遠火に矢を放つ

@_naranuhoka_

遠火に矢を放つ

R18女による女のための文学賞二次選考通過


 

 就活生や浪人生は幽霊と似ている。存在しているのに、していない。

 単位を取り切っているのに就職先が決まっていないのは、世界で自分が属している社会や場所が存在していない、ということだ。

「私たち、何の誤りも過ちも人生にないところが駄目だったんだ、って思わない?」

 いつだったか都がそんなふうに言った。渋谷の安いラブホテルで。

 それなりに容姿に恵まれた若い女がうらぶれたラブホテルで心中していたら、あれこれ面白おかしく書きたてられて二週くらいは週刊誌で取り上げてもらえるだろうか。くだらない妄想がちらっと脳に浮かぶ。この状況では到底口にできなかったけれど。

「どうだろう。そこまで一点の曇りもない人生だとは思わないけど、自分に対してあまりにまっとうであろうとしてきたのに内定も出なかったから、もう何のせいにしていいかはわからない」

 都がじっと私を見ている。月光を仕留めて瓶詰めしたようなウィスキーの小瓶がシーツの上で転がり、とぷりと海のような音を立てた。

「瑕が必要なときもあるのかもしれないね」


 都と初めて出会ったのは、四月の半ばの深夜の新宿バスタの待合室だった。

 春とはいえ、東京はともかく私が住んでいる仙台はまだまだ夜は冷える。就活の面接ではストッキングを履いていたけれど、防寒対策もかねてタイツに履き替えた方がいいだろうか、でもお手洗いは混んでいるし、と思いながら、持っていた文庫本を適当にひらいて目を落としていた。

 まさかこんなところで他人に話しかけてくるような人がいるとは思わなくて、初めは自分に話しかけたのだと気づかなかった。

「それ、大江だよね」

「え」

 いまここにいる人たちは、みんな夜行に乗ってどこかに帰るため、あるいは発つためにいる。ほとんどの女の人がすっぴんだ。だからこそ、ほかのどの空間よりも他人との距離を感じる。私自身、普段時間をかけてフルメイクしているから、素顔でいるときは心細い気持ちになるし、どれだけ疲弊していたとしても心が張り詰める。そんな雰囲気のなか容易く話しかけてきた彼女は、異端だった。

 ふちの細い、五年くらい前に主流のデザインだった横長のフレームのめがね。瓜実顔が歪むくらいレンズは厚く、彼女がとても近眼であることがわかる。普通、度の強いめがねをかけていると目が小さく見えてユーモラスな顔になるはずなのに、目の前の女の子はそれにも拘わらず十分端正だった。髪はこざっぱりとした黒髪のボブヘアで、アイロンを当てたみたいにまっすぐだ。

 おそらくわたしと同世代かそこらなのだろうけれど、前髪はぱっつりとまっすぐに切られていて、小柄なせいもあって古風というか女児のような雰囲気だった。身なりに気を遣っているのかいないのかよくわからず、印象がちぐはぐで定まらない。格好も、白いシャツにゆるりとしたワイドパンツ、そして半端な丈のトレンチコートというあっているんだかいないんだかよくわからないコーディネートだった。

「私も大江健三郎が好きで、卒論の題目にもしたくらい好きなんよ。歳近い人で読んでいる女の子が周りにほとんどいないから、うれしくて」

 それでつい、話しかけたということだろうか。そういえば私の大学も夏ごろ卒論の題目提出の締切りがあるはずだった。トレンチコートを着ているし、この子も就活している同級生なのかもしれない。

「……これは、たまたま。習いごとの先輩が、面白いからって貸してくれて読んでただけで、普段はそこまで小説は読まないです」

「そうなんだ。就活生なんだね、私も同じ。おとなっぽいからお勤めしている人かと思った」

 めがねの女の子は、浦辺都と名乗った。福岡から出てきていて、思った通り就活生だった。

「大江健三郎を卒論で書くってことは、日本文学専攻とか?」

「そう。私は文学部国文学科。えっと」

「紺野音羽。法学部です」問われるまま大学名を言うと、彼女はすらすらと「ああ、**の出身大学やね」とすらすらと私の知らない名前をいくつか挙げた。作家や文学研究者らしいけれど、私はまるで知らなかった。

「音羽ちゃん、仙台に帰るんだ?」

「そう。福岡に戻るなら、私の便より早いんじゃない?」

 時刻はすでに23時を回ろうとしていた。都は腕時計に目を落とし、「うん、そろそろ乗る便が来る」と呟いた。

 じゃあそろそろ、と立ち去るかと思いきや、都は携帯を取り出した。

「あの、何かの縁やし連絡先交換しない? 就活生仲間、ってことで」

「ああ、うん」

 情報交換しよう、とか人脈ほしくて、と何かと連絡先やSNSのアカウントを知りたがるたぐいの就活生はけしてめずらしくはない。けれど目の前のおっとりとした女の子がそういうことを言うタイプの学生には見えなくて、少し意外だった。

「音羽ちゃん、とびぬけて綺麗だし絶対東京の人やと思った。どこかに行くんじゃなくてこれから地方に帰るやなんてちょっとびっくりした」

「そんなことないよ」

 ラインのアカウントを交換し合う。都は何かの絵画をアイコンにしていた。私は青空を背景に微笑んでいる、恥ずかしいくらいおあつらえ向きのスナップ写真をアイコンにしている。こういうのはいわば広告塔だから、という理由でそうしているのだけれど「わあ、アイコンも綺麗。女優さんみたい」と無邪気に言われて、顔に熱が集まった。

「名前もすごく似合ってる。なんか、宝塚の女の人みたいできりっとしてるよね。音羽ちゃんは姿勢がいいから、こういうだらけた雰囲気の中にいると、一人だけ目立ってたんよ」

「ありがとう」

 それ以上手放しに褒められるのもむずがゆく、「もう福岡行のバスが着いてるみたいだよ」と言った。都は「じゃあ、お先に。おやすみなさい」とあわただしくキャリーケースを引いて走って行った。


 もしかしたらその場で気持ちが盛り上がって勢いで声をかけて連絡先を交換しただけなのかもしれない。そう思っていたけれど、都は翌日律儀にメッセージを送ってくれていた。急に話しかけたことを詫び、自分は明後日から三日間また東京に行くのだと書いてあった。【もし東京在住が重なっていたら、都合のいいときに一緒にごはん食べたりできたら嬉しいです。】――メッセージはそんなふうに閉じられていた。

 ちょうど中日に日帰りで東京へ行く予定だったので、その日夜ごはんを一緒に食べることにした。東京にいるときは友達や先輩に声をかけて予定を埋めるようにはつとめているけれど、そう何度も頻繁に声掛けするのもためらわれて、この日はひとりで夜行バスの時間までつぶすつもりだったから予定ができてほっとした。

「音羽ちゃん」

 リクルートスーツ姿の都と新宿東口のルミネ1の前で待ち合わせた。私と同じでキャリーケースを引いていた。

「あれ、明日も東京に残るんじゃないの」

「ああ、私昨日は知り合いの家に泊めてもらってたんやけど、今日は宿がなくてカプセルホテルなんよ」

「そうだったんだ、私に合わせて新宿来てもらっちゃってごめんね」

「ううん、それは全然。私、明日は代々木で面接があるから新宿泊まっちゃおうかな」

 土地勘もないので目についたファミレスに入った。適当に料理を選んで頼む。

「音羽ちゃん、今日はどういう企業の面接だったの? それとも説明会?」

 就活生同士なら会話の切り口としてはごく一般的なものだ。けれど、いつ訊かれても一瞬言葉が詰まってしまう。

「……えっと、テレビ局」

「そうなんだ、メディア系なんだね。私もそっち系に行きたいから新聞社とか出版メインで受けてるよ。私は記者とか編集を受けてるけど、音羽ちゃんは?」

 直球で訊かれ、ごまかすときにいつもなんとこたえてきたか忘れてしまった。不自然に間が空いてしまい、正直にこたえることにした。

「……アナウンサー」

 言われた人は大概、虚を突かれたあと、驚きすぎたことをごまかすみたいに「音羽ちゃんにぴったりじゃん」「すごい難関だと思うけど、音羽ならなれそう」と励ます。あまり深い意味はないのだとわかってはいても、いつも身構えてしまう。うんと年上の人ならまだしも、同級生である相手の大げさな励ましや応援は、あまり聞きたいものではなかった。

 都はへえ、と少し驚いた顔をして、「素敵な夢だね」と言った。

 叶いそうにない憧れだという意味で「夢」と言われたのかと思って、ナイーブになりすぎた心が一瞬こわばった。けれど、こんなふうに言葉がつづいた。

「私は出版社の文芸編集になりたいの。高校の頃から目指していて、いつか好きな作家の原稿編集にも携われたらいいな、って」

 それこそ都のイメージにとても似合っていた。そう言おうとしたけれど「だけど」と言葉がひるがえる。

「まあ、私の大学じゃあOBOGもまともにいないし、そうじゃなくても狭き道なんやけどね。倍率とか体験記読むと現実の厳しさに血の気が引くし。でも、選ばれないからと言って最初から選ぼうともしないのって違うかなって思って、ずっと一貫して出版にしぼってる」

「……そうなんだ」

 確かに、大手出版社に新卒で入ろうと思ったら、三千人に一人、とも言われるアナウンサーの倍率に引けを取らない超難関だろう。

「狭い門だからといって通り抜けようともせんのはなんか違うよね。ほかの友だちにはもっと妥協しろとか言われるけど、編集者になる以外の選択肢を選んで仕事を頑張れる気がしない。だからほかの業種は全然見てなくて。なーんて幼稚すぎるよね、ごめん。話しすぎた」

 頬も耳も桃色に染めて都がそこで言葉をとめた。まつげをふせたまま、小さな声で言う。

「出版社に入りたい、って大学の友だちなんかにいうともう、大概の人がうっすら引くんだよね。どれくらい本気で言ってるかによって反応の仕方変えなきゃ、って思われてるのがありありと透けて見えるし、私の場合本気だからみんな笑おうにも笑えない、みたいな雰囲気になるし。アナウンサー、って私の周りだと目指している人は知り合いでいないからこれは想像だけど、音羽ちゃんも、直接は言われなくても空気感で伝わったり、揶揄されたことはあるんじゃないかな。気を悪くしたらごめん」

「ううん、いいよ。ある。あと、ライバルじゃないってわかってあからさまにほっとしたような顔されるときも傷つく」

 そうだよね、と都が弱々しく微笑む。「私もそうだよ」

「これも想像のことでしかないけれど……音羽ちゃんはさ、周りの人に『すごい人』とか『みんなとは違った人』って思われてるふしあるでしょう?」

「……ある」

「もちろん、偉そうとか虚勢を張ってるように見えるとか、そういう意味で言ってるんじゃないよ。でも音羽ちゃんっててんで綺麗だし、堂々としてるからきっと大学でもこうなんやろうなあ、って思って」

