冬の日の幻想

@lancelot8585

田原総一朗がナポレオン時代にタイムスリップし、馬車に拾われて雑談する顛末

気が付くと雪の上を歩いていた。

今までの生涯でこんな雪には出くわしたことがない、そう思えるほど、美しい雪だった。まるでサラサラと流れるように舞っていく。

「何故こんな雪道を歩いているのか」田原はどうしても思い出せなかった。自分の身に付けているものを確認する。いつもの背広にネクタイ、手には新聞まで持っている。国際欄に幾つか書き込みをしているが、何のためにそれをしていたのかが、どうしても分からなかった。

周りを見回してみる。森の中のようだ。雪がこんもりと積もっており、踝のあたりまで埋まっている。酷く寒い。こんなところでこんな格好でいては凍えてしまう。

「何処か探さなくては」ふと上を見上げると、空に星が見えた。「夜だ!」慌てて周囲を見回す。夜なのに何故こんなに明るいのか。

ふと田原は少し離れた所に、明るい光源を見つけた。「街灯?」駆け寄って見ると、そこには古めかしいガス灯のような街灯が立っていた。これのせいで、夜であることにすぐ気が付かなかったのだ。

田原は雪を払いながらもう一度辺りを見回した。街灯の明かりは周囲を照らしているが、屋根のある休めそうなところは見当たらない。彼は途方に暮れた。自分が何故こんなところにいるのか、何処にいるのかも分からないのだ。

田原は街灯の明かりを眺めながら、自分がここにいる経緯を思い出そうとした。それにしても、こんな森の中に何故街灯が立っているのか。そういうことを考えていると、頭がグルグルして何も思い出せなくなってしまう。

「あっ!!」田原は思わず声を上げた。街灯の明かりが突然消えてしまったのだ。辺りは一瞬にして漆黒の闇。ただでさえ混乱していた彼は更にバニックになり、ウロウロと歩き始めた。兎も角、何処か探さなくては。

その時、パッと光が差し込んできた。さっきの街灯の暖かな明かりとは違った、赤く鋭いが仄かな光が遠くから田原の目に飛び込んできたのだ。

寒さで凍えそうになりながら、田原はその光に向けて歩んでいった。


雪は更に激しくなり、吹雪になっていた。田原はしゃにむにその光の方に歩みを進める。吹雪の風の音に加えて、馬蹄と車輪の音が耳を打ち始めた。しかし、意識が朦朧とする田原はとにかく光の方に向かうしかない。

「ヒヒーン!」馬の鳴き声でハッと我に返る。馬の興奮した息と、驚いた乗り手の顔が視線に飛び込んできた。

「何だ!?」興奮した声で乗り手が喚く。「曲者!?」離れたところからもう一つの声が聞こえ、金属が擦れ合う硬い音と共に、ギラリと何かが抜き放たれるのが見える。蹄がリズミカルに雪を蹴散らす音が聞こえてくる。田原の視界に、抜身の刀を抜いた騎乗した兵が近づいてくるのが見えた。

「切られる!」反射的に田原は悟った。どういう状況か全く分からないが、何か決定的な危険に晒されていることに。

「何だ、お前らは!」田原は声を張り上げた。「助けを求めている人間を、問答無用か!」

二人の乗り手はビクリとなり、サーベルを振り上げていた片方は一瞬動きを止めた。パッと距離を置く。

余りのことに呼吸が激しくなっていた田原の咄嗟の声だった。見ると二人の乗り手は、ディズニーランドの接客係のような格好をしている。近世の欧州の軍装だろうか。しかし、片方が抜き身で持っているサーベルは、とてもディズニーランドのような子供騙しとは思えなかった。二人とも油断なく、距離を置いて田原の様子を伺っている。

更に離れたところから何頭かの馬の鳴き声と馬をいなす声が聞こえた。ふと、4頭立ての贅沢な装飾を凝らした馬車が、少し離れた道端に停まるところだった。

「何故こんなところに馬車が、それにこいつらの格好はなんだ。」二人の騎兵は田原から離れたところから、訝しげに戸惑った視線を向けている。彼らは互いに目配せをすると、何かの同意を得たらしく、また馬を寄せてサーベルを振りかぶろうとする。

