嘘と真実と愛に鳴く
マスカレード
第1話 プロローグ
6月に入ってから気温がぐんと上がって、まるで真夏のような暑さが続いている。
美大の入試のために通う専門学校の課題をこなすため、お気に入りの映画のワンシーンをアレンジしてスケッチしていた
バタンとドアが乱暴に開かれ佑俐の部屋にも振動が伝わる。パタパタと廊下を急ぐ足音に続き、佑俐の部屋の扉がノックされ、返事をする間もなく明音が飛び込んできて、情けない声で懇願した。
「ねぇ、お兄ちゃんお願い。同人誌小説の表紙絵と挿絵を描いて欲しいの」
「はぁ? お前なぁ、美大を目指す俺に、男同士のいちゃラブの挿絵を描かせる気か?」
「だって、予定してた子が右手に怪我しちゃって描けないっていうんだもん。お願いお兄ちゃん。これだって立派な芸術だよ。お兄ちゃんの名前がみんなに知れ渡るかもしれないじゃない」
「あのな~、そっちの道を目指すならともかく、俺はまだ特定の色をつけたくないの」
二歳年下の明音が手に原稿をかかえているのを見て嫌な予感はしたのだが、まさか妹のいうところの芸術と自分の目指す絵画を同レベルにされるとは思わず、佑俐は脱力してワークチェアからずり落ちそうになった。
そもそも、妹の部屋に黙って入って消しゴムを借りたのが事の誤りで、机の上に置いてあった原稿をつい手にとってしまった佑俐にも非はある。
妹が物を書くのは知っていたから、好奇心には勝てず、これは内緒で読むチャンスとばかりに読み進めていくうちに、それがBLと呼ばれるものだと知った。
主人公のイラストレーターは、少し目じりの下がったくっきり二重の目が印象的で、その瞳は少し癖のある髪と同じように色素が薄く、ともするとハーフに見える。用紙から顔を上げてボーッとする様子は儚げでもあり、長い睫毛が落とす整った顔には中性的な色気が醸し出されている。主人公を具体的に表現した文章を読んだ佑俐は、恐る恐る壁にかかった鏡で自分の髪と目の色を確認した。
「マジか? あいつ俺を主人公にしやっがったな」
儚げと中性的な色気というのは明音の脚色だろうが、小さなころは西洋画に出てくる天使のようだと言われ、同級生たちには女の子だとからかわれた経験への反動から、勇気はわざと粗野なふるまいや言葉使いをするようになった。
それなのに、俺とよく似た容姿のイラストレーターに中性的な色気を加えるなんて許しがたい暴挙だ。続きが気になった佑俐は、買い物に出かけた妹がいつ帰ってくるかもしれない部屋でパラパラと原稿を捲った。
175cmの佑俐らしき人物の相手は、もっと背の高い水泳部のエースだと知り、こめかみがピクリとひくつく。まさかと思ったが、自分が妹の脳内で受け役にされているとは思わなかった。
「マジか~~~~っ」
確かに佑俐より五歳年上の雄々しい兄の征也と比べれば、繊細な顔だちの佑俐は中性的で女役に見えるのだろうが、他人が言うのは笑って受け流せても、身内が具体的に作品にするとなると冗談ではすまされない。
一体どこをどうみれば俺が受けなんだ! とショックから抜け出せないでいた佑俐は、明音が部屋に入ってきたことに気づくのが遅れた。
「あ~! お兄ちゃん、人の者読むなんて最低!」
恥ずかしさで真っ赤になった妹が、泣き出してしまったのを慰めるのに必死になり、佑俐は文句をつけるのを忘れてしまった。
立場が逆転して強気に出た妹が、数日後、佑俐に表紙絵と挿絵をねだりにくると知っていたら、外見を変えさせるよう強制したのに。
「お兄ちゃん偏見持ちすぎ。仮にも芸術家を目指すなら、LGBTQについて理解すべきよ。芸術家には多いって聞くもの。仕事を組む相手がゲイやレズだったらどうするつもり?」
「いや、いや、そこまで飛躍するのはおかしいだろ。LGBTQを否定したわけじゃない」
「だったら、描いてくれてもいいでしょ。人気が出たら、お兄ちゃんの実績になるんだから」
女は会話能力が男よりも優れていると聞いたことがあるが、まさに今佑俐は、二歳年下の妹に押されてその噂が正しいことを実感していた。こうなれば恩義を盾に納得のいかない部分だけ訂正させるしかない。
「描く代わりに条件がある。あの受けの男の外見を変えるか、せめて攻め役に変更しろ」
「それはダメ! 攻め役は水泳部の水島
「………う、うん。そ、そうか。受け役にそういう定義があるなら、仕方ないよな」
女王様タイプって何だ? ツンデレとはかけ離れたものなのか?