「都も?」

「まあ、私は『すごい人』というか『変わった人』というかきわもの扱いされているふしはあるんだけど、似たようなものかも。ねえ、音羽ちゃん」

 じっと私を見つめる。都の奥二重の目は、ひたと夜のように黒い。すべてを吸い尽くしそうなほど。

「『すごい人』のふりをするのはしんどいし面倒くさいけど、絶対、自分がいいと思ったものだけを信じようね」

 あまりにまっすぐな言葉に、頬に熱が集まる。けれど、同時に胸のやわらかいところが熱くあつくほとびていく。

「ねえ、もっと音羽ちゃんの話聞きたいな。明日は何か面接がある?」

「ううん、明日は何もなかったはず。明後日は面接があるけど、山形だからそんなに長距離の移動ではないかな」

 都はおずおずと言った。

「泊まらない? 今日、宿とって明日帰るの。ラブホテルだと二人で泊まっても安いって友達が前カプセルホテル代わりに使ってたの」

 唐突な提案に面食らったものの、魅力的な話だった。夜行バスはどうせろくに眠れないし、朝五時に仙台についてのろのろアパートで正午ごろまで寝なおすことになる。それなら東京に留まってゆっくり睡眠をとったあと、朝の便で昼過ぎに仙台に戻った方がいい。寝ないでいいのなら本を読んだりESを練り直すこともできる。

「……どうしようかな」

 泊まってもいいかも、と気持ちが傾いていることが伝わったのだろう、都はにやりと笑った。

「いいじゃん、泊まろうよ。歌舞伎町に泊まるなんて、いかにもって感じで楽しそうでしょ。バス代余分にかかっちゃうなら、私が持つよ」

「まあ、確かに。わかった、泊まる。でも仙台と東京区間のバス代は二千円ちょいとかだから、別に都が持たなくていいよ」

「そう? じゃあ会計で差額を私が多めに払うよ。誘ったのは私やし」

 じゃあ早く出ちゃおう、とトレンチコートをせっかちに羽織る。乾いたポテトフライをつついていた私は、苦笑いしてあとにつづいた。


「私、ラブホテルって初めて」

 けばけばしい紫色のエレベーターに乗り込むなり、都があっけらかんと言う。つられて「私もない」と言うと、「え~うっそだあ」とけらけら笑う。

「私みたいにもてない処女はともかく、音羽ちゃんがラブホテル未経験なんて、ありえないよ」

 もしかしてそうかな、と思っていたけれどあっさりと処女だと言われて驚いた。都の容姿がかわいいのに、というのもあるし、知り合って間もない同性にそんなに簡単に自分のデリケートなプロフィールをつまびらかにされたことにもびっくりした。友達と言うには日が浅く、知らない人間にだからこそ言えたのかもしれないけれど、都の声色には本当に気負いが一切感ぜられなかった。不思議な人だ、と思った。

「ほんとにない。初めて来た」

 へえ、とあまり信じていなさそうに都がうなずく。本当のことだ。ただし、付き合っていた人につれこまれそうになったことはある。「ああいうところって、不潔なイメージがあるから」と適当なことを言って断った。ラブホテルに誘われる自分、をプライドがゆるせなかったせいもある。

 歌舞伎町のホテル街をぐるぐる回りながら安いホテルを探して、都が「ここ安い! 音羽ちゃん、ここにしよう」と言った。あまり小綺麗でもお洒落でもない寂れた外観だったけれど、確かに宿泊金額はかなり安かった。何かと出費が多い就活生である私たちにとって、それはアメニティの豊富さや内装のお洒落さよりもずっと大切なことだった。

 部屋に入る。おじゃまします、と律儀に言いながら都が部屋へ入っていく。壁はまっピンクで、壁紙はこまかなハート柄だ。枕も真っ赤なハート型だった。ばかにされているような気持ちになりながら、もくもくと荷物を運び入れた。

「ラブホテルって本当に部屋の九割がベッドなんだね。ソファくらいあるのかと思ってた。ここまで身も蓋もなくベッドがどかっと置いてあると、欲望がしぼまないかな」

「こういうところに来る時点でムードとか気まずいとか考えてないと思うよ。手っ取り早くていいな、くらいにしか思ってないと思う」

「そういうものかなぁ。もっと男女のことってセクシーなものかと思ってた」

 都はくるくる回りながらトレンチコートを脱ぎ、壁にかけた。

「明日はどこの面接?」

「教材系の会社だよ。出版と言っても教育系だから、志望度は低いんだけど、力試しって感じかな」

 名前を聞くと私も高校時代参考書でお世話になった出版社だった。都はベッドによじ登り、「こんなところにメニューがある」と取り出した。

「ねえ、シャンパンサービスだって。頼む?」

「無料なら頼んでみてもいいけど」

「サービスって言うくらいだし無料だと思うんだけどなあ」やたらとカラフルなパンフレットをめくっていた都が悲鳴を上げた。「ボトルで六千円だって!けちくさいなぁ」

 サービスではないとわかった途端、しゅんと都がめげてパンフレットを閉じた。

「じゃあ買ってくる?」

「え?」

「ここまで来る途中でドンキホーテがあったじゃない。そこで買い出ししてこよう。夜のおやつタイム」

「そういえばあったね! 行こう」

 手早く私服に着替えてホテルを出た。ゴールデンウィークもほど近い四月の終わり。昼間はもう夏のきざしが見えるような暑さなのに、夜の空気はゆるいゼリーのようにやさしい肌触りだった。

 酎ハイ二缶とコーラ、チョコレート菓子とポテトチップスを買って店を出る。「ちょっと外の風浴びてから帰らない?」と言われて回り道をして帰ることにした。

「川が見たいなあ」ぽつと都が呟く。「せっかくこんなにいい空気なのに、人ばっかり」

「ここらへんって川、まったく見ないよね? 渋谷なら東口に流れてるよね」

「でもどぶ川でしょ、あれ。それに用水路みたいにほそっこいし、『川辺のテラス席あります』っていうためだけに整備された感じがする」

 都の故郷には緑に囲まれた幅の広い川があるのだという。小学生の頃から川沿いが通学路で、自転車から降りてぼんやりと欄干にもたれかかってジュースや缶コーヒーを飲むのが贅沢で好きだった、と言った。

「山とか川とか、規模が大きいものをぼんやり見てないとやってけないときってあるよね」

「そうだね。仙台も川が流れてるから通学路で渡ってる。広瀬川っていうの」

「窓を開けても山も川も流れていない街に住めたとして、私は何がしたいんだろう」

 ふ、と都が私を振り返った。

「音羽ちゃん、そういえばシャンパンって飲んだことある?」

「食前酒くらいなら飲んだことあるけど、一度だけ」

「へえ。私一度も飲んだことないんだよね。最初から東京で暮らしてるような人は、大学一年生の頃から銀座とか六本木とかで高級なバーとかで嗜んでるのかな。実家が横浜とかにあるぼんぼんの先輩につれられて」

「そんなマンガみたいなことあるかな」

「あるよ」だって、と都がうつむいて笑う。その笑顔はどこか暗くてどきりとした。「スカイツリーとか新宿駅とか、東京駅とか、飛び込み防止用のホームドアとか、そういうの見るたびに、マンガとかテレビとかの世界が本当にあるんだな、って思う」

 ああ、と声が出た。はりぼてのように豪華で美しい東京駅を夜通りかかった時、そんな気持ちになった。通り過ぎることができず、ぼうっと眺めやっていたけれど、そんなことをしている人は私か、観光客くらいしかいなかった。スーツ姿で私を追い抜いて行ったおとなたちは、堂々と佇む東京駅にいまさら感嘆することもなく改札へ気ぜわしく吸い込まれていった。私が足を長いこと止めてしまったのは、東京駅の美しさに魅入られたのではなく、そのことに打ちのめされていたからかもしれない。

 誰も私になど視線を投げかけていないのに、どうしようもなく恥ずかしくて顔周りが熱くなった。その時のことを思い出した。

「私は福岡が誇りだし、大好きだけど、田舎に生まれた時点で負けてるとか劣っているっていう意識は、うっすらとずっとありつづけるのかもしれない」

 早くホテル戻ろう、と都が道を引き返し始めた。回り道しようと言ったのは都なのに、と思ったけれど咎めなかった。なんとなく、寄り道をやめた気持ちはわかるから。


 窓のない部屋で目を覚ますと、自分たちが世界から取り残されて昨晩に取り残されてしまったような気がする。そんなセンチメンタルなことを思いながらアラームを切った。仙台行きの便は六時半発だ。

 都はまだ眠っている。顔まで布団をかぶっているから、顔が見えない。

「都、私さきに帰るね」

 返事はないだろう、と思ったのに明瞭な声で「うん、いってらっしゃい」と返事があった。都はもぞもぞと布団から顔を出した。眉毛が半分くらいの濃さしかなく、幼く見えた。

「音羽ちゃん、私のわがままに付き合ってくれてありがとうね。昨日はすっごく楽しかった。就活しててこんなに楽しかったのは本当にひさしぶり」

 結局昨日は盛り上がりすぎて寝入ったのは午前二時半だった。お互いの就活事情を洗いざらい話し、面接で出会ったありえない面接官や大喜利のようなお題に対する愚痴を言い募って笑い転げたりした。

 アドリブ力や発想力が試されるアナウンサー試験はかなり独特だけれど、出版は出版で時間内に小説や歌詞を書かされたり、「あなたが人生で一番傷ついた失恋にまつわるエピソードを話してください」などと奇を衒ったお題に翻弄されているらしい。

 お互いに修羅の道を好き好んで選んでいる、ということが私たちを急速に結びつけた。「また東京で日程会うときはラブホテルに泊まってねぎらいあおう」と約束しあった。

「じゃあまたどこかのラブホテルでね」

 ふふっと都が微笑みながら小さく手を振る。私も手を振り返して部屋を出た。

 朝の歌舞伎町は、白い光が針のように差してきた。業務用の大きなゴミ袋があちこちに転がり、学生なのか男の子が植木に倒れこむようにして寝入っている。横目で通り過ぎて新宿バスタへ急いだ。


 仙台に帰ったあとも慌ただしく移動がつづいた。北海道以外の東北六県、東京、神奈川、埼玉、時々北関東へも向かう。出版は基本的に東京に集まっているから、そういう意味ではアナウンサー就活ってお金との戦いになってしんどいよね、と私の行脚について耳を傾けていた都が眉を下げた。

