三の八 穏やかな帰途 〜薄暮〜
コツン。
パイプクリーニングホースを押し出す左手が、小さな衝突を感じ取った。
壁、のような。
床下排水管の一度目の角を曲がる前と同じ感覚、先端が打つかってつっかえる感覚だ。
ホースを少し引き出して、もう一度押し入れた。
やはり、コツン、と当たって先へは進めない。
確かに壁。
だが、どん詰まりではなく、そこから壁面と垂直方向へ曲がりつつ四十五度立ち上がる、入口から二回目の曲がり角だ。
ここまでか。
何度か押し引きを繰り返したが、この曲がり角を越えられる気配はなかった。ホースの固さを考えれば仕方ない。説明書には九十度の曲がり角二回までは曲がれると記載されていたが、ネットの評判では固すぎるとも書かれており、実物に触れて曲がれるのは一度だけだろうと予想していたから。動画を上げている水道メンテナンス業者などのプロ仕様ならば問題なく曲がっていけるのだろうが、お値段も跳ね上がる。
戻るか。
これまでは、かまぼこ状の油脂の固まりを剥がして流す作業に注力していた。音と手応えを頼りに固まりを見つけて剥がし、剥がれれば次の固まりを求めて先に進んでいた。
途中途中の排水管の汚れは無視し、水色が狐色のまま続けていたのだ。
ここからは、手前にホースを戻しながら床下排水管内の汚れを丁寧に落としていく。各地点で小刻みにホースを動かして、水色が油の色である狐色から、元の透明に戻るまで洗う。
油脂の固まりは、一度袋詰めしてからは第一汚水枡の上まで溜まっていない。床下排水管すべてを覆っていたのならばもっとあっても良さそうだから、戻る途中でまた落ちてくるかもしれない。
一分と考えずに方針を決め、再びホースを握る手に力を入れた。
四メートル先で排水管を叩く高圧水の音と油脂の小さな欠片を乗せた狐色の水が横穴から飛び出し、落ちる。
水音はくぐもりもせず明快に聞こえ、やがて水色も透明になる。
ゆっくりと着実に洗い上げる帰り道。
何が待ち受けるかも分からず、どのくらいの時間が掛かるかも分からなかった行きとは何もかもが違う。いっそパイプクリーニングホースが詰まって取り出せなくなる不安まであったというのに。
左手はリズミカルにホースを繰り、排水管の中の黒蛇を軽やかに躍動させる。
チロチロというには激しい勢いの水を吹き出す鎌首が機嫌よく、青みを帯びた灰色のパイプの中で上下左右に振れる。
ジャバジャバと横穴から流れ落ちる水もまた弾んでいるようだ。
すでに一度通り過ぎているからか、泡立ちの抑えられた狐色の水に、小さな油脂の欠片がときおり混じる。その狐色も見る間に薄れて透明に戻る。
晴れやかな帰り道。夕暮れ時の、今日の夕飯を期待して少し早足になる帰り道のような、仕上げのとき。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます