短編小説

糸永幸湖

自分殺し

 朝起きると丁度、お姉ちゃんが自分の胸に深々と包丁を突き立てたところだった。

「ちょ、お姉ちゃん、何やってんの?」

 そんな言葉が出てきたことに自分に驚きながら、包丁を引き抜こうとするお姉ちゃんをなんとか止める。今日はなんだ、普段よりも随分と過激だ。

 朝っぱらから「自殺」しようとする馬鹿が居るか。しかもリビングのど真ん中で。いや、現に今目の前に居るのだけれども。

「なんで止めるのさ」

 そう不満を喚くお姉ちゃんを綺麗に無視し、空いている手をキッチンに伸ばす。キッチンペーパーで止血、できるかな。

 不安はあるにはあったけれど、その後の諸々を考えてみれば試してみる価値しかなかった。

 お姉ちゃんを床に寝かせてキッチンペーパーを手早く千切ると、それで包丁の刃先を覆う。包丁を通して伝わってくる鼓動が、段々と薄れていく。まだだ。まだ早いよ。

 そう言い聞かせながら、じっくりとタイミングを見計らう。膨らんで、しぼんで、膨らんで、しぼんで、膨らんで、しぼんで。そう何拍か過ごして、ついに一瞬びくんっと心臓が跳ね上がった。

 来た。

 その一瞬を見逃さずに、慎重に、素早く包丁を抜く。思ったよりも、深い。できる限り、繊維を傷つけないように、まっすぐ。

 刃の血液をぬぐいながら、刃先の感覚を探る。しゅっという摩擦音と共に、優しく、しっかりと傷口を押さえつけた。力を入れすぎると、弛緩した心臓から血液が溢れ出てしまうのでよくない。血液をふき取るのは、随分と大変なのだ。

 じんわりと赤く染まっていくキッチンペーパーを、一枚、また一枚と取り換える。ある程度血が流れなくなったら、ちゃんと密閉しないとな。

 今回はお姉ちゃんが綺麗に刺してくれたようで、少しずつ血液は固まりつつあった。

「お姉ちゃん、ラップ取って」

 傍らでぼーっとしていたお姉ちゃんにそう頼んで、空いた手でキッチンペーパーをガーゼのように折りたたむ。らっぷらっぷー、と口ずさみながらラップを探すお姉ちゃんに、上、とか右、とか乱雑に指示を飛ばす。このお姉ちゃんという生き物は、どうやらその脳みそにお花畑がデフォルトでついているようだ。

「えー、これー、かにゃ?」

「違う! それはオーブンペーパー!」

「えー、じゃあ……」

「それはアルミホイル! ちゃんと見て!」

 朝から、疲れる。ほんと、とんでもないお姉ちゃんを持ってしまったと思う。あったあったー、などと宣うその口を今すぐ蓋してやりたいのだが、生憎今は両手が塞がっているのでできない。台所のスポンジでも詰めてやろうか。

「いやー、出来のいい妹を持ててお姉ちゃんは嬉しいよん」

 弾んだ口調でお姉ちゃんがそう言う。よし、訂正だ。たわしをその口にねじ込んでやろう。

 お姉ちゃんからラップを受け取ると、即席キッチンペーパー・ガーゼ風で傷口を手早く押さえ、その上からラップを隙間なく巻き付ける。これで、多少の流血には対応できるだろう。

「馬鹿姉、警察に電話」

「ひゃーい」

 その腑抜けた返事を聞いて、ふーっと息を吐く。朝から、疲れた。ああ、今日は学校、遅刻するな。せめて休日にやってほしかった。そんな愚痴を心にぶちまけて、死体になったお姉ちゃんに目をやった。

 ダイエットだーとか言ってさして変化していない体つきに、むくれるとリスのようになるほっぺ。リップクリームもまともに塗らない唇は、酷く乾燥していた。そんなガサツさが手に取るようにわかるのに、相変わらずのサラサラの髪が癪に障る。

 ダイエットするならしろよ、なんていつも思っているが、まあそこは個人の判断に委ねる。しかし、リップクリームくらいは塗ってもいいでしょうよ。ってか塗れよ。

 ほんと、全く同じ顔してる。

「ねーねー、いもーとー」

 属性で呼ぶなよ。

 思考を邪魔してきた声にそう脳内で返しながら、大体の予想はついていた。

「ちゃん、と、来、月、返、して、ね」

 文章をを明確に区切って、そう返す。

「ありがとー! 二千円お借りします!」

 五分の二かよ。結構多いな。

「警察の検分終わったら私の部屋から取ってきて。場所は分かるでしょ、財布」

「そりゃもちろん。リュックの外ポケットでしょ? 何回借りてると思ってるのさ」

 自慢気に言うなよ。借用メモ、作っておこう。


 しばらくすると、警察と死体処理業者が揃ってやってきた。両者揃って、またか、という顔をしている。何度も何度も申し訳ない。

「えー、一応規則ですので言わせていただきますね、これより検分を始めさせていただきます」

 なじみの警察官がそう言って、私が了承する。

「何度もすみません」

「いえ、こちらも仕事ですので」

 そう答える警察官に、リビングを案内する。まあ、そんな必要はこれっぽっちもないのだけれど。

 リビングに到着すると、警察による検分が始まった。死体の写真を撮り、凶器から指紋を取る。本来は照合のためにお姉ちゃんの指紋も取るのだが、自殺者のデータベースは一年間は保存されるらしいので、その必要はなかった。

「んぇーっと、お姉さん、動機をうかがってよろしいですか?」

 そう尋ねる警察官のペン先は既に、自殺検分書の動機欄に「痴情の乖離」と記入していた。おい警察官、違ったらどうするんだ。

「ゆう君、彼女いるのに私が私に好きだって言うから」

「はい、痴情の乖離ですね」

 食い気味に警察官はそう言って、後片付けを始めた。仕事が早い。多分ここの管轄は、自殺対処が上手いことで話題になっているだろう。ほんとにうちの姉が申し訳ない。

「あ、すみません、死体処理証明書の発行お願いしていいですか?」

 そう警察官に言うと、ちらりと時計を見て、あぁ、と言った。

「他者の自殺に立ち会ったということなので発行できますよ。ちょっと待っててください」

 そう言い残して警察官が外に出て、それからまた一枚の紙を手に持って戻ってきた。その紙に警察官とお姉ちゃんが署名をして、私に手渡される。うん、これで正当な遅刻だ。

「業者さん、あとはよろしくお願いします」

 そう言って警察官は我が家を後にし、それと入れ違いで紫と白のツナギを着た業者さんが二人、入ってきた。片方はおじちゃんで、もう片方は若いお兄さん。おじちゃんの方はいつもの人だけど、お兄さんは初めて見る。新人さんかな。

「よろしくお願いします」

 私がそう言うと、二人揃って、

「「よろしくお願いします」」

と言った。流石若者、元気がいい。

 死体を見た二人は早速、小さく息を零した。

「ご遺体ってこんな綺麗なものなんですか?」

 お兄さんが、おじさんにそう囁く。こら、と軽く叱責してから、すみません、とこちらに謝ってきた。いえいえ、新人さんなんですか、と問うと、はい、最初は楽な現場で慣れさせようと思いまして、と返事がくる。確かにここは、練習には最適な現場なんだろう。

「相変わらず処置がお綺麗ですねぇ……」

 おじさんがそう言った。

「対処しすぎて上達しちゃいましたよ」

「いえいえ、仕事が少なくって何よりです」

 私たちの会話に、お兄さんが置