「東京で変わった子に声かけられたの。就活中、とかならまあよくあることなんだけど、新宿バスタの中で声かけてきたからすごくびっくりした」

「何それナンパされたの?」

「ううん、女の子。偶然なんだけどその子も地方から出てきてる就活生で、福岡から東京に出て就活してるんだって」

 都とラブホテルに泊まった話をすると、圭一は「それは女の子しかできない遊び方だなあ」と笑った。

 一年半ほど付き合っている圭一は、私の一つ上でいまは工学部の院生だ。理系だから、それなりに成績が良ければ教授に就職先を斡旋してもらえるらしい。私が苦労しているのを見て、「就活って大変なんだなぁ」と嘆息していた。青森からの長旅から帰って、倒れこむようにアパートに着くと、合い鍵を使って先に入っていた圭一がごはんをつくってくれていた。キャミソールにショートパンツという行儀の悪い格好のまま、チャーハンと餃子を食べる。

「都は出版社希望だから、やっぱり大変みたい」

「出版業界ってここ三十年くらいずっと斜陽って言われてるし、内定出すのって数名単位だろ? 難関狙い同士で気が合ったんだね」

「そうかも。ほかの同級生だとどうしても、アナウンサー就活に比べたら一般の就活なんてそこまでつらくないね、みたいに安心材料にされちゃうことも多いし」

 明日はようやく一日予定がない休日だ。ずっとバスで移動していたので、関節のふしぶしがこりかたまったみたいに痛い。目をつむるとバスの揺れが思い起こされてうんざりする。

 食べ終わると圭一がかいがいしくお皿を片付けてくれた。ごめんね、と慌てて立ち上がると「いいよ。それよりお風呂溜めたら」と言う。

 素直に替えの下着を取り出して浴室に向かう。

「あれ、シャワーだけ? 俺も湯船に浸かろうかと思ってたんだけど」

「ごめん。なんか汗かいちゃったから、とりあえずシャワー浴びたくて」

「了解」

 今湯船を溜めると、一緒に入る流れになって余計疲れる展開になってしまいかねない、ととっさに判断してのことだった。都合がいいときだけ呼び出しておいて自分が億劫な展開は勝手に省略してしまう自分勝手さに恐縮しながら汗を流す。とにかく今は早く横になってしまいたかった。明後日も集団面接があるから、明日はそれの対策に時間を割かなければいけない。

 化粧を落として歯を磨いた状態で浴室を出ると、圭一が私の証明写真をまじまじと見ていた。出しっぱなしにしていたままアパートを出て行ったのだろう。「見ないでよ」と咎めると、「でも、見られて恥ずかしいような写真ではないでしょ。なんか整いすぎて合成みたいだね」とぬけぬけという。

 実際その通りだった。証明写真はフルメイクつきのコースでスタジオ撮影したものだ。一回三万円という値段に頭がくらくらしたものの、出来上がった写真は思わず「誰」と声が出てしまうくらいできすぎた私が女神のように微笑んでいた。

「アナウンサーってやっぱりみんな可愛いの? たまに信じられないくらい太ってる人とか来ない?」

「太ってる人はまず来ない。基本的にみんな、スタイルよくてかわいいよ。どの面接や説明会に行っても、世界が百人の美女だったら、の村人AtoZが集まってる感じ。なんか、すごく迫力があって怖いよ。みんなやたらとスマイル浮かべてるしね」

「美女だらけって言ってもその場に遭遇したらめちゃくちゃ怖いだろうな」

「みんなプリクラ撮る前みたいに目をかっぴらいてるしね」

「想像するだけでこえーな」

 ベッドにもぐりこむ。ひなたくさい、かぎなれた布団にしみついた自分の匂いをかいだだけで、意識にタオルケットをかけられたみたいにとろんと眠くなる。「おい、まだ九時前だよ? そんなに疲れたか?」と圭一が苦笑しながら私の顔を覗き込む。

「うん。さすがに青森から仙台までバスで降りてくるのは疲れた……なんか、山を越えてるせいか東京区間よりも疲労してる。全然人がいなかったけどね」

 隣に人がいなかったから、こっそりニシート占領して横倒しになって寝た。けれど窮屈な姿勢に拍車がかかっただけで、骨格ごと座席のかたちになってしまったような気さえする。

「音羽は頑張っててえらいな」

 髪を指ですき、頭を撫でられる。うとうとしていると、圭一は音量をしぼったテレビを見ていたけれど、やがてそれも消えた。シャワー音がうっすらする。

部屋の電気が消えた。「俺も横になっていい?」と圭一が言うので寝ぼけながらスペースを空ける。ほとんど寝かかっていたけれど、予想通り覆いかぶさるようにして唇がふさがれ、舌が割って入ってきた。眠いからやめて、と言いたかったけれど、研究が忙しいなか家に来て家事をしてもらった負い目があるので黙ってこたえた。ふとももを熱い手のひらで撫でまわされる。

「音羽が一番可愛いよ。努力が結ばれるといいな」

 囁かれて、ふっと涙腺がゆるみそうになった。圭一が安心したように私のキャミソールをまくりあげて、下着を外している。


 次に都と会ったのは、五月の最高気温を更新した土曜日のことだった。

アナウンサーの面接はほとんどが私服指定だから、私はここぞとノースリーブのセットアップを着ていたけれど、律儀にジャケットを羽織って現れた都は「暑いよー」とホテルに入るなりジャケットを脱いだ。

「脱いで、手で持ってこればよかったのに。暑かったでしょ」

「私、一回それやってお手洗いでジャケット忘れたことあるから。面接をまだ控えてたから、本当に顔面蒼白になったよ」

 まあ面接ではとくに突っ込まれることはなかったんやけど、と言いながらコンビニで買った菓子パンや飲み物をベッドの上に並べていく。まるでピクニックみたいだ。

「あれ、私するめなんかかったっけ。あたりめも入ってる」

「ああ、私が入れたんだ」

「ビールを飲むわけでもないのに、音羽ちゃんって意外とおやつの趣味が渋いよね」

 チョコレート菓子を開けながら都が言う。都こそ、おっとりとした大和撫子なのに、みるからに辛そうな色の濃いポテトチップスやお酒入りのチョコレート、チーズスナックなど味が濃いジャンキーなものを好んで買っている。

「一応あんまり太らないものだけ間食するようにしてる。こんにゃくゼリーとか干し梅とか」

「そっか、節制してるんやね。音羽ちゃんって食べても太らなさそうに見える」

 その手の台詞は言われ慣れているけれど、実際のところ食べればそのぶん肉がつく体質だ。高校時代から人前に立つ仕事にあこがれがあったから、どれだけストレスがたまっても暴食ではなくランニングなど運動で昇華するように心がけている。

 それでも、生理前はどうしても周期で我慢が利かなくなって夜中にラーメンを茹でたりお菓子をつまんだりすることもあるけれど、如実に肌が荒れたり顎の下に脂肪がふかふかと蓄積されるので、去年の十月頃からはカロリーの高いお菓子を買うことは自分に禁じている。お腹がすいたら紅茶を淹れておなかをふくらませているから、家にはティーパックが何種類も常備されている。

「私もヘルシーなお菓子にすればよかった。なんかこれみよがしでごめん。しかもよりによってにおいがきついお菓子ばっか買っちゃった」

「いいよ、欲望に任せてばくばく食べちゃいなよ。都がお菓子食べてるのを見て自分の欲望を満たした気になりたいから」

「わかった。心おきなく食べる」

 宣言通り都がお菓子の包装を開けて無心に口へ運んでいく。明太子おにぎりの冷たいお米を味わいながら眺めていると、少し癒された。

 内定解禁まであと二週間。お互い、「こんな就活生がいた」「こんな無理難題を面接で訊かれた」などと面白おかしくエピソードをわかちあってはいるけれど、自分がいまどれくらい手札を持っていて、選考がどれくらい進んでいるかは自然と話題から避けていた。

 大学の同期のなかには内定を持った状態で就活を続けていたり、もう第一志望から内定が出たからと就活を終えている子たちもちらほら混じり始めていた。そのうち、就活生たちが「内定を持っている」「持っていない」に二分されていくのだろう。今から想像しただけでも心が疲れる。

今日泊まっているこのホテルは渋谷の円山町にある。明日二人とも新宿バスタから帰るのだからまた新宿にすれば便利なのだけれど、【このホテルめっちゃ安い】と都がURLを送ってくれていたので、渋谷で待ち合わせた。

「安いだけあって今日のホテルは一段とボロいね」都が指についた粉をぺろりと舐めながら言う。「うっすら隣の部屋から声がしてる。ラブホテルなのに防音ができてないなんてどうかしてる」

 確かに壁ごしに、赤子の泣き声にも似た嬌声が聞こえていた。別に気まずいということはないけれど、あまり聴いていたいものでもなく、携帯から音楽を流した。

「あれ、これドビュッシー? さすが音羽ちゃん、イメージをくずさないね」

「面接前は壮大な気持ちになりたいからクラシックを聴くようにしてる」

「なるほどね。なんか、この貧乏なホテルで厳かで神聖な曲を聴くのもちぐはぐでいいね。夢見がちな感じがする」

 口にしながら都がはっとして目を泳がせた。夢見がち、という言葉で自分たちの待遇だと冗談になっていないことに気づいたのだろう。気づかなかったふりをして音量を上げた。

【あなたはどんなアナウンサーになりたいですか?】

【あなたは周りの友だちからどんなふうに評されていますか?】

【あなたの大学のキャンパス校内だと仮定して、レポートをしてみてください】

【М&Aという単語を中学生に向けて解説してください】

 アナウンサー試験では必須のカメラテストがあった。アナウンススクールでさんざん練習したないようではあったけれど、キー局の試験と言うこともあって並大抵でなく緊張した。歯の根が合わなくてがちがち鳴らしてふるえている子を見て、やっとほんの少し落ち着かせることができたけれど、このチャンスを掴まなければあとはない、と思うと血の気が引いてその場に倒れこんでしまいそうだった。あと、もう少しで自分が行きたくて行きたくてたまらない世界がある。作り笑顔がこびりつきそうなくらい、口角を持ち上げ続けて表情筋が引き攣れそうだった。

 面接内容はもうほとんど覚えていない。面接官の遠い笑顔、自分より遠いところから聞こえてくる自分の声、破裂しそうなくらいふくれあがった心臓の唸り、「ありがとうございました」と言われて「終わってしまった」と緊張が溶けた途端、現金にもくやしさを覚えた。ゆっくりと礼をしてから部屋を出た。ビルの外はさんさんと陽射しが降り注ぎ、慌てて日傘を差した。

「私今日キー局の三次試験だったんだ」

思い切って打ち明けると、コーラを飲んでいた都は目をまるくした。

「そうだったんだ。お疲れ様。志望度が高いところの面接って、もう気が気じゃないよね」

「本当にそう。地方の局を受けるときもそれなりに緊張するし入りたいと思って受けてるんだけど、意識が沸騰するかと思うくらい緊張した。夏まで血管が何回も破裂しそう、こんなこと繰り返してたら身体がもたないよ」

「大学生活でこんなに極度のストレス状態を味わうことってほとんどないもんね」

 そういえば都は大学でどんなキャラで、どんな学友に囲まれているのだろう。好きな小説家の話や面白かったマンガの話なんかはよく語ってくれるけれど、都の大学生活についてはほとんどふれていない気がする。おっとりした見た目ではあるけれど芯は強く、知らない女に気兼ねなく声をかけてくるような子だから、案外にぎやかな学校生活を送っているのかもしれない。

「都って普段どんな人と一緒に遊んでるの?」

「え?」

 都は二、三度瞬きした。

「うーん、正直就活が始まってからはほとんど人と会ってないんよね。ES添削とかもあんまり人に頼んだりしてないしなあ。たまに研究室の後輩とお茶したりするくらい。まあ、研究室のなかでコーヒー淹れるだけやけど」

「ふうん。サークルは何入ってるの?」

「オーケストラ部に入っててフルートを吹いてる。といってもいまはきちんと現役で活動してはいないけどね」

「フルートなんだ。どっちかと言えば琴とか和楽器の方が似合う感じがするけど、フルートも都には似合いそう」

「私は名前が和風やしね。昔ブラスバンドのアニメが流行ってて、それに憧れて中学から吹奏楽やってるの。ミーハーでしょ」

 顔を赤くしてほっそりとした撫で肩をますます小さくすぼめた。

「そんな、アナウンサー目指してる私の前でミーハーとか禁句だよ。私はアナウンススクールの掛け持ちが忙しかったから、サークルは入りたかったけど諦めたんだよね。どうせやるなら軽音楽部とか、音楽部系をやってみたかったなあ」

「そっか、そうだよね」

 高校生の頃に放送部で校内ラジオをつくったときに「こういう仕事をできないかな」と思ったことがきっかけだった。何気なく母に話してみたら「あら、アナウンサー目指したらいいじゃない」と言われたのだった。

「そんなの、アイドルくらい可愛くなきゃなれないよ」

 芸能界なんて自分の世界とつながっているものだと思えなかった私は、荒唐無稽だと思って笑った。けれど、母は笑顔で言った。

「音羽は贔屓目抜きに綺麗だし、まあいま流行りのなんちゃってアイドルみたいなアナウンサーではないかもしれないけど、正統派のアナウンサーになれる気がする。ねえ、お父さん」

「確かに。でも野球選手と結婚されたら困るしなあ」

 二人そろって大した親ばかだ、と私は冷静に呆れたけれど、その日の晩のうちにアナウンサーになる方法について調べてしまった。ミスコンで優勝した人が推薦されてなるイメージが漠然とあったけれど、アナウンススクールに通って就職試験を受けて勝ち抜いた人がなる、というものだった。

 ――今からなら、私もアナウンサーになる道を選ぶのに遅くはない、のかも。

 両親には東京の私大の専願でもいいと言われたけれど、ダブルスクールの学費を出してもらうことを考えると、下に弟がいて母親は専業主婦であるうちの家計ではかなり苦しいことは明白だった。結局、地元の国立大学を第一志望にして、同時に習い事としてアナウンススクールに通うことにした。偏差値では引けを取らないのだし、特に東北地方ではそれなりにネームバリューのある大学だ。こつこつレッスンを受けて練習していれば、東京の私大から目指す人にだって負けることはない。そう判断した。十七の冬だった。

「音羽ちゃんって高校生の時から音羽ちゃん、って感じがするね」

 耳を傾けていた都が感嘆したように言う。恥ずかしくなって「私は頭硬いから、ある意味中身がずっと変わってないのかも」とぶっきらぼうに言った。

「いいじゃん。ほとんどの就活生が、自分には一貫性があるかのように嘘ついて見せかけることに腐心してるんだよ。立派なことだよ」

 しみじみと都が言う。同い歳の人の感想に思えなくて「そうかな」と苦笑いした。

「そういえば音羽ちゃんってミスコン出場者?」

「二年の時に出てる。でも優勝者じゃなくて準ミスだから」

「すごい! ねえ、写真見たいなあ」

 みんなが色とりどりのウェディングドレス姿を披露している中私だけは極道の妻のごとく、金の刺繍を挿した黒い振袖をまとってつんと取り澄ましている写真を見て都は「音羽ちゃんらしいねえ」と保護者のように朗らかに笑った。斜に構えすぎた結果一番トリッキーになってしまったミスコンは私にとって黒歴史だし、就活で心を磨り潰してして語るときも面白い失敗談として笑いに昇華している。

「確かに正統派ではないけど、音羽ちゃんが一番オンリーワンって感じ」

「まあ、極道ミスコンの子ってことで印象には残るみたい。ESに写真貼ると絶対つっこまれるもん」

 写真やイラストをちりばめたお手製のESを見せると、都はわざわざ手を洗いに行ったあと「拝見します」とうやうやしくクリアファイルから取り出してじっと見た。

 児童館でのボランティア活動、ドイツ留学、ミスコン出場、アナウンススクール……私の大学生活はすべて「アナウンサーになりたい」という夢で紐を通すためのビーズだ。持ち上げるとひとつなぎのネックレスがじゃらりとできあがる。

「もしかして音羽ちゃんって、」ぽつりと都が言う。「あんまりサボったりずるしたりできないタイプ?」

「いやいやそんなことないって。自分では要領よく物事を進めるように努めてるけど、確かに融通が利かないとは彼氏によく言われるかな。頑固だし」

「なんかわかる気がする。まじめだもん。イラストとか、全部丁寧に描いてある。どの挿絵もやっつけじゃない感じ」

 ドビュッシーの「月の光」から次の曲に切り替わる間の間、また隣の部屋からうっすらと声がした。喘ぎ声ではなく、女の怒号だった。

「本当は日帰りできるのに同性といかがわしいホテルに泊まる、ってことが音羽ちゃんにとってぎりぎり許せるラインの悪事なのかもしれないね」

 そんなことない、と反論しようとしたけれど、都があまりにも穏やかな聖母のようなまなざしをしているから言えなくなってしまった。そして、本当にそうなのかもしれない、と思いそうになった。

「次会うときはお互い一つは内定出てるといいね」

 なりたい業種がはっきりと定まっていて捨て札を持たない私たちが、内定を持っているにもかかわらず就活を続けている可能性は、もしかしたらとても低いのかもしれない。どちらかの内定が出たとき、それはもう、二人で東京で会うこともなくなる、ということだ。都はそれに気づいているのかいないのか、微笑んだままESを読み込んでいた。


 卒業写真の個人撮影があったので、その帰りにひさしぶりに研究室によった。ついでにESのコピーもしてしまおう、と思いUSBも持ってきていた。

「音羽! ひさしぶり」

 研究室に入ると、思った通り同期が何人も集まってテーブルについてお茶を飲んでいた。「ひさしぶり」と挨拶を返す。就活について突っ込まれるのが目に見えているので、さっさと奥に行ってプリンターをセットした。

「美紗子、第一志望から内定出たんでしょ?」

「うん。先週内定出た。やっと就活終わったよー」

「よかったね、おめでとう! 玩具メーカーの営業だっけ?」

 背後で同期たちが無邪気に盛り上がっている。美紗子は二月の半ばにようやく就活を初めて、長いこと前から就活をしている私にESの書き方や自己分析の仕方を教えてほしいと相談してきたことがあったから何度か研究室でも添削したことがある。第一志望の企業は確か、日本で三番目に有名なとても大きな玩具メーカーのはずだ。自分がそこの内定をほしかったわけでもましてやエントリーしたわけでもないのに、心がひしがれる。

黙々とESを出力する。画像がいくつもあるからか、いつもよりも動作がのろい気がする。

「そういえば音羽って、いまどんな感じ? アナウンサー以外の業種って受けてないんだっけ」

 様子を伺うように声をかけられる。この状況で私に声をかけないのはかなり不自然だから、逆に気を遣った結果だろう。くせになったスマイルをはりつけて振り返る。

「まだ内定出てないから、しばらくは行ったり来たりになりそう。いまのところは他の業種は受けてないよ」

「そうなんだ! やっぱり音羽ってストイックだね」

「しんどいと思うけど頑張ってね」

みんなが口々に言う。「ありがとう」と笑ってみせる以外、どうしろというのだろう。彼氏以外、ほとんど知り合いに会わない状態で生活していたからひさしぶりによく見知った友人に会えてうれしいという気持ちが、早くも「面倒くさい」という気持ちに変色していく。

「そうだ、このあとみんなで学食行くんだけど、音羽も一緒にお昼食べようよ」

「ごめん、私このあと出なきゃなんだ」

 断ると、「そっかー」「じゃあまた今度話聞かせてね」と眉を下げてみんなが研究室を出て行った。通り掛かった後輩がいたわるような目を私によこしてきたことがみじめで、荷物をまとめたあとすぐに研究室を出た。エレベーターで同期とかちあったら嫌なので、お手洗いに入る。

「立派な夢があること自体は素晴らしいけどさ、それをよりどころにするのって、なんか違うよね」

 ドアを引く寸前、洗面所で誰かが話しているのが聞こえて慌てて立ち止まった。推測するまでもなかった。さっきまで一緒にいた同期のうちのひとりだ。

 そういう自分にうっとりするために夢を追いかけてるふしあるくない?

 でもあれだけ用意周到にしてた音羽が一番最後まで苦労してるなんて、世の中皮肉だよねー。人間見た目ではどうにもならないってこと?

 背を向けて、エレベーターホールも通り過ぎて階段を駆け下りた。ありえない、ありえない、ありえない、頭のなかで自分ではない誰かの声が甲高くわんわんと響き渡る。しばらく履いていなかったピンヒールを履いた足がもつれそうになる。

 満足に美しい母国語をしゃべれないような人間に何を言われたって傷つかない。自分に言い聞かせる。私は自分のことを信じている。私は努力をしてきた。誰よりも、なんて言えないけれど、私が私に満足できるくらいには、できることをすべてしてきた。

 でも、私には内定がない。ただそれだけの単純な事実が、こんなにも自分を粉々にぶっ潰してしまう。内定が出た人間の方がすぐれた人間で世の中に必要とされた人間だと第三者に定められたみたいに思ってしまうのはどうしてなんだろう。たとえば美紗子と私とで何が違ったんだろうか。

 気がつけば六階にある研究室から一階まで降りてきていた。怒りと恥ずかしさが視界を真っ黒に塗りつぶしていく。

 なりたい夢があって何が悪い。その理想像に向かって努力していること、けれど報われていないこと、それを評価していいのは私自身だけだ。土俵に上がるでもなく「へえ、すごく高いところにいきたいんだね」と見上げているだけの人間が軽口を叩いて評していいはずなどないのに。


 梅雨が間近なのか、東京は雨がちになった。満員電車で濡れた傘を押し当てられて、ストッキング越しに脚が濡れて怖気がした。来年からもし東京で暮らすとしたら、雨の日はこんな目に遭わなければいけないのだろうか。そう思うといまからうんざりした。

 手札はかろうじて残っている。同じ笑顔を浮かべて同じエピソードを何度も何度も話し続けている。ばかのひとつ覚えみたいに。

 私はいつになったら就活を終えることができるのだろう。

 手札が全滅する可能性は日に日に濃くなり、就活課に勧められるまま、てんで違う業界の説明会に重苦しい気持ちで参加した。羽虫が飛ぶ音程度にしか脳が話を捉えられず、説明会のあとに提出するエントリーシートは白紙で机におきざりにした。こんな人間が取り繕って提出したところで採用されるはずなどない。ひさしぶりに履いたリクルート用のタイトスカートは、痩せたせいか腰回りがゆるく、何度かホックが止まっているか確かめてもずっと心もとなかった。

 東京に出る予定がしばらくないので都に連絡することもないし、彼女からも連絡はない。内定が出たとしても会って話すまでは報告しあわないのが就活生の暗黙のルールだから、都の沈黙の意味がどちらなのかは計りきれない。確かなのは、都の住む町の方が先に梅雨が来ていて、分厚い雲が天をどんよりと覆っているだろうことだけだ。

 アナウンサー志望だからあたりまえのようにつねにロングヘアを貫いていたけれど、うなじに湿った空気がこもるのがわずらわしくてショートヘアに切ってしまった。アナウンサーらしさはだいぶ減ったけれど、知り合いからは「そっちの方がいいじゃん」「似合うね」と好評だった。

 圭一にラインで【髪切ったよ】というコメントとともに自撮りを送ると、【研究室上がったら家に行っていい?】と返信があった。OKとだけ返す。

 久しく彼氏に手料理をふるまっていないことに気づき、冷蔵庫を覗く。干からびて小さくなったにんじんと皺だらけのじゃがいもを捨て、スーパーへ買い出しに出かけた。買ってきた野菜を手際よく刻んでいると、無心になれた。こういう時間を持つこと自体、随分久しぶりのことのような気がした。

「音羽ー。入るよ」

 圭一がドアを開けた。「髪、ばっさりいったね。おとなっぽくて似合うよ。っていうかあれ、作ってくれてたんだ。ごめん」

「ううん、こっちこそいつも食べさせてもらってばっかりだから」

 野菜炒めと豚の生姜焼き、オクラの胡麻和え、あさりの酒蒸し、わかめと卵のスープというあまり工夫のないわりに統一性のないこまごまとしたおかずばかりの献立ではあったけれど、それなりに手際よく作れてほっとした。ローテーブルで向かい合って食べる。

「どう? 自炊してなさすぎて冷蔵庫に全然材料がなくってびっくりした」

「おいしいよ。俺もひさびさに音羽の手料理食えてうれしい」

 やさしく笑いかけられ、胸がくすぐったくなる。けれど、心が完全に緩み切ることはなかった。

 あとニ十分。スマホが通知で画面を白く光らせるたびに、心臓がぎゅっと前にせり出す。

 今日、最終試験の結果が出る。もし受かっていれば、私は地元の局のアナウンサーだ。遅くとも十九時には連絡が入るとのことだった。

「っていうか今日やっと晴れたと思ったのに途中で雨降ってたよな? 洗濯物部屋に取り込みに寄ってたら遅くなったんだよ。ごめんな。まあ全部ずぶ濡れだったからあんまり意味なかったけどな」

 興味のない説明会に参加した時と同じで、圭一の声が耳を素通りする。オクラを噛むと種が飛び出して奥歯に挟まった。それを取るのに集中するふりをする。

携帯の通知のことを気にしないようにするあまり、何品も何品も無限におかずをつくってしまいそうだった。もし落ちていたら明日は盛岡に面接へ行かなければいけないから、冷蔵庫に食べ残しを入れておくわけにも行かないのに。

 あと十四分。時間が砂粒になって空中に止まっているのが目に見えるかのようだ。

「音羽」

 早く教えてほしい。期待を打ち砕かれるかもしれないと思いながらも良い結果を想像しながら待つのは、落ちたことを知る瞬間よりもずっとずっと苦しい。心臓が伸び縮みしながら引き絞られて、痛い。

「今日、なんかおかしくない?」

 圭一が生姜焼きを箸で挟んだまま私を見つめている。気がつけば、たくさんある小皿のほとんどを圭一が片してくれていた。食欲などほとんどない。

「今日、仙台局の結果が出るの」

 圭一がはっとしたように目を開いた。

「大丈夫」あと十二分。「音羽、きっと大丈夫だよ」

 もし今晩落ちていたら、就職浪人のことも考えなければいけないのだろうか。でも、もし受かっていたら、いままでのすべてが報われる。何もかも、今までの苦難も羞恥も悲しみも悔しさもすべて腑に落ちることができる。

 心臓が早く走りすぎて、肉体をおきざりにして、熟れ過ぎた果実のように朽ちてしまいそうだ。

「どうしよう」

「大丈夫だって」

「こわい」

「大丈夫。一緒に待ってあげる」

 圭一が立ち上がって私の隣に来て、肩を抱いてくれた。そのとき、ぶるぶるとスマホがふるえた。

 通知を開く。もどかしい気持ちでひっつかみ、メールを開いた。

【このたびは残念ながら――】

 読んでいる途中で、ふうっと腹を大きな丸太で押されたようなため息が出た。圭一がすべてを察したように、息を呑んでじっとしているのが気配で伝わる。

 不採用。私は選ばれなかったのだ。

「だめだった」

「そっか。お疲れ様」

 圭一が私の髪を撫でる。いつもよりずっと短い私の髪のあっけない指通りに戸惑うように圭一の指が宙を掻く。

 ――どうして。

 自信があった選考だった。地元だし、エントリーシートも志望動機も嘘をつく必要がなくのびのびと話すことが出きた。それでだめたったのなら、私はもうどんな僻地であろうとアナウンサーという職業には就けないんじゃないだろうか。

 何も考えられないくらい、心がぶるぶると寒気でふるえている。でも、明日からの身の振り方をすぐにでも考えなければ。次の手は、誰も用意してくれていない。私がしなければいけないのは自分自身の人生のお膳立てだ。

いままでもずっとそうしてきたはずなのに、頭が真っ白になって何も考えられず、ぼんやりとテーブルの上の生姜焼きを眺めた。白く脂が表面に浮かんでいて、もう誰の食欲もそそらない物体に変わりつつあった。

「これからさ、そうするの」

「……一応、まだ岩手の選考が残ってるから明日そこを受けに行く。でも、倍率が高かったからあんまり期待できない。二次募集がかかるのを待つかな」

「今後もアナウンサー以外の業種は受けないってこと?」

圭一が静かに問う。

「いままでアナウンサー職一本で頑張ってきたから、いまさら変えたくない。それに、興味のない分野でその場しのぎで内定が出たところで、承諾できる気がしないし」

 すべての料理が急速に温度を失くして冷めていくのが手に取るようにわかる。圭一はそれに目を向けながら、「あのさ」と低い声で切り出した。

「俺は、前提として音羽の夢を応援してるし、努力しているところも一番近くで見てきたと思う」

淡々とした物言いに、嫌な予感がした。

「年明ける前からだっけ、就活してたの。クリスマスも就活してたもんな。でも、もう半年以上そろそろ区切りにしたらどう?」

「……どういう意味」

「戦う場所を広げるか、変えるかした方がいいと思う」

 窓の外でトラックが走る音が風に乗って聞こえてくる。私は意図して自分の部屋の外の世界に意識を飛ばそうとした。遠くへ、遠くへ、遠くへ。

 圭一は眉根を寄せて、苦しげな表情をしていた。この人が就活で落ち続けた当人みたいに。

「それ、どういう意味。私がアナウンサーになるっていうのはもう無理だから諦めろって言いたいの?」

「そうじゃないよ。でも、それ以外の道を閉ざして就活をし続けるのは自分の可能性を殺すことでもあるだろ。時間だって有限だし、効率よく動かないと」

「可能性って、私がそれ以外の業種をはなから選ぶ気がないんだから、殺すも何も最初から選ばれに出向かないのは当たり前のことじゃない? 圭一が研究職の内定が出ないからと言って事務職や経理にはエントリーしないのと同じだよ。何、保険をかけながら就活しろって言いたいわけ」

「俺には、音羽がアナウンサーを目指すこと自体が目的化してるように見える。俺、就活したことないけど、就活ってそういうことじゃないと思う」

 手先から体温が抜け落ちていく。私はもう、圭一の目を見返すことができなかった。これ以上つらいことはないと思っていた状況下で、私は恋人に何を突き付けられているのだろう。

「おねがい。これ以上言わないで」

「言い訳にしてない?」

 圭一がじっとわたしを見ている。

「音羽がアナウンサーになりたいのはわかるけど、それを言い訳に振りかざしてる気がする」

 振りかざす?