「お前らの親玉に会わせろ!!」もう一度、田原は声を振り絞った。「こんな訳の分からない芝居をやりやがって!どういう魂胆でこんなことやりやがるんだ!」

今度は馬の方が驚いてピヨンと飛び上がった。乗り手はアッと声を上げると手綱を取り戻し、苦笑する。

「何だ、コイツは」「こんな所に、こんな変な格好して」「見ろよ、ネクタイまでしてるぜ」ハハハハ・・・二人の騎兵は顔を見合わせて笑いだした。ヤレヤレという具合にサーベルを肩の上に乗せる。「農夫では無さそうだな。」「どうする?公爵に会わせろだとよ。」「バカなことを言うなよ、貴様、掛け合うのか?」「下手に切っちまって後から面倒なことにならないといいがな。」「しかしな、もう遅そうだぜ。」と片方が顎でしゃくると、馬車の窓が空いた。西洋風の三角帽を被った顔が窓から覗く。

「何事だ!?」重々しく顔が騎兵達に尋ねた。騎兵達は顔を見合わせる。どう答えたものか。まさかこの風変わりな客人が、自分たちの主人と面会を求めているとも言えまい。

「閣下」片方の騎兵が恭しく顔の前で両手を掌で組んで口上を述べる。「とんだ些細なことでお手を煩わせて申し訳ありません。我らで然るべく‥」

「こいつらは!」もう一度田原は声を張り上げた。「勝手に僕をどうかしようとしたんだ!」二人の騎兵の顔が凍りつく。片方は口をパクバクさせている。

「お前らはこんなやり方を認めるのか!直接責任者に聞いてやる! 責任者に会わせろ!」

「顔」は、一瞬豆鉄砲を食らったような表情を浮かべていたが、突然ピシャリと窓を閉めると、暫くしてまた窓から顔を覗かせた。「直訴かね?」

(直訴?何を言っているんだ?こんな訳の分からん芝居をやってどんな魂胆があるんだ‥?)「そうだ」

田原がそう答えると、「顔」は再び窓を閉めると、今度はドアを開けて全身を初めて外気に晒した。

(ブルッと体を震わせて)「公がお会いなられる。」

「おっと、武器は持っておるまいな。」「顔」が指示すると、二人の騎兵は渋い顔をしながら馬から降りて、田原の体をまさぐり始めた。「この野郎‥」肘鉄を一撃、「上手くやりやがったな…」拳を腹に入れられた。思わず咳き込む。

「閣下、直訴だそうでございます。またですが、恐れ多いことで…」「顔」は何か馬車の奥の方に頭を下げている。「どうした、早くこんか!」

「公はお忙しい…」馬車の中に田原を迎え入れながら「顔」は囁いた。「馬車を走らせながら話を聞くことになる…お前の村は何処だ?自分で帰らなくてはならなくなるぞ。」

田原は「顔」の顔に気が付いた。外国人だ。酷く古めかしい格好をしている。まるでベルサイユのばらかナポレオンの時代だ。「東京だ、田原総一朗。」

「トーキョー?タハラ?」「顔」は怪訝な表情で繰り返した。「東京」「あんた知らないの?日本の東京!」

「トーキョー?Japon?」「顔」は肩をすくめた。「Je ne sais pas(知らないね).」

「東京を知らない?おい、ふざけて…」と言いかけた瞬間、田原は馬車の中に押し込まれた。パシッとムチをあてる音が聞こえ、音を立てて馬車は走り出す。悪態をつく軽騎兵達の声まで聞こえた。



馬車は四人乗りで「顔」の他にもう一人、奥の向かい側に座っている。暗がりでよく顔は見えない。「顔」は奥の隣に座を占めながら、田原に自分の前に座るように促した。「閣下」「直訴者でございます。トウキョーのタハラ、と名乗っております。」

田原は座りながら考えた。兎も角、雪からは逃れることができた。しかし、状況が全く飲み込めない。何で外国人ばかり、それも酷く時代がかった服装で、こんな古めかしい馬車に乗って。一体何が起こっているんだ?