質問すれば、嬉々として語りそうな妹の話を聞く気にもなれず、さりとてこれ以上反論しても妹の饒舌に敵うわけがないと諦めた佑俐は、描くのは一度だけだと念押しをして、希望する枚数と構図を後でラインするように言い渡し、飛び跳ねて喜ぶ妹を部屋から追い払った。
数十分後に来たラインを見て後悔したのは言うまでもない。
「表紙絵は、海に上半身裸で佇む攻めと、彼シャツを片手に眩し気に彼を見つめる受け~っ?」
水泳部だから、身体は筋肉質で鍛えらえているんだろうなと想像しつつ、挿絵の要望を読む。
プールの更衣室で、偶然脱いだ攻めの姿を見て、赤面する受け。攻めの視線は脱ぎながら振り返って受けに。
「男同士でこのシチュエーションに萌えがあるのか? 俺らなんてパッパと全脱ぎして着替えるけど、真っ赤になって見てるやつなんていないぞ」
恐るべしBLと思いながら、残り三枚のあれやこれやの妄想を膨らませた要望を見て、佑俐はベッドに倒れ込んだ。
『明音~~~っ! こんなエロを俺に描けっていうのか? お兄ちゃんはお前の未来が心配になってきたぞ』
妹に送ったラインに、心配ご無用。表紙絵と挿絵をよ・ろ・し・くと速攻で返ってきた返事にため息をつき、佑俐は仕方なく、同級生の水島晧良がどんな奴かを確かめることにした。
佑俐が初めて水島晧良に会ったのは、放課後のプールサイドだった。
高校二年生でキャプテンを務める晧良は、夏休みにある競泳大会に向けて部員を指導をしている最中で、プールの反対側に立って待っている間、佑俐はじっくりと晧良を観察することができた。
水泳選手は肩幅が広く、胸筋や腹筋が発達していると言われるが、遠目から見てもでっぱった胸や、割れた腹筋が日差しによる陰影でくっきりと浮かびあがっていて彫刻のようだ。
種目によって体型に差が出るのかもしれないが、晧良は同じ逆三角形でもムキムキではなく、割と絞られた身体をしていて、男の目から見ても羨ましいほどカッコよく見える。
前に並ぶ部員たちと比べて、晧良のキュっと上がったボトムから伸びる脚は、長くてスタイルの良さが際立っていた。
こうなると絵を描く本能に火がついて、晧良一人が脳内にクローズアップされ、佑俐は指でエアースケッチを始めた。。
どのくらいたったのだろう。水泳キャップをむしり取った晧良が、髪をバサバサと指で整えながら、こちらを振り返った。
きれいに整えられた太い眉のすぐ下に、切れ長の吊り上がった目があり、野性味を帯びた彫の深い顔が佑俐に向けられる。無駄のない動きでこちらに歩いてくる様子は、さながら獲物に近づく黒豹のようだ。なぜだか佑俐は背中がぞくぞくするのを感じた。
いや、俺は獲物じゃないし。
シャンと背筋を伸ばして、迎え撃つ気概を見せようとしたが、惚れ惚れするような身体が動いているのに冷静ではいられない。今度描くときの参考にしようと佑俐の瞳が忙しなく晧良の動作を追う。だが、スルーをしたい部分が気になってしょうがない。
こいつでかいな。
海パンを盛り上げている部分を避けるように、あちこち見ていたら目が回ってきた。
ぐらりと視界が揺れて、踏ん張ろうとした素足が、水にぬれたコンクリートの床でスリップする。あっ、転ぶと思った時にがしっと腕を掴まれた。