 怒りの度が過ぎると哀しみになってしまうのだと思った。声を絞り出す。

「何の権利があってそんなこと、あなたが口にするの」

「思ったんだけどさ」圭一はあくまでも穏やかで、怖いくらい淡々としていた。私の怒りにもひるむことがない。「音羽はアナウンサーになりたいんじゃなくて、アナウンサー以外の、一般的な職業につくことを避けて、結果現実的にすり合わせてアナウンサーを選んでるように見える。そうじゃなかったら女優とか作家でもいいと思ってるんじゃないか」

「そんなことない。何突飛なこと言ってるの? 的外れだよ」

「ほかの業種を目指している就活生と自分をあまりに乖離して見ていない? でも、企業からしたら音羽も、ほかの就活生も同じ学生だよ。アナウンサー 試験の面接官から見たって、同じじゃないの」

「だったらどうしろっていうの」

 亀裂が入った花瓶から水が漏れるように、甲高い金切り声が出た。

「アナウンサーになるっていう夢と、それ以外の職業を目指すことを同時に行うってこと?」

「そうだよ。みんなそうだよ。音羽がアナウンサーっていう職業が第一志望であるように、みんなにも第一志望があって、でもいろんな条件とか不採用とかが重なって、現実と擦り合わせて自分の居場所を探してるんじゃないの」

 さっき圭一の言い放った「言い訳」という単語が弾丸となって心臓を真っ二つにしてしまった気がした。もう、何を言われているのかよくわからない。

「私が間違ってるってこと? 努力してきたことは全部無駄で、もう報われることはないんだから妥協してちゃんと就活をみんなみたいにやれってこと?」

「そうじゃないよ。なあ、音羽、」

「自分がなりたいものになれるってことを信じるかどうかはわたしだけが決めることだよ。部外者のあなたに指図されたくない。圭一が代わりにES書いて、面接受けに行ってくれるわけでもないじゃない。全部、全部私のことだよ。当事者は私だけなんだよ」

「音羽。聞けって」

「帰って」

 弱々しく吐き捨てると、圭一は黙り込んだあと小さくため息をついた。物わかりが悪い私に呆れているようにも悲しんでいるようにも見えたのは、あまりにも歪んでいるだろうか。

「音羽、今日は疲れただろ。明日もあるんだし、ゆっくり休みなよ」

静かに荷物を持って部屋を出て行く。この期に及んで去り際に父親のような慈愛の言葉を残して去っていったのが憎たらしくて、ドアが閉まったあと思わず舌打ちを飛ばした。

部屋に静寂が戻り、ゆっくりと深呼吸する。殺気立つ気持ちが落ち着かない。

料理をすべて捨てて、メイクを落とさなければ、と思いながらも身体が重くて動かない。明日も面接を受けて、二次募集をしていないかチェックして、あればすぐにエントリーをしなければ。

 しなければならないことはいくつもいくつも、部屋を埋め尽くす勢いで押し寄せている。どれにも手をつける気になどなれない。

 ベッドに突っ伏した。昼間もほとんど食べていないのだから夕食はせめてきちんと摂らなければ、と頭の片隅で冷静に思うけれど、もう見たくもない。もはや、捨てるために私は大量に料理したのではないかとすら思う。

【誤解があったかもしれないけど、音羽が無理をしてるように見えてつらかった。がんばるのもいいけど、たまには助けを求めてほしい】

圭一からメッセージが来ていた。彼らしい、気遣いに満ちた内容ではあったけれど、心がぴくりとも動かない。私に取りすがられて安堵したいのは彼の方なんじゃないか。そう穿ってしまう。既読だけつけて返信はしなかった。

 我ながらかわいげがないな、と思ったけれど、どこを見渡してもそれだけの余裕が自分のどこにも残っていない。

 のろのろと洗面所へ向かった。鏡に水性ペンで書いた早口言葉の羅列が鬱陶しくて、苛立ちに任せて手の甲でぬぐって消した。もう、本当に自分がアナウンサーになりたいのか、それ以外の職業に就きたくないだけなのか、わからなくなってその場にしゃがみこんでしまった。


 都から連絡があったのは最終試験で落とされた日の二日後のことだった。

【お久しぶりです。実は進路が決まりました。音羽ちゃんは最近どうですか? もし東京に行くことがあれば教えてください】

 つまりは内定が出た、ということだろうか。なんだか含みのある言い方に引っかかったものの、要するに次の居場所が決まったということだ。腹の探り合いなしに素直な気持ちで一緒に励ましあってきた唯一の就活生仲間は都だけだった。

 志が高く一途な友達にやっと内定が決まって嬉しいという気持ちと、置き去りにされてしまった、というどうしよもない焦燥感と悲しさがないまぜになった。

【おめでとう! 私はとうとうアナウンサーの手札がなくなってしまい、いまは二次募集対策をしています。就活浪人するのか、全然違う職種の夏季採用を受けるかはまだ方針を決めてないって感じ】

【そうだったんだね。お疲れ様。私も、出版社はすべて軒並み落ちてしまって、行くのは全然違う業界。できたらその話をしたいな。東京で会うことが難しければ電話でも大丈夫】

【ちょっと遅いけど来週木曜日に説明会があるから東京行くよ】

【オッケー。そしたら木曜日私も東京行く。その日泊まるよね?】

【うん】

クマがOKしているスタンプが送られてきた。都が受かった企業は出版社じゃなかったんだ、と知ってほっと撫で下している自分がとても醜いと思った。それと同時に、きちんと保険を用意してそれが彼女を守ったことを、羨ましさ以上に裏切られたような気持ちになっていた。勝手に自分の選択肢を切り捨ててきたのは私なのに。

 ――今まで全部、ストイックである自分に、酔いしれてたかっただけなのかな。

 そう思うとやりきれなかった。圭一とはあの日以来会話をしていない。何度か不在着信があったけれどすべて既読無視を通した。そのうちスマホは鳴らなくなった。これで最後ってことか、という言葉には胸が痛んだものの、どうしても許せなくて返事を打てなかった。

 級友には憐憫されて、恋人には呆れられて、夏の盛りの昼間と冷房の効きすぎた建物を行き来しているうちに体調を崩しやすくなった。私の夢は大事なものを失ってまで手を伸ばす価値があるのだろうか。

アナウンサーという職業に価値があるのかどうかということではない。アナウンサースクールに日々通い詰めたり、ボランティア活動をしたり、発声練習を夜中までし続けたり、喉が乾燥しないようにアルコールを避けたり、そういう、努力だと思ってしてきたものが何も結ばなかったいま、私はもう、自分のどこにも根拠や説得力を見出せないのだ。

 涙が出る感覚があったけれど、そうではなくこめかみを汗が流れただけだった。面接も説明会もないと、ただただ時間が過ぎるのを待つだけになってしまう。冷房をつけた部屋で、陽の高いうちに眠った。

 ラブホテルが恋しい。朝でも昼でもいつも夜みたいなあの場所だったら、この部屋と違って遮光カーテンから蜂蜜のように陽射しがはみだしたりなんてしないはずだ。


 四時には終わると思う、とラインしておいたら都はビルの前で私を待ち構えていた。都、と呼びかけるとぱっと花がほころぶように笑顔になってかけよってくる。

「暑かったでしょ。待っててくれたんだね」

「ううん、さっき着いたところ」

都はパフスリーブのブラウスにくるぶしまでの黒いシフォンスカート姿だった。思えば都と待ち合わせるときはリクルーツスーツ姿で会うことがほとんどだったから、なんだかよその女の人みたいでどきどきした。

「音羽ちゃん、髪切ったんやねえ。最初わからなかった。顔が小さいから似合ってる。ますますスタイルよく見えるね」

「ありがとう。まだ夕飯には早いよね。どっかカフェとか入る?」

「うん」

 もくもくと、駅前を目指して歩きだす。夕日とは到底呼べないくらい、太陽は高いところにあって容赦なく地を照らしていた。

「都、内定出たんだよね? おめでとう。どういう会社に入るの? 東京?」

「ありがとう。地元だよ」

「そうなんだ」

 歩きながら具体的なことをつっこむのも野暮かな、と思ってそれ以上訊くのはやめた。会った頃はうなじで鍵盤のようにきれいに切り揃えられていた都の髪は、伸びたのか無理やりひとつ結びしてあって、ハムスターの尻尾のように小さく揺れていた。

「ここにしようか」

「うん」

 駅前のチェーンのカフェに入る。就活したてのときは「せっかく遠征してるんだから」と可愛いカフェやお洒落な喫茶に入ってゆっくり過ごすのをひそかに楽しんでいたけれど、お金がひっきりなしに飛ぶことに気づいてやめてしまった。

「私はまだ時間がかかりそうだけど、もう就活辞めたんだよね?」

 切り出すと、都はアイスコーヒーに口をつけないまま「そうだね」と言った。「今は論文書いてる」

「卒論? そう言えば都、最初に私に話しかけてきたとき、大江健三郎が好きって言ってたよね。題材は当然大江?」

 話を振っても、都はどこか思い詰めたようにテーブルの上で手を重ねている。話がしたい、と言ってきたのは都なのに、あまりこの話はしたくなさそうにすら見える。

 諦めて、全然違う話をしようとした。けれど、私たちの間で共通なのは就活くらいだ。仕方なく、圭一の話をすることにした。自分と同じで、一つの高い目標に向かって頑張ってきた都なら私がどれほど怒りと屈辱を味わったか、わかちあえるだろうと思ったからだ。

「私ね、内定出ないせいで彼氏と別れそうなんだよね」

「工学部の先輩だったっけ。どうして? 全然会ってないの?」

「ううん。割と合間を縫って会ってた。遠征してるときもまめにラインしたり電話して愚痴聞いてもらったり話し相手になってもらったりしてたんだけど、それがかえってだめだったのかも。『アナウンサーになりたいっていう夢を言い訳に使うな』って言われたんだよね」

 都はさっと表情を失くした。

「何それひどい」

 都は自分がその台詞を投げつけられたみたいに傷ついた顔をして呆然としていた。「百歩譲ってそうだとして、たとえ恋人でもそんなこと、音羽ちゃんに言う資格誰にもないよ」

「だよね。もちろん向こうにも言い分はあるんだろうし、伝えたかったのはもっと別のことなのかもしれないけど、ひどすぎると思ってずっと連絡無視してる。もうすぐ付き合って二年とかだったけど、もうだめだと思う」

「そうだよね……」

 都は小さな声で呟いた。

「どこかで、それが当たってることもうすうす気づいてる。でも、それを彼氏っていう関係性の人に言われるのは、さすがにこたえたな」

 いつまでたっても都が飲まないアイスコーヒーは、表面が汗をかいてコースターを丸く濡らしている。滝のようにだらだらとあられもなく流れる露を見ているとなんだか落ち着かなくなり、目をそらした

 ねえ、と都が切りだした。

「音羽ちゃんって、現役生だよね」

「そうだけど」

「私、実は今年二十五歳なの」

 え、と声をもらすと「びっくりした?」とゆるく微笑む。

「わたし、学部四年じゃないの。修士二年で一浪してるから、音羽ちゃんたちより三つ上」だから中途採用と間違われちゃうんだよねー、と歌うように呟く。

「これ以上経歴を無為に引き延ばすわけにはいかないんだけど、やめどきがわからなくて。就活は二回目だったんだ」

「……ずっと出版社を受けてたってこと?」

「そう。学部で就活失敗して、院に進んだんだけどそのときも出版社の内定が出なかったから、院に進んで二回目のチャンスを待ったの。しっかり準備したし今年こそどこかには受かるだろうと思ってたけど、そううまくはいかないよねえ」

 ほとんどすっぴんに近い顔に野暮ったいめがね。垢抜けなさで幼く見えていたけれど、年齢相応ではないという点では確かに二十五歳に見えないこともなかった。

「音羽ちゃんの夢は、こういう言い方は失礼かもしれないけど、どうしても年齢が重要な条件になる業種ではあるよね。出版は、そういうわけじゃないから、どう自分に言い訳すれば終わらせられるのか、よくわかんなかった。でももう終わりにする」