田原は手に持っていた新聞を開いてみた。朧気ながら、記憶を辿ってみる。「確か僕は」「重要な話をするためにある政治家と話をしようとしていたんだ(政治家の名前は思い出せなかった。)。これはひょっとしたら、誰かがそれを邪魔しようとしているんじゃないか?」

意を決して、田原は奥の人物に向き直った。「貴方は誰だ?」

「何が目的なのか、僕には分からない。僕を元の場所に戻して欲しい。」

ビクリと奥の人物が震えるのが分かった。視線が暗闇から田原の表情に向けられるのが分かる。ドスンと言う音がして奥の人物が足を投げ出した。(義足だ!)しかも木で作られた、古い義足だ。今時、こんな古い義足をつけている人物は…。

目の前の「顔」に目線を向ける。「顔」は真正面から、怒気を含んだ目付きで田原を凝視していた。「誰とは?」

「タレイラン・ド・ペリゴール。」奥の人物が囁いた。(タレイラン?)(フランスの古い政治家だ。確かナポレオンの時代の!一体どうなっているんだ?)田原は頭が混乱した。

クックッと笑う声が聞こえた。「どうも互いに飲み込めていないようだな。貴方は私達が、貴方を何かに巻き込もうとしていると踏んで、状況を把握しようとしている。」タレイランは囁くように言った。

「そして我々は」タレイランは続けた。「何かしらの魂胆があって貴方が私に近づいてきたと疑っている。例えば、私の命とか。」

「兵を呼びましょうか?」慌てた様子で「顔」が尋る。

「まあ、よい。」タレイランは静かに留めた。

田原は内心独り言ちた。(命を狙うだって?)(とんでもない話だ。僕は訳の分からぬまま、こんなところに座らされているんだ。命を狙うなんてとんでもない。しかし、)田原はタレイランの方を眺めた。(ともかく危険は去ったようだ。)

「貴方の状況を教えて差し上げよう、ムッシュー・タハラ。私はフランス帝国の外相で、ある気の進まぬ仕事でのポーランドからの帰途だ。皇帝はワルシャワに酷くご執心で、くれぐれも民草のご機嫌を損ねぬように、との仰せでね。だから、こうして私も気を使いながらの外訪、という訳だ。外の軽騎兵達には歓迎されたようだね?」田原が咳き込むのを見ながらタレイランは言った。

「フランス帝国?皇帝?それはナポレオンのことか!」田原は驚いて叫んだ。「あれは独裁者だって話だぞ!」

向いからハァッと息を呑む声が聞こえたが、タレイランはまだクックッと笑っている。「まあ、ムッシュー・タハラ、政治の話は止めておこう。だが面白いことを言う人だね、貴方は。」タレイランは身を乗り出してきた。顔が初めて田原から見えるようになった。平板な「顔」に比べて、神経質そうで青白く、しかし何処となく貴族的な顔立ちだが、疲れ果てている表情がある。

「ナポレオンが貴方の主人と言う訳だな。なら言っておくが、彼がやったことは侵略じゃないのか?彼は自分で暴走して破滅しかねないぞ!」流石にタレイランもギョッとして田原を見つめた。「顔」は最早恐怖の余り声も出ない。田原はそんな二人を交互に見て、愉快になってきた。笑みが溢れてくる。

「なぜそれを…」「だって歴史だもん、みんな知ってるぞ。」「歴史?」「そう!教科書にも載っている。」「きょ、教科書?それは一体…」「兎も角!アンタがナポレオンに仕えているなら考え直した方がいい!彼はそのうち暴走するんじゃないかな?」

タレイランは少し、カチンと来たようだった。両手で義足を持って、自らの正面に据えると、徐ろに上体を仰け反らせて、田原を睨んだ。

「随分な物言いだな、ムッシュー・タハラ。確かに私は好き好んであの暴君に仕えているわけではない。私には私の考えがあってやっている。彼とて全てに置いて自分の私利私欲のためにやっているわけではない。それは私も承知している。全てはフランスのためなのだ。」

「そうか」田原は(少し言い過ぎたかな)と思い始めていた。しかし、その一方で、タレイラン(と称する人物)が自らの術中に嵌りつつあることに「しめしめ」という感触も持ち始めていた。その一方で、もともと自分はここに来る前に、何をするつもりだったか思い出そうとしていたことを、少し忘れ始めていた。面白くなりそうだったからだ。


タレイランは、もうすっかりその顔が明かりの下に照らし出されていたが、少し紅潮して唇を強く噛み締めていた。

「ムッシュー・タハラ、整理して話そう。貴方は今、私が皇帝の廷臣であることを、やや軽侮するような物言いをなさった。(田原「いや、別にバカにはしていない」タレイラン「いや、そんなことは枝葉のことだ。どうでもいい。」)貴方は、我が国と、私が、今までどういう道のりで今に至ったかを、あまり正確にはご存じないと思える。」

