第5話 何をして何をしなかったか
設備課の事務所は総務課の真上、三階にある。二階は大半の社員がスーツ姿でいかにもオフィスという雰囲気だったのに比べ、三階は作業服の社員ばかりで工場らしい雰囲気だ。
二階は静かに各々がデスクに向かっているが、三階は活気に溢れており、机に図面を広げてやいやい言い合っているチームもあれば、一つのパソコンを数名で覗き込み、難しい顔を突き合わせているチームもある。
役所のように部署名の看板が提げられてはいないので、目の前の島が何の部署なのか見当もつかず、麦野は黙って風見の後ろをついていく。
新顔だからか、それとも学生の幼さが滲んでしまっているのか、社員達は皆一様に「あれ誰?」というような怪訝な顔を麦野へ向ける。
居心地が良いとは言えない空気に耐えながら歩いていると、風見が「またあいつか」と呟いた。
知らない顔の中に、一人、知っている顔がいる。見覚えのある灰色のつなぎの作業服。
「
振り返って「よう!」と手を挙げたのは弥彦
「うちの設備課に用事か?」
「まあね、俺は修理屋ですから」
弥彦は腰を屈めてわたしと目線を合わせ、「麦野ちゃんは、初めてのお仕事順調ですか?」とまるで小さな子に話し掛けるように尋ねる。
「あはは。私の仕事ぶりの評価は……ボスにしていただかないと」
苦笑混じりに風見をちらりと見る。
「順調も評価も、まだわかんねェよ。俺、設備課に用事があるから、こいつ見といて」などと風見にまで子ども扱いされ、麦野は弥彦に預けられた。
事務所の端、誰も使っていないデスクを見つけて腰掛ける。弥彦はアジロの社員ではない割には随分と慣れた様子だ。
「本当に風見の部下になったんだなあ。あんな目に遭ったのに」
「乗り掛かった舟なので……」
正式に入社したらいよいよ幽霊退治(?)がわたしの本業になってしまうのだと思うと、覚悟が決まっているような、いないような、微妙なところである。
窓からは気持ちの良い日差しが差し込む。弥彦の髪色はやや赤味がかっているというか、紫色というか。風見程に派手ではないもののやんちゃな髪色だ。……類友という奴か。
そんなことを考えていると、弥彦は唐突に両手を合わせて『お願い』のポーズをした。
「な、何ですか?」
「風見に付き合える人間なんて、なかなかいないのよ。たぶん俺以外に友達も居ないし。だから、麦野ちゃん、風見のことよろしくね」
「よろしくって、そんな自信は」
「末永く頼んだよ。風見の相手に心が疲れたら俺のところに来なさい。……あっ、戻って来た」
装置の故障記録、点検個所、メーカーの点検報告書などが纏められて――ていないまま、そのまま寄越されたらしく、紙束を抱えた風見の顔は能面のように無表情だ。
「……麦野、これ装置別且つ時系列で打ち込んでおいてくれ」
「えええ」
すでにインタビュー音声の文字起こしも指示しているというのに、相変わらず記録係としてこき使うつもりらしい。
「パソコン貰ったんだろ?」
「……はい」
「それと、また北F工場に行くぞ」
「えっ?」
なんて慌ただしい。
狼狽して弥彦を見れば、「頑張れ」と小さな声援が返って来た。
――本当に、自信がなくなってきた。
「俺が合図したら、言われた通りにしろよ」
麦野は空元気で「了解です」と敬礼して見せる。
北F工場の出入口からそっと覗き、周囲に誰も居ないことを確かめると、二人はこそこそと工場内に侵入した。靴を履き替え、抜き足差し足で階段を上り、事務室へ向かう。
そこには男性社員が二名。一人は真塩だ。それぞれがパソコンに向かい、黙々と作業をしている。単独行動はしないというルールがここでも守られているのだろう。
「よう、志岐」
風見が声を掛け、手前のパソコンで作業をしていた男性社員が「何の用ですか?」と起立した。非友好的な態度を隠そうともしない。
その背後で、真塩が何しに来たのかと言わんばかりに絶句している。
「今回は事前に連絡を入れただろう?」
「承諾したつもりはないんだが」と男性社員はパソコンのモニターから目を離さずに返事をした。
風見と彼の間に、険悪な空気が流れる。風見は椅子を回して喋り続ける。
「別に仕事の妨害をしようって訳じゃない。話を聞きたいだけだ。あんた達だって困っているんだろ。幽霊が――」
「幽霊なんぞ莫迦げた話だ。やめてくれ。こっちは仕事中なんだ」
――『莫迦げた話』? そちらから相談しておいて?