 ふう、と息を吐いてめがねをはずす。蒼いそばかすが星のように頬に薄く広がっていた。思いがけないほど黒目が大きい。

「気持ちがわかる、とか言われたくないかもしれないけどさ」

 風でたなびく波紋のようにゆるゆるとした笑みが浮かぶ。いつもと変わらないのに、どうしようもなくお姉さんに見えた。

「わたしも学部の就活のときやは、音羽ちゃんみたいに心を切り詰めてたからさ、なんかね。だから音羽ちゃんから目が離せなかったのかも」

 お人形みたいにきれいやね、と初対面のときに言われたことを思いだす。随分無防備な子だな、とあのときは思ったけれど、年が三つも離れていたら余裕があるように見えて当然だったのかもしれない。

「立派な夢がある自分が好きなんでしょ? って、私も言われたこともあるよ。同期はすでに社会人二年目やってて、そんな額何に使うのってくらいボーナスもらったりして、結婚してるどころか子供いる友達もたまにいて、自分は就活の時期以外はそんなに熱意もない論文ちまちま書いて、何してるんだろうって私が一番思ってる」でもね、と都は自分に言い聞かせるみたいに手を組み替えた。

「でも、これがベストじゃないってわかってても、いまさら違う選択肢を選ぶのって、すごく怖いんだよ。周りからしたら、二十五にもなって就職しないで大学にだらだらとどまる方が勇気がいるように思えるかもしれないけど、いまさら違う道に目標を変えるのは、とても怖い」

「……都の内定って、」

「お菓子屋さん。って言ってもメーカーでもなんでもない、実店舗だよ」

 突拍子もない返答に、まじまじと見つめてしまった。都は、なんでもないというふうにへらりと笑った。

「私ね、実家和菓子屋なの。私の代で三代目。老舗っていうには歴史がないし、おしゃれで流行りそうな和菓子屋に改装するほどの熱意も資金もない。もともと私は一人っ子だから、あたりまえみたいに後継者扱いだったって言うか……文学部に進学したのも親へのあてつけ。すんごく嫌な顔された」

「じゃあ院に進学するのもすごく反対されたんじゃ」

「うん。就職浪人っていう理由もあったし非難轟々だったよ。だから今年で最後にしようと思って……私は賭けに負けたの。負けたら、親の言う通り店を継ごうと思った。今まで散々親不孝してたツケが回ってきたんだ、って」

「都はそれでいいの?」

「うん。これは私の意志。就活二度目で欲しい内定が一つも出ないって、よっぽど向いていないってことでしかない。もちろん本気でやってなかったわけじゃないけど、今年の就活は、結果的に思い出づくりみたいになっちゃった」

「だから私に声かけて、ラブホテル泊まったりしたの?」

都は少し首を傾げて、「別に、ここまで展開を考えて声かけたわけではないけどね」と微笑んだ。

「でも……就活浪人じゃなくて現役の就活生だったときだったら、音羽ちゃんみたいな子に声かけるなんて怖くてできなかったかも。怖がられたり気持ち悪がられたりしても、まあいいかあははって笑い流せるくらいには、歳を経たぶんひらきなおっているから」

 あのとき私は、スーツこそ着ていなかったけれどベージュの定番のトレンチコートに身を包んでストッキングにストラップ付きのリクルートパンプスだった。就活をしている都は、すぐに私が同類だと見抜けたのだろう。

「私の名前の由来は、都会にも名前を馳せるくらいこの子の代でお店が繁盛しますように、って意味なんだよ。そんなもの託されても困る、って子供の頃からすごく反発したし、逆に名前の意味を逆手にとって都会に出て行ってやろう、って思ってた。でも、心のどこかでは『自分には帰る地盤がある』っていう甘えがあったのかもしれないね」

進路が決まった、の意味がまさかそんな事情だとは思わず、私はただただ黙り込んだ。都が背負いこんでいるもの、背負うことに決めたもの、手離した自分の夢、地元に留まることになったこと、何にも感想など言えなかった。

「私ね、多分、もう最後だと思うの。東京に来るの。もちろん、自分の意思次第でいつだって来られるけど、でも、もう単なる旅行でしか来られないと思う。いつかこういう町に住みたいなとか、このお店いつか来たいな、とかそういう目では歩けないんだなって思うと、なんか、全部違ってくる」

 都は私以上に、東京への憧れや上京への執着が強いように見えた。いちいち噛みしめるように街を歩いたり、景色を見ている姿を何度か見ていた。大げさだな、そんなに福岡の田舎から出てきてるのかな、とひそかに思っていたけれど、就活は二度目でこれがラストチャンスだと決めていたのであれば、東京駅もスカイツリーも歌舞伎町も渋谷も、きらきらと宝石のように眩く見えたのかもしれない。万華鏡を通してみる景色みたいに。

「音羽ちゃん、今日はお願いがあるんだ」

 改まった言いさしに、表情がこわばる。都は、ふっと頬を緩めて口にした。

「ギャルになりたい。その手伝いをして」


「信じらんないんだけど」

 と浴室で都は十回は騒いだ。その声は狭い個室の中できんきんと甲高く響き、確かにギャルっぽかった。

「もう、めちゃくちゃに金髪だよ。ムラは極力なくしたつもり。もうひと箱あるけどどうする?」

 私の足元には、先ほどドンキホーテで買ったブリーチ剤の空が転がっていた。

「私、たぶん屈強な黒髪だから一箱じゃ終わらないと思うんだよね」と都はショートヘアのくせに三箱も買って、このブリーチは二度目だった。最初におっかなびっくり染めたときはいかにもやすっちいアニメキャラクターのコスプレみたいなあざやかなきつね色だったけれど、時間をおかずにつづけて脱色すると、白に近い金髪になった。頭皮が沁みる!痛い!と騒ぐので可哀そうだったけれど、シャワーで曇った鏡を流してやると、都は頬を手で包んで自分の姿に歓声を上げた。

「すごい! おひめさまみたい」

 無邪気な感想に思わず笑ってしまう。「すごーい、なりたかった金髪だよ、音羽ちゃんありがとう!」と都はうれしそうだ。蒼い血管を透かすほど白く薄い乳房にブリーチ剤が流れていたので、シャワーで流してあげた。

 ――もう二度と就活なんかしないでいい、って暴力的なまでに自分を納得させるには、ギャルになるのが一番わかりやすいと思うの。こんなこと地元じゃできないし、音羽ちゃんにしか頼めない。おねがい。私をギャルにして。

 思い詰めた表情でとんでもないお願いをされ、シュールな状況を笑っていいのかどうかもわからないまま、とりあえず渋谷へ連れて行くことにした。ギャルなら絶対金髪、ということでドンキホーテでブリーチ剤とカラコンを買い、とりあえずラブホテルに二時間コースで入った。前回入った、鬼のように安いホテルだ。

 お風呂を上がり丁寧にブローする。あんなにつやつやでさらさらだった都の髪はギシギシに細く、簡単にからまった。けれど、都は鏡の中の自分にきゃあきゃあと満足げに騒いだ。

「わたし一回も髪染めたりパーマあてたことなかったんだよね。顔が地味だから絶対似合わないし一生やんないと思ってた。でも、やっぱ金髪ってテンションあがるね。なんでだろ」

「私もこんなに明るい色に染めたことはないなあ。しっかし派手になったね」

 大きな青いカラコンを嵌めると、都の端正な日本人形のような顔はどこか無機質になり、アンドロイドのような不気味さがあった。手持ちの化粧品で一生懸命化粧を濃くしていく。

「私就活用のコスメしか持ってきてないや。あとでドラッグストアで買おう。たぶん青みピンクとかラメ載せたらめちゃくちゃ可愛いと思う。そばかすメイクも似合いそう。できたらつけまつげもしよう」

「音羽ちゃん、まじめそうに見えて意外とこういうの好きなんだね」

 思わず苦笑いしてしまう。中学一年生のときにませていた友達にまざって化粧のまねごとをしたら、「なんか音羽、けばくて顔がこわい」と言われて以来、ギャルメイクには抵抗があって自分ではしたことはなかった。もともと顔の造作がはっきりしているから、色味や濃さを足すと盛りだくさんになりすぎるのだ。

 けれど本当はメイクはすごく好きだった。都の薄い造形は、飾り立て甲斐があった。

「とりあえず化粧終わり。その清楚すぎる私服じゃいまの髪型と全然あってないから、マルキューいこ」

「行く!私ギャルの聖地行ったことないんだよねえ」

 はしゃぎながら荷物をまとめてホテルを出る。時刻はまだ六時。陽は落ちているけれどまだまだ明るい。ブリーチしたばかりの都の髪は、太陽光をそのまま織ったみたいに軽やかだった。

「ギャルって何着たらいいの?」

「ギャルはとりあえずミニスカ、足はぜったいごついヒール。都は足が綺麗だから、ホットパンツがいいかも。胸がないからチューブトップだとちょっとあぶないかな。ひらひらした感じのオフショルのトップスが無難かもね」

 友達の、とはいえひさびさに洋服を選べる、しかも渋谷で、というので最高潮にテンションが上がっていた。早口でまくしたてる私に、都はわかったようなわからない顔をしている。

 金髪になったくせに「店員さんに話しかけられるのが怖い」と言ってなかなかショップに入ろうとしない都を引っ張って、めぼしいお店に入っていく。ぐるぐる回って、私ばかり店員さんと話していた気はするものの、着替えさせるたびに都の肌の露出は大きくなった。おしりのところにダメージ加工のある白いデニムのホットパンツを「これはいたら」と渡すと「こ、こんなのほぼブルマだよ」と顔を赤くしてわめいたものの、試着室からおずおずと出てきた都に私と店員さんで喝采を送ったらくちびるの端をふにゃふにゃさせた。皮を剥いたごぼうのようにまっ白でまっすぐな脚が引き立つよう、金色のミュールをあてがった。派手だけどとても似合っていた。

「本当はペディキュアもしたいところだけど、まあ夜になるしそれはいっか。ねえお手洗いでメイクさせて! さっきカラ―マスカラも買ったから、下まつげピンクにしてあげる」

「もう、なんか音羽ちゃんの方が楽しんでるじゃん」

 都にあきれられたけれど、まんざらでもなさそうだった。中高生がたむろするメイクルームで「ぎゃーくすぐったい」「ねえ、くしゃみ出ちゃう、やばいやばいまつげかゆい」と大騒ぎする二十五歳の都と、少しもギャルではなく清楚ぶった格好の私が格闘するようにしてメイクをしている様は異様だったに違いない。けれど、何人かが鏡越しになげかけてきたまなざしは嘲笑やあきれではなく、鏡の中で完成されていく都の変身ぶりへの驚愕と憧れだった。