(フランス革命のことを言いたいのだ。)田原は思った。

「フランス革命は自由、平等、博愛のためにフランスの民衆が立ち上がった。しかし、その後ルイ16世を処刑し、ジャコバン派が恐怖政治を強いた。多くの人々が革命の名の下に処刑された!!」

「何たる逆説。」タレイランは田原の指摘を短く受けとめた。その表情は先程とは打って変わり、冷たい冷静さを取り戻していた。落ち着いた様子で身じろぎ一つ、前を向いたまま視線は凝固して動かない。

「ジャコバンの独裁だけではない。」タレイランは続けた。

「我々は寝ていた子の目を覚ましてしまったのだ。かつて安楽な信仰の中に安らっていた時、人間はどれ程幸福だったことか。知るまい、アンシャン・レジーム(旧体制)の甘美さを!その頃は我々も民衆も、神の救済というヴェールに包まれて、永遠にこの幸福が続くことを信じて疑わなかった。隣の人間が何を食べようが何を着ようが、視線はまっすぐ神と神のもたらした教会を信じて疑わなかったのだ!しかし、啓蒙の名の下に、禁断の知識の木の実を食した民衆は、そんな自らが愚劣だと感じるようになってしまったのだ。」


吹雪が強まり、窓を強く風が叩いた。馬車は速度を上げ、時折激しく上下左右に蠢動した。時折強い揺れに苛まれ、乗客は自らの腕を伸ばして自らの体を支えねばならなかった。


「その結果として何が起こったか?全ての人間が互いに疑心暗鬼の視線を向け合い、自らの上に立つものに嫉妬の刃を向けるありさまになった(ホッブスは正しかったのではないか?)。それが恐怖政治に至るのは必然だったのだ。解き放たれた限りない欲望を抑えるには、それしかなかったのだ。その後に来たのは大いなる虚無だった。緊張の後の大いなる弛緩。金権をばら撒き、それによって民衆の歓心を買い、官職さえもが売買された。統治者は放恣に耽り、国権は堕落した。フランスの危機は迫っていたのだ。革命以来努力によって辛うじて生き永らえてきたものが、最悪の恥辱に塗れた上に葬られようとしていた…。

 我々はその最悪の結末を避けようと、思考を凝らした。そして、最後のやむを得ない、最悪の中の最善の選択。それこそが独裁だったのだ。ボナパルト、イタリア、軍事の天才!」


「つまり、アンタは自分だけが正しくて、他の連中はバカだと言いたいのか!自分だけが頭が良くて正しくて他はバカだから、他の連中は黙って従っていればいい!だから、独裁!ナポレオン、万歳!!」田原は口を挟んだ。


「私は自分が正しいと思っている。しかし、貴方の言うようには考えていない。常に私は自分が正しいと思っているわけではない。自分が間違いうる存在であること、それは自覚している。自分の中に様々な自らを堕落させかねない因子が多く潜んでいて、それが絶えず私自身を躓かせようと潜んでいる。それに誑かされかねない限り、私は正しくあり続けることができる。」

「むしろ人間は誤りうるもの、間違いを犯しうるものであること。国家や社会は正に薄氷の上に成り立つ城のようなものであること、その自覚を失うと恐ろしいことになる。人間は簡単にタガが外れてしまうものなのだ。タガが外れてしまった人間は、もはや動物と変わりがない。いや、動物は本能という檻の中に入れられていてそこから踏み外す、ということはないが、人間はその本能からも離れて、考えられないような愚劣なことを為しうるのだ。結局、人間には一定の「恐怖」によってタガが嵌められている必要があるのだ、と。それを与えてくれるのが独裁、なのだと。」

タレイランの表情が曇ってきた。話しながら疲れ果てているようだ。


「だけど、結局それだと、アンタはやっぱり自分だけが正しくて、他の人間はバカだと思っているんじゃないの?自分は自分を律することが出来る立派な人間だが、他は出来ない。他はバカで自分は利口だ、と」田原はまた口を挟んだ。タレイランの表情はさらにどんよりとしてきて、コクリコクリと頷いていた。

「そう、そうなのだ。しかし、我々に選択の余地は無かった。外国に支配される可能性があったし、より堕落したブルボンを復活させようと目論む一派の復権もありえた。だから「最悪の中の最善」だったのだよ。その結果が「フランス人民の皇帝」だったのだ。逆説に対して逆説で回答したのだよ!」

「しかし、慢心というものは!私が何故ポーランドに行ったか、教えてやろうか?皇帝はかの国を独立させようとしている!いいかね、かの国は西にプロイセン、東にロシアだ!そんな国を独立させてフランスの保護の下に置いてみたまえ、ロシアが黙っているわけがない!必ずこの処置は禍根を残す!フランスの躓きの石になるぞ…。確かにポーランドの国民の憂国の志は同情に値するものがある。そのことは私も否定するつもりはない、が…。」タレイランは口をつぐんだ。

「が、なんだ。」田原は促した。

「皇帝はそれだけではない。あれは女のため、ではないか?」

「女?」

「美しい女性がいるのですよ。」「顔」が突然口を挟んだ。「ワレフスカ、とか言ったかな、皇帝がたいそうお気に入りで。」

「愛人?」

「そう」笑いを押し殺してタレイランが答える。

「愛人のために国を独立させる?」

「その通り、私はその尻ぬぐい。」

「そんなバカバカしいことあるか!」田原は叫んだ。

「皇帝が、国家の最高の政治家が、自分の愛人のために外交をするのか!」

「勿論、それだけではない。皇帝には皇帝の考えがあるのだろう。しかし、私から見て、皇帝の考えにはある種の驕りがある。アウステルリッツで、イエナで、フリートラントで、皇帝はオーストリアもロシアもプロイセンの陸軍も壊滅させた。その結果としてフランスは名目上多くの戦果を得た。自分は欧州の覇者だ、阻むものは誰もいない…、そういう思いが皇帝にはある。しかし、私には最早それを止めることができない…。」

「ワレフスカ夫人は美しい方ですよ。」「顔」がまた口を挟んだ。「今回の外訪でも少しお顔を拝見しましたが、あの方は愛国者ですね。しかし、皇帝にああいう形で取り入って目的を果たそうとするのは、私には理解できませんが。」

「そう、その点は私も異論がない。」タレイランも同調した。「あの覚悟と祖国への献身ぶりは類まれなるものだ。女性というのはあそこまで覚悟を決めて自らの身を投げ出せるものなのかね。皇帝にもそれが抗いがたい魅力として映っているのだろうが。」

「皇帝を愛していらっしゃるのでしょうか?」

「そうではないのかな?」

「祖国共に?」

「それがよく分からない所だ。」

「ともかく!!」田原は遮った。

「自分の愛人のために国政を歪めるなんてあってはならないことだ!アンタ外相なんだから、ビシッとナポレオンに言うべきなんじゃないのか!」

「オヤ、ムッシュー・タハラ、美しい女性に関心はないのかね?」タレイランが切り返した。

「エ?」

「奇麗な方ですよー、ワレフスカ夫人は。残念ですなあ、帰路で。今更引き返す訳にも行きませんからなあ…。」また「顔」が余計な口を挟む。

「いや、関心はあるよ。」

「ホウ!!それは祝着!!」

「そうですなあ、閣下。やはり女性というのは…」

タレイランと「顔」が勝手に盛り上がり始めた。タレイランに至っては義足で馬車の床をドンドンと踏み鳴らしている。

「イヤ、そんなことはどうでもいいんだ!!」田原は両手を頭の上で振り払うように振った。

「女の話じゃない。愛人のことで判断を歪めるべきじゃない。アンタが外相として皇帝にそう言わなければならないんだ!!」田原はタレイランに対して指を突き出しながら言った。タレイランはカッと目を見開いて田原の指を凝視している。

