のんという男

くろさき

第1話

彼と出会ったのは28歳の冬だった。

当時千葉県でチャットレディーの仕事をしていた私は事務所の社長に嫌われ、ひどい仕打ちを受けた。

それに同情した仲間が別の東京の事務所に移ろうと計画を立ててくれたが、結局土壇場で裏切られ、追い出されるように一人で上京してきたのだった。


千葉の事務所を辞める少し前、チャットのお客さんの一人に、「のん」というユーザー名の26歳の男がいた。


「のん」は留年しており、まだ大学生だった。私の色恋営業にまんまと引っかかり、一晩で4万円ほど使った日もあった。

本人曰く、一度も交際経験がない童貞で、大学在学中に前立せん癌を患い、排尿もままならず、性機能も失われ、一年後復学したころには教授にのけ者にされ、友達もおらず、お金のない苦学生とのことだった。

チャットレディーに設定があるように、客にも設定がある。50代のじじいが19歳だと偽っていることも当たり前にある。

私はチャットの仕事で、26歳の3年以上セックスレスのかわいそうな人妻の設定を演じていた。

私はのんの人生を、あまりにチープでお涙ちょうだいな「設定」だと信じて疑わなかった。

苦学生が一日に4万もチャットに使えるわけがないし、その後頻繁に「もうお金がなくてあんまり会いに行くことができない」と言うようになった彼のことも、いつもの「だから、会いたい、連絡先交換したい」と言ってくるその他大勢の客の嘘と、同等に見ていた。


のんは客としてはあまりにも優しく、また全てにおいて言いなりであった。私になにか文句を言ってきたことはなかった。

アダルトなパフォーマンスをしている時に無言でのぞいていることはあったが、毎回1、2分で退室していた。

彼に何かそういう類の要求をされたことは皆無だったので、他の客相手にそういうことをしているのを見るのが嫌なのだと思った。

それか、性機能がないという話が本当であれば、そういう行為自体が虚しいことだと考えているのかもしれない、と思った。

アダルトな行為より、心の繋がりのみを求めてアダルトチャットを利用する、本当に孤独な心を抱えた客は一定数いた。そしてそんな客達こそが、私のお財布を一番潤してくれた。


彼のことは勝手に、本当は40代後半の夢見がちな童貞のおじさんなんだろう、とイメージしていた。

横顔が三浦春馬に似てると言われたことがある、と言ってきたことがあるけど、三浦春馬が大好きだった私は、あほぬかすな、三浦春馬に謝れと思っていた。

しかしある日、彼が、私に会いたい、その前に顔を見せておきたいと言い出した。

私はパニックになり、なにを考えてるんだこいつは、そんなことしたらお前の嘘がばれる、なにもかも終わりじゃないか、私は客の崩壊した顔面を見ていないから優しくできるのであって、そうでなければ今後優しくできる自信はない、と思った。

実際、顔を見た途端に生理的に受け付けなくなり、嫌悪感でまともな接客ができなくなってしまったことが過去何回もあった。


ツーショットを繋ぎ、初めて聞いた声は確かに若く、低くてとてもぶっきらぼうで、緊張しているのか震えていた。

「じゃあ、顔見せるね」と言われ、「わぁ~なんだかこっちが緊張する~!!」と言いながらも恐怖で顔を覆った指の間から薄目を開けて見たその顔は、眼鏡をかけた綺麗な顔立ちの若い男だった。


後にも先にも、客の顔面が予想を遥かに上回ったのはあの時だけだった。客の顔面はいつも誰でも、必ず想像を遥かに下回ってくるものだった。

驚愕した私は、チャットのキャラクターを忘れ、挙動不審になりながらも、ええ、そんなかっこいいのに、普通に女の子にもてるでしょ、童貞なんて嘘でしょ・・・と質問攻めをした。彼の口調は確かにオタク全開の、一定のトーンでぶっきらぼうな話し方だったので、見た目はいいのに性格でだいぶ損しているんだなと感じた。


彼の話は設定ではなく、全て本当だったんだと信じた。私はこんな綺麗な男の人が私のことを本気で好いてくれて、しかも紛れもないいい人だということに舞い上がり、ちょうど千葉の事務所を辞める予定だったので、この人と繋がってもいいかもしれないと考えた。

