れた。
一人は
もう一人は
前者は個人として優秀な部類だった。だが、人間は集団的な生き物だ。最終的な優劣は群れの中での性能によって決定される。端的に言って、梗ヶ咲には集団動物としての致命的欠点が存在していた。所謂男性恐怖症である。
「梗ヶ咲文さん、あなたは男性恐怖症ですよね。男性が『怖い』あなたと男性が『嫌い』な私。利害が一致しているとは思いませんか?」
それがこの関係の始まり。
白百合荘。それは少し変わった大家さんが経営する賃貸住宅。学園も駅もショッピングモールもスーパーマーケットも、およそ生活に必要そうななにもかもが周囲に揃えられた立地条件一等地区。入居条件はただ一つ。
百合カップルであること。
ここが女子校の近くであるのも、相部屋なのも、女性限定なのも、全ては百合好きな大家さんの趣味である。そんな賃貸住宅の中で、実は入居条件を満たしていない女子高生が、誰かに強制されるでもなく、負い目やお金で縛られているわけでもなく、ただ「都合が良いから」というだけの理由で偽装百合カップルをする。それがこの一年間彼女達の続けてきた行為だった。
何度も交わした熱いベーゼも、人前で口に出すことが憚られるそれ以上の行為も、出会ってからこれまでの全てがパフォーマンス──『作り物』だった。梗ヶ咲にとって剣崎はルームメイトの親友で、口では何度愛を囁き合おうとも友愛以外の感情が芽生えることはなかった。
偽装をする必要が無い学校内ではまるで長年の幼馴染みのような二人だが、実はこの子達、積年の仲というわけではない。
というか、一年前まで直接会ったことすらなかった。
地方住みの京ヶ崎文が合格発表後の住まい探しをしていたところ、剣崎から突然非対面でのコンタクトがあったのだ。彼女達は同じ学校に受かった者達とコミュニケーションを取るために、SNSの高校生活用アカウントを作成していた。同じ高校に受かった者を片っ端からお友達申請していき、入学を先んじて挨拶を交わす。その中でも特別気があった人と、入学前の不安や疑問などを交換し合うこともあった。そして彼女自身驚くような速さで打ち解け、あれよあれよと言う間に白百合荘で偽装百合カップルとして生活することになっていた。
「大家さんを誤魔化すのはちょっと面倒だけど、でもそれ以上に立地が良い。ほんと、誘ってくれた乙葉には感謝だよ」
「ふふ、どういたしまして。さ、そろそろ大家さんが帰ってくるわ。どうせ今からコンビニに行くのなら、手を繋いで出かけるところを大家さんに『偶然』見てもらうのが一番良いから」
「そうだね」
放課後、帰宅と共に半ば恒例となりつつある(梗ヶ咲曰く不本意らしい)キスという儀式で
「……なに?」
「いいえ、なにも?」
「そう? ならいいんだけど」
一瞬視線を感じた気がした梗ヶ咲だが、気のせいだったかと思い直して私服に着替える。たまにこのようなこともあるのだが、梗ヶ咲は疑問に対する執着が薄い人間なので「まあいっか」で済ませやすい。着替えはルームメイトなので当然同じ部屋だ。
「急ぐのは良いけど、気をつけてよ? 乙葉はしっかりしているように見えて変なところで抜けてるんだから」
「あ、あはは……。心配してくれてありがとね、文ちゃん」
お姉さん気質で基本しっかりしている剣崎だが、そんな彼女の愛嬌溢れる場面を京ヶ崎は沢山見てきた。例えば京ヶ崎のパンツをハンカチと間違えて彼女の鞄に入れたり、寝ぼけて京ヶ崎の布団に入り込んだり、その他うっかりで京ヶ崎の私物を汚してしまったり。汚された物は彼女が預かった後、数日を置いて京ヶ崎の手元に戻ってくる。「まるで新品だ」と毎度唸らされる京ヶ崎としては特に気にしていないが。
「でも、大家さんもほんと変わってるよね。毎日百合百合百合言ってて、飽きないのかなあ」
「確かに変わってはいるけれど、そのお陰でこうしていられる身としてはありがたい限りね。というか、文ちゃんは嫌いなの? ──女の子どうしとか」
「……まあ、最初に比べて抵抗感は減ったけど。でもやっぱりあり得ないかなあ。他人がするぶんにはいいと思うけど、自分では考えられないや」
「……ふーん」
大家さんも若い女性なんだし、他人の百合を見るくらいなら自分でやれば良いのに。なんて、そんな他愛もない会話をしながら部屋を出て庭に面した廊下を渡り、玄関に向かう。わざわざ都会のS級立地に日本家屋を建てて、それを更にアパートとして改造したというのだから、大家さんは本当に趣味に生きているんだなあ、と梗ヶ咲は入居当日に呆れさせられた。ついでに言うと、割り当てられた部屋が六畳一間と最低限の広さなのも物理的に百合カップルを近づけてイチャイチャさせるためだし、日本家屋が土台故の共有スペースの広さも大家さんが住人の百合模様を観測するためのものである。
玄関で靴を履き、手を恋人繋ぎにしながら庭を抜け、そのまま立派な門を潜る。瞬間。
「行ってらっしゃいな」
「きゃ!?」
「っ!」
目の上で切りそろえられた前髪に腰下まで落ちた後ろ髪。着物を纏ったちっこい二十代前半の女性。大家さんだ。いつの間にか背後に佇んでいた彼女が、そのまま意味ありげに微笑んで立ち去ろうとする。直前まであまりに気配を感じさせなさすぎて、忍者の末裔と言われても納得できるほどだ。まさか、本当に忍者というわけでもないだろうが。
二人と入れ替わるようにして白百合荘に入っていくその小さな背中に、すぐに戻りますと告げる剣崎。
「はいな」
今の返事からもわかるように、大家さんは見た目も中身も言動も、突き抜けて特徴的な人物なのだ。白百合荘の大家さん。本名は
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