取り付く島もない態度に、聞いているこっちの気が滅入りそうだった。こうまで拒絶されているのなら、調査などしなくてもいいのではないか。いや、それでトップマネジメントが納得する筈がない。何としても、協力体制を引き出さなければ。
「ふうん……」
風見が麦野に目線を送る。
……気乗りしないが、合図だ。
「うう」
体をくの字に折り曲げ、麦野は苦しそうに呻き声を漏らした。
「どうした、麦野」
「風見さん、ううっ……!」
麦野は片手で胸元を押さえ、もう片方の腕で大袈裟に宙を掻く。
狼狽えた真塩が「どうしたんですか!」と駆け寄ろうとしたのを風見が制し、「こいつは持病の発作があるんだ。おい麦野、薬はどうした?」と大声で尋ねた。
「薬は……置いてきちゃいました……」
風見の腕の中で、麦野は今にも虫の息。
勿論、芝居である。
麦野が細目を開けて見上げた先では、風見の冷徹な目が「下手過ぎる」と語っていた。
「うう~、苦しいッ!」
「莫ッ迦野郎!」
大仰に舌打ちをし、風見は金髪を掻き上げた。
――貴方の演技だって、たいがい大根だと思いますけど、と内心麦野は呟く。
「真塩。一階出入口に担架があっただろう。持って来るのを手伝ってくれ」
「はい。志岐さん、彼女をお願いします!」
「……えっ。おい」
半ば強引に真塩を引き連れ、風見はばたばたと事務所を出ていった。
ここまでは計画通りだ。かなり雑なやり口だが上手くいくものだなぁと他人事のように感心してしまう。まあ、眼前で誰かが苦しんでいたら放っては置けないのが人情だろう。例えちょっと怪しいと思っていたとしても、だ。
麦野は演技を切り上げ、と溜息をついた。
「大丈夫か……?」
志岐が心配そうに覗き込む。まさか本気で信じているのだろうか? 風見の指示とはいえ人を騙すのは気分が良くない。
「あ、もう収まりました。お騒がせいたしました。では、担架は不要だと風見さん達に伝えに行って参ります」
そう言って、事務所を出ようとする麦野を、志岐が慌てて引き留める。
「俺も行く」
「ありがとうございます。でも、すぐ下に風見さん達が居ますし」
「そうじゃなくて。聞いてないのか? この工場には――」
「ああ。一人で居ると幽霊が出るって噂ですか?」
志岐は表情を曇らせた。
「……そうだ」
「大丈夫ですよ!」
やんわりと志岐の手を振りほどき、麦野は背を向ける。
「待てって」
志岐も後に続こうとしたとき、卓上の内線電話が鳴った。彼は電話に目を遣り、迷いの表情を浮かべる。
「取ったほうがよろしいのでは?」
言いながら、少しだけ意地悪な気持ちが生まれた。あんなに邪険にあしらおうとしておいて、本当は怖がっているんじゃないか。
志岐は前を見たままじりじりと後退り、「どこにも行くなよ」と言った後に素早く受話器を取った。
「もしもし。北F工場の志岐――おい!」
志岐の声を無視し、麦野は事務所を出る。そして無情にも扉を閉め、ゆっくり階段を下りてゆく。
踊場に風見と真塩が担架を手に立っていた。
「あれ? 具合は……」と尋ねる真塩に、さっき志岐にしたのと同じように「すみません、もう収まりました」と神妙に頭を下げる。
その目線の先で、風見の手に内線携帯が握られているのに気付いた。その電話の相手は――
階上で扉が勢いよく開く音がし、続いてどたどたと荒い足音が聞こえたかと思うと、志岐が麦野の両肩を掴んで揺さぶった。
「行くな、って、言った、だろ!」
かっと目を見開き、ぜえぜえと肩で息をしている。
大の大人が、尋常じゃない怖がりようだ。
「おいおい、女性に掴み掛かるのはよろしくないな」と風見が志岐を払いのける。
「あっ、悪い。でも、出るんだよ。この工場は、一人になったら、出るんだよ!」
「何が? ゴキブリ?」
内線携帯をこっそりジャケットの内側に仕舞い、風見はとぼけて言った。
「違う――女だ。女の霊。お前達は感じないのか。この工場の、澱んだ空気。耳を塞がれるような不気味さを」
志岐の歯がカチカチと鳴る。
三文芝居の計画に集中するあまり気にする余裕がなかったが、言われてみれば薄らと耳鳴りがする。
黒木が証言した「トンネルの中に居るような」とは言い過ぎで、工場ならどこでもある程度の機械音や振動はあるもの。麦野にとっては許容範囲の違和感だが志岐はそう思っていないらしい。
「志岐、話を聞かせろよ。そこまで怖がっている癖に、どうして協力してくれないんだ」
「総務なんか信用できるか」
「そんな頭ごなしに決めつけるなって」
「頭ごなしじゃない」と志岐は悔しそうに言った。
「俺達は相談したんだ。なのに――まともに取り合ってもくれなかった」
「カウンセリングの件は、すまなかったよ。経緯は総務内で確認中だ。だからそれは一旦置いておいて」
「置いておけませんよ」
それまで黙って聞いていた真塩が声を詰まらせる。
「昼にお話ししましたけど、俺達は小手指課長経由で総務に相談しました。そうして設けられたのが莫迦げたカウンセリングです。でも……俺達が怒っているのは、それだけじゃありません。逆に、俺らが調査をされた件です。亀山リーダーを聴取するどころか、社員同士でいじめがあるんじゃないかとまで……これじゃ加害者扱いじゃないですか。黒木さんが亡くなったのだって会社は無関係だって言うし。……さっきは米山さんの頼みだったから話をするくらいならって思いましたけど、いきなり乗り込んでくるなんて横暴だ。だから貴方達には不信感しかないんです!」
風見と麦野は顔を見合わせた。
これは……想像以上に、話が拗れている。
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