お金がないという話が嘘だったとしても、もうチャットで私にお金を落とす気は無いということである。客として残しておくのも潮時だった。

チャットの客と繋がるのは事務所をクビになるレベルのタブーとは言え、どうせ登録を消す事務所のアカウントだ。



最初のんはラインを教えてきたけど、ラインは怖かったのでカカオのアカウントを作り、のんにも作らせて、やり取りを開始したのは上京した後だった。

私は新しい事務所で、入居の準備が済んでいると聞いていた寮が、蓋を開けて見ればなにも手付かずの埃だらけで、仕方なく準備が終わるまで秋葉原の事務所で仕事をしながら寝泊まりすることになった。


寮も、秋葉原の事務所もあまりにもボロボロで、幸先が不安だった。千葉の事務所の友人たちとも縁を切り、孤独だったので、のんと電話をした。

数日後会うことになり、夜の新宿駅で待ち合わせをした。

チャットの画面越しに見たそのままの男がそこにいた。身長も想像より大きかった。

のんも私も人見知りで、最初一切目が合わなかった。

のんはお店の予約をしていなかった。どこのお店に行こう、と調べ、いい感じだね、と二人で決めた店は駅から遠く、分かりづらい場所にあった。駅前をぐるぐる回って店の周りをぐるぐる回ってやっとたどり着いた。

バーのような小さな向い席の照明が暗い店で、料理は美味しかった。

のんは時たま、唇を「いっ」として、歯を見せた。怒りに歪んだような、痛みを堪えているような口元だったけど、目には何も表情がなかったので、それが彼の癖だと気づくのに時間はかからなかった。


会話はそこまで弾まなかったけど、私相手に緊張している彼を見ているのが面白くて、店を出た後またぐるぐる歩いて、歌舞伎町のハブに入った。

千葉の事務所の子たちとよく飲んでいた「タランチュラ」という真っ赤なカクテルを、大きいグラスでたくさん飲んだ。

のんはそんな大病を患ったことがある割に、お酒は普通より飲めるみたいだった。

私は何杯か、のんにおねだりして持ってこさせては飲みきれない分を彼に飲ませた。

心地よく酔っぱらってきて、のんに今更ながらに本当のことを話した。「私、人妻じゃない。歳も28。旦那どころか彼氏もいない。チャットレディーの身の上話なんて、全部お金を稼ぐための嘘の設定だから」

のんは聞いた。「どうして俺と会ってくれたの?」「顔がタイプだったから」そこまで言っても嫌われない自信があった。


店を出たころにはとっくに終電は過ぎていた。

のんは気まずそうに、どうしよう、どこに行こうと呟いた。

雨が降ってきて、道中のビルの玄関で雨宿りしながらビジネスホテルや漫画喫茶を検索する彼に、ここをまっすぐ行ったらラブホテルがあるよ、と教えた。

彼は申し訳なさそうに、いいの?と聞いてきたので、私は「どうせ泊まるならそっちの方が広くて綺麗で安いよ」と先頭を歩き出した。


ホテル街をぐるぐる歩き回って、値段を聞いたりして回った。

食事代は全て出してもらっていたけど、お金が無いというのは本当らしかったので、なるべく安いところを、と思ったけどどこもそれほど変わりないようだった。

やっと決めた白い外装のまだ新しい感じのホテルは、部屋も綺麗で広かった。

私はとりあえずシャワーを浴びた。のんにも浴びさせた。

のんが入ってる間にAVを見た。深田えいみの絡みを見て、勝手に付けたのは私なのに、のんは申し訳なさそうな顔をしていた。


一時期の燃え上がるような性欲がだいぶ落ち着いていた私は、好みの童貞の男が隣に寝ていても、特にセックスしたいとは思っていなかった。

してもしなくても、どちらでもよかった。

こちらから誘って、惚れられて面倒なことになるのは避けたかった。

いくら好みとはいえ、童貞でオタクで金のない元客の男と付き合うつもりはさらさらなかった。

のんは私にとって、ただの暇つぶし相手であり、チャットの客と会ったらどうなるのか検証する為の被験体のような存在だった。


何食わぬ顔で布団に入り、真っ暗闇の中真っ直ぐ天井を向いて寝ようとしていると、しばらくして意を決したように、のんがゆっくり近づいてきた。

意外だった。童貞のオタクくんにそんな勇気があるとは思っていなかった。こちらから仕掛けなければなにもせずに終わると思っていた。

一世一代の勇気を出したであろうのんを拒む気にはなれなくて、身体を横に向けて抱きしめてやると、縋るように緊張で震えながら抱き着いてきた。

震えた小さな声で「キスしたい」と言われ、どちらでも良かったので、いいけど・・・と顔を寄せてやると、唇が触れた瞬間私は彼を突き返し、「え、本当に初めて?上手くない?」と聞いた。