「おい、大丈夫か? 暑い中、ずっと外にいたから、熱射病になったんじゃないか?」
目の前が翳り、頭のすぐ上から低くてよく響くいい声が降ってきて、声に気を取られていた佑俐の額に、ひんやりとした手が当てられる。
「だ、大丈夫だ。眩しくてちょっと立ち眩みをしただけだ」
体勢を立て直した佑俐よりも、晧良の身長は五、六センチほど高かった。目の前に晧良の唇と裸の上半身がドアップで飛び込んできたことに動揺し、佑俐が慌てて晧良を押し返そうとして、また足を滑らせる。今度は両腕を掴まれるはめになった。
「おい、慌てるなって。プールサイドは滑りやすいんだから」
「あ、ああ。ごめん」
手を離しても大丈夫だと言おうとした佑俐は、半袖から伸びる自分の腕を掴んだ晧良の手をまじまじと見つめた。
絵を描くことが好きな佑俐は部屋の中にいることが多く、元が色白な肌は男としてはコンプレックス以外の何物でもないけれど、陶器のように艶やかだと人から言われることがある。カップに注がれたコーヒーのように、白い腕に絡んだ晧良の陽に焼けた手が、強烈なコントラストでもって網膜に焼き付いた。
「お前白いな。見学希望って聞いたが、俺と同じ二年生だろ? みんな夏の大会が終わったら引退するけれど、そんな短期間でも入部する気はあるか?」
本当なら、芸大受験のためにスケッチを描かせてくれと頼むはずだった。
なのに、額にかかる吐息に胸が苦しくなって、佑俐はこの場を逃げ出したくなった。
「そのつもりだったんだけど、プールサイドにいるだけで立ち眩みする俺には、夏の練習は無理かも。大会の練習の邪魔をしたくないし、やっぱやめとく。軟弱な性格でごめん」
「いや、こっちこそ長く待たせてごめん。俺は水島晧良。よかったらお前の名前を教えてくれ」
「天野佑俐だ。見学させてくれてありがとう。じゃあ、時間とらせると悪いからもう行く」
佑俐は晧良から離れて、浅くなっていた呼吸を補うように深く息を吸った。
身体の緊張が解れたことにホッとして、晧良に軽く頭を下げてから歩きだした。その背中に心地よい声が届く。
「天野、また気が向いたら泳ぎに来いよ。俺の手が空いていたら教えてやるから」
一瞬、強力な磁力が働いた気がした。
すごく惹かれるけれど、しなやかな筋肉をまとった晧良の前で貧弱な身体を見せたくはない。っていうか、何で俺は、二人でプールに浸かって手取り足取りあいつに泳ぎの練習を教えてもらう絵を思い浮かべているんだろう。
俺だって少しは泳げるし、別に水泳部に入りたかったわけじゃなくて、明音のBL小説の表紙絵と挿絵を描くために、主人公の水島晧良がどんな奴なのか知りたかっただけなのに。
「ああ、泳ぎたくなったら、またその時は頼む」
そんな日は絶対来ない! と思いながら、角が立たない言葉を発した佑俐は、今度こそプールを後にした。
心の中で明音に対して、お前が変な役を俺に振るから、現実でうっかり役にはまったまま、抜けられなくなるところだったじゃないか! と毒づくが、胸のもやもやはちっとも晴れない。
書いた妹の仕業ではなく、はまりそうになったのは、佑俐自身の思考のせいだということに気づくのは、まだ後のことだった。
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