 技術を駆使して丁寧にフルメイクをほどこした都は、パーツが小ぶりなぶん、腹が立つほど盛りがいがあって派手なギャルメイクが際立った。カフェで提案されたときは「都がギャルなんて無理でしょう」と内心思っていたのに、もともと顔立ちは整っているしスタイルも華奢だから、案外ギャルスタイルが似合う。

「はい、できあがり」

 持っていた髪ゴムで小さなお団子を作ってハーフアップにし、ぽんと肩を叩く。つけまつげをゆらゆらさせながら、都が頬を薔薇色に染めて鏡を見つめている。ギャルの定義はよくわからないけれど、普段の都を知る人にこの姿を見せてもパッと見都だとはわからないはずだ。華奢なデコルテをごてごてした安っぽいチェーンネックレスが飾り、おちょぼ口はオーバーリップ気味にリップを往復させて存在感を足した。

「ギャルになった記念に何かする?」

「プリクラ撮りたい」

 即答だった上、懐かしい響きに思わず噴き出した。プリクラコーナーのあるフロアまで行き、空いている機械に入り込む。

「っていうかこの靴やばいんだけど。竹馬みたい」

「あー、その手のミュールは慣れるまで時間かかるよ。靴擦れしちゃわないように気をつけてね」

 プリクラのフレームを全身撮影多めで選ぶ。自分のメイクは何も手を加えていないので、なんだかちぐはぐな二人組だった。

「っていうか九センチのヒール履いてやっと音羽ちゃんと身長同じになるとか、どんだけ素でスタイルいいの!? そんな低いパンプスでこの頭身とか意味わかんないんですけどっ」

「あ、なんかその話し方ギャルっぽい」

「えーまじで」

 きゃははは、と私たちの甲高い笑い声が、緑色の布で仕切られたスペースのなかでいっぱいに反響する。

「なーんか開放感がある。っていうか、渋谷だとこの格好でも全然見られないし、目立たないね」

 満足した、というのでマックで夕食を取ったあとラブホテルまで戻ることにした。実家の方針で高校を卒業するまでファストフードに行ったことがなかったという都は、サイドメニューをいくつも頼んで満足そうにカウンターに並べた。

「大学生になったときには禁止令解けてたんでしょ?」

「まあ、さすがに初めてではないよ。でも、大学生になってから『ハンバーガー食べてもいい』ってなってもわざわざ食べに行こうとは思わないかな。結局こういうのってお金がない中高生のときに放課後友達と背伸びして立ち寄るからとびきりおいしく感じるんじゃない?」

「貧乏学生っていう点では条件が一致してるから、就活生が食べてもマックはおいしいのかも」

「確かに」

 後ろ暗いジョークも、都がギャルの格好をしているので暗くなりすぎなかった。普段の都だったら似合わないだろう、カラフルで安っぽいパッケージや具材が不恰好に飛び出したハンバーガーも、しっくりきていたからスマホで何枚も写真を撮ってあげた。都がおどけて下手くそにウィンクをするので、笑いすぎて写真がぶれた。

「ギャルにはずっと憧れがあったの?」

「うーん……なれると思ってはいなかったから、憧れてはいなかったかも。でも、今まで無理だと思って選択肢に入れてこなかったものをこなすことで、何か腑に落ちるかもな、って」

 笑い転げたあと、道玄坂をキャリーケースを引いて登る。夜二十時を回り、藍色の空にネオンがちかちかと乱雑に光っていた。

 ホテル街は不思議なところだと思う。大げさなくらい華美で下卑ていてうるさいのに、中身がすかすかで、空っ風が吹いている。それをごまかすために、歩いている人はぎゃあぎゃあと必要以上にがなりたてて大騒ぎして行間を埋めている感じがする。色も物も人の多さも過剰なのに居着いている人たちはみんな餓えたような目つきをしていた。全てが過剰なのに常に欠落している。都が私を振り返って言う。

「ねえ、今日はいい感じのホテルに泊まらない? さっきの激安ホテルじゃなくて」

「いいよ」

 品定めして、白と黒のモノトーンのシックなラブホテルを選んだ。あまり値段を見ないようにしてタッチパネルで部屋を選ぶ。

「やっぱりお金出すとグレードが違うね」

「ほんとにね!」

 部屋はキングベッドで埋め尽くされているということもなく、やたらと広く新しかった。ソファーに身を投げ出す。

「音羽ちゃん、付き合ってくれてありがとうね」

「ん。全然いいよ。私も憂さ晴らしになってすっごく楽しかった。っていうか、私わりと裏方とか人のプロデュースするの好きかもしれない。表舞台にばかり立とうとしてたけど」

「いい気づきだね。きっとそういう仕事も音羽ちゃんには向いてるんだよ」

照れくさくなってそっと目をそらした。

「ついさっき彼氏のこと愚痴っちゃったから、なんか恥ずかしい」

「いいじゃん。どっちにしろ、その彼氏の発言は、本人に向かって言っていいことではないと思う」

 洗面所から戻ってきた都は、少しだけナチュラルになっていた。つけまつげをはずしたらしい。

「言い訳、ねえ。まあでも私も言い訳がほしくてこんなことしたのかも」

「え?」

 訊き返すと、都は恥ずかしそうにはにかんだ。

「金髪になったらもう就活なんてできないじゃん」

「えー、そういうことかな」

 あまりに単純すぎる。笑って流そうとしたけれど、都は真剣につづけた。

「私も初めは単なる思い付きだったけど、都ちゃんにメイクされて思ったんだよね。やろうと思わないけど実際やってみたらなんかできた、みたいなこと、今までいっぱい通り過ぎてきちゃったのかな、って」

 選択肢を絞って就活してきたことを指しているのだとわかり、黙った。大きすぎるプラズマテレビに、歪んだ私がうっすら映る。

「都ちゃんも、なんかやってみたいことないの? っていうか、やりたくないことでもいいけど、腹落ちに加担してくれそうなこと」

 ひとつだけあった。アナウンサーの自分は一生縁がないだろうと思っていたこと。

「煙草」

 都は息を呑んだ。

「私は就活があるから金髪にはできないけど、煙草だったら吸える。まあ、喉痛めるだろうけど、一回くらいだったら大して変わらない」

「吸ってみたかったの?」

「全然。匂いも嫌いだし吸う人も嫌い。でも、吸うタイミングが人生で一度くらいあるのだとしたら、夢に挫折した今かな、って」

 都は少し黙ったあと、「コンビニ行こうか」と言った。「すぐ向かいにあったと思う」

「おっけ」

 立ち上がり、エレベーターでフロントまで降りる。それはやめた方がいいよ、くらいは言われるかと思ったのに、都は何も言わなかった。「どれだけ傷んでもいいから白っぽくなるまでブリーチして」と言う都のお願いを私が断らなかったからだろうか。

 アナウンサーになりたいんじゃなくて、アナウンサー以外の職業を必死に避けているようにしか見えない。

圭一の言葉を反芻する。錐で穿たれるような痛みが心臓に走るけれど、時間が経った今は納得していた。

 アナウンサーにさえなってしまえばいろんなことの帳尻合わせが一気にできるような、トランプの大富豪で言う、スペードの3を引きあてるような、魔法の切り札のように思い込んでいたかもしれない。

 けれど、就活のゴールは内定じゃない。何年も何年もその業種に就いてプロフェッショナルとして自分を研鑽したり、技術を身につけてもっとそれを役立てられる場所に移ったり、もっと立体的なものだ。わたしは「アナウンサーになれた自分」を想像してはやる気を出しているけれど、「アナウンサーであり続ける自分」にはさして目を向けてこなかったかもしれない。

 夜の風が髪を揺らす。

 煙草の銘柄など何もわからないので、レジでとりあえず「十九番」と言ってみた。緑色の線が入った煙草が差し出される。五百円と少しだった。ライターも一緒に買う。

「なんで十九番なの」

「一番煙草吸いそうな年齢じゃない? 十九って」

「まあ、確かにね」

 ホテルに戻ろうとする都を引き留め、「ここで吸う」と言った。部屋に戻ってかしこまって吸うよりも、コンビニを出るなり吸う方が行儀が悪くて、行儀なんかこの際悪い方がよかった。

 ぴりぴりとビニールを剥がす。「歯で切った方がそれっぽいんじゃない」と都が言うので、蓮っ葉に歯で噛み切ってみた。

「意外と音羽ちゃんって不良みたいな仕草似合うよね。お嬢様っぽいロングヘアよりも今の髪型の方が退廃的で似合うよ」

「退廃的って何それ」

 笑ってみたけれど、要は諦めや挫折のムードがまとわりついているということだろうか。最初からそうだったのか、就活でそうなったのか、今となってはわからないけれど。

 どれだけ疲れても、ストレスを感じても、煙草なんて吸いたいと思ったことなど一度もない。けれど、私にはきっと似合うだろうとうっすら思っていた。背が高くてきつい顔立ちだからという意味でそう判断していたけれど、夢に破れて就活で惨敗し、目つきが荒んでいるいま、余計しっくりくるだろうと思った。とってつけたような小道具なんかじゃなく。

 ふるえる手で見よう見まねでライターで火をつける。深々と吸う。一瞬くらっとした。苦い。おいしくない。肺まで有害な空気をいれないようにして、浅く煙を吐く。

「どう、ルールを破った味は」

 都が壁にもたれかかって言う。金髪のせいだけじゃなく、どこかなげやりに聞こえた。

 深々と煙草を吸う。あたりまえのように吸わないで生きていたけれど、吸っていても吸っていなくても、結果は同じだったのかもしれない。ふいにそう思った。

 自分に煙草が似合うことはよく知っていて、それを認めるのは嫌だった。気を張っていても、何かに寄りかかったり縋らずにはおれないからだ。それが、アナウンサーになる、という夢も長年付き合った恋人も失った今、吸わずにはやっていられない。

 これから私はどうするのだろう。秋季採用を目指してこれからもアナウンサー一本で就活するのか、てんで別の職業に鞍替えするのか、就活浪人を視野に入れるのか。

 今は何もわからない。次の瞬間には自分の考えはひるがえっているかもしれない。

「こんなの全然おいしくないよ。都だって黒髪の方が清楚で似合ってた。でも吸う」

うん、と都が呟く。いま肩や背中に手を置かれたら泣いてしまうな、と思ったけれど、都も私から煙草を一本奪いとり、ライターに火を付けた。手慣れた仕草だった。実は喫煙者だったのかもしれない。

 煙草の煙が目に染みる。これを吸い終わったら、あの綺麗なラブホテルに戻ってお風呂を張って、都と一緒に泡風呂に入ろう。そう思った。


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