ただの触れ合うだけのキスを一回しただけでそんなことを思ったのは初めてだった。

「本当に初めてだよ・・・でも、実は男の先輩にいきなりキスされたことはある・・・」と言われた。

理由はわからないし気まずいから聞いてないらしい。顔がいいからその気がある男に欲情されたんだと思った。


その後のキスと愛撫は想像を遥かに超えるものだった。

後にも先にも、あんなに優しく身体を触られたことはなかった。

私の裸を見て、信じられないくらい綺麗な宝石を見たかのように輝いた目で、「綺麗・・・」と呟いた。

震えるような小さな声で絞り出すように「好き・・・好き・・・」と囁かれながら、私の名前を何度も呼びながら、焦らすようにとても弱い力で弱いところを撫でられ、小さくてでも泣き声のような荒い息の音を聴きながら、私は脳が蕩けそうになった。

しかし冷静に「それはただの性欲だよ。初めて女性が自分を受け入れてくれてるもんだから、嬉しくて舞い上がってるだけ。こんな性格の私のどこがいいの?顔がタイプってだけでしょ」と諭すように頭をなでながら優しく教えてあげた。

彼が好きになってお金を落としたのは、旦那としか経験がない、かわいそうで純粋な人妻の設定の私であって、男性経験豊富な擦れた現実の私ではないと思った。顔や見た目が彼にとって好みなだけだと思った。

「そうじゃない、本当に好きだ・・・好きだよ・・・」と熱に浮かされたように囁きながら、指についた私の液体を美味しそうに舐め、美味しい、と言いながらたくさん私の身体を舐めて触って、震えながら抱きしめてきた。


彼のものを入れようとしたけど、性機能を失ったそれはとても小さくふにゃふにゃで、どう頑張っても入らなかった。

しばらくして諦めた彼は私の上に覆いかぶさり、私に抱きしめられ頭を撫でられながら、堪えるように小さな息を吐きながらさめざめと泣いて、悔しい・・・と呟いた。

私は涙をこめかみに受けながら、「大丈夫だよ。私実は女の人としか付き合ったことがないの。あれがない前提のセックスばっかりしてたんだよ。入れられなくても、私は全く問題ない」と言ったけど、彼の悲しみはおそらく、私を満足させられないこととは別のところにあったと思う。

好きな女が受け入れてくれてるのに、繋がりたいのに繋がれない、それだけのことだったんだと思う。


私たちは一緒にお風呂に入ることにした。暖かい湯船に浸かりながら、彼のものを、舐めてあげようか、と言った。

浴槽の淵に座らせて、改めて見ると、本当に赤ちゃんのように小さなペニスだった。口に含んでいるとほんの少しだけかたくなった。

とても嬉しそうに気持ちいい、と言ってくれたけど、口の中に苦い味が広がったのでやめてしまった。

彼は前立腺がんの手術の後、尿意も感じることができなくなったらしく、勝手に漏れてきてしまうのでいつも「そろそろ出しておこう」と思ったタイミングで尿を出すようにしているそうだったので、無意識でも尿が出てきてしまうんだな、と思った。

ベッドに戻り、またたくさん愛撫をされた。「結婚したい」と言われ、鼻で笑った。

馬乗りになっておっぱいを顔に当ててあげたら、顔をうずめてこすりつけてきて、明日死ぬんじゃないかと思うくらい、こんなに幸せそうな人間の顔は見たこともないというくらい、嬉しすぎて泣いてしまうんじゃないかというくらいの表情をして、赤ちゃんみたいにニコニコ笑って、幸せと言っていた。

次の日の午前中、ホテルを出てどこかで牛丼かなにかを食べてからそれぞれ家路についた。

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