しばしの沈黙の後、タレイランはおもむろに手を差し出すと、田原の指を横に払った。「人を指さすな…」タレイランは震えがちの声で言った。

「言うんだな?言うんだな?」追い打ちするように田原は繰り返した。

タレイランは不貞腐れたように義足を投げ出すと顔を窓の方向に向けた。

沈黙が続いた。しばらくしてタレイランが呟いた。

「私は辞表を出そうかと思う…」

「エッ」「顔」が驚いてタレイランを眺めた。

「もう何のための仕事か分からんのだよ。大衆の放埓を抑えるための独裁だったはずが、今度はナポレオン一人の放埓に振り回される羽目になった。とてもやってられん。」

「今回のポーランドの一件も、或いは皇帝の意趣返しではないかと思うことがある。私が嫌がることをわざとやらせているのではないかと。どのみち彼は戦争がしたいのだ。」

「皇帝は最近閣下に風当たりが強いですからなあ…」「顔」が思案気に頷く。

「いや、そんなはずはない!」田原が断定調に反論した。

「君に何が分かるのかね?皇帝にあったことのない君が?」タレイランが呆れたように指摘した。

「皇帝という地位にある以上、国家に対する責任を感じないということはないはずだ。彼が君にそれを命じるということはそれなりの理由があるはずだ。」

「それはそうだが…。」タレイランはもういい、というように首を振った。


また座に沈黙が訪れた。吹雪の音もいつの間にか静まり、馬車の揺れも小さくなってリズミカルな音を刻んでいる。

「閣下」「顔」が沈黙を破った。「先ほどの話、やはり陛下に申し上げるので?」

タレイランは身じろぎ一つしなかった。

「反対の意は」

「表せざるを得まい」

「ワレフスカ夫人、お気の毒ですなあ。陛下の胸の中でさめざめと涙を流されるんでしょうなあ…」

「ああ、主よ。あの美しい頬を涙で濡らすことなど、果たして許されようか?」

「そうですなあ、僭越ながら、あのような美しいお方は、私にはクープランの音楽位しか比すべきものを見出せませんよ!」

タレイランと「顔」は二人で一頻り盛り上がって徐に田原の方を眺めた。田原はじっと二人を見ている。二人は肩をすくめると、再び椅子に深々と身を沈めた。


「ムッシュー・タハラ」タレイランが再び口を開いた。

「トウキョー、と言ったな。そこはここから遠いのかね?」

「うん、地球の裏側!」田原は笑いながら言った。タレイランは怪訝な顔をし、「顔」のため息が響き渡った。

「皇帝に会う気はあるか?」

「エッ?」田原は聞き返した。

「陛下に会う気はあるか、と聞いている」

「何故?」

「会ってみたくはないか?」

「いや、だから何故だ?」

「ああ、さっきの一件は私の口からちゃんと申し上げる。しかし、帝国の懸案は外交だけではない…」

「相談に乗れというのか?だけどフランスのことは僕は何も分からないぞ!」

「承知している。」タレイランはまた義足を動かし始めた。

「興味があるのだよ。皇帝が貴方に会って何をおっしゃるのか。」

「ゲーテでしたか、皇帝が文豪にお会いしましたな。『人間がいる』と仰ったとか。」

「あれは意味が分からなかった。」

「そうですか、名言だと思いますが。」

「それらしく聴こえることを言っただけだ。」タレイランは肩をすくめながら呟いた。そして田原に目線を戻すと「どうだね。」と再び尋ねた。

「いいだろう。」田原は答えた。「僕も色々な権力者に会ってきた。田中角栄、中曽根、宮沢…。ナポレオンというのは実に面白い!」

「貴方の言うことは時々分からなくなる。」タレイランは首を横に振りながら制止した。「貴方の挙げた権力者の名前は、私には一つも分からない。」

「そうか!」田原は頷いた。

田原は少し眠たくなってきた。その後、タレイランは「顔」に命じて、自らのナポレオンへの手紙を口述筆記させた。「顔」はそれを封書して、窓から外の軽騎兵を呼んだ。軽騎兵が窓に近づき、手紙を受け取ると、少し興味深そうに奥を覗き込んだ。田原はそれがさっき自分の腹に拳を入れた軽騎兵だと気づいたが、軽騎兵は次の駅に駆けて手紙を送るように命じられると、走り去っていった。

外はすっかり雪はやんでいるようだった。後は馬車のリズミカルな音が、時折激しい振動を挟みながら聞こえていた。(今日はおかしなことばかりだ…)田原は強い眠気を覚えながら、さっきまで自分が何かを思い出そうとしていたことをもう一度思い出そうとしてみた。しかし、睡魔がそれらの努力を押し流してしまった。

「ゆっくり休みたまえ。」タレイランの声が聞こえた。

「パリまでの道のりは長い。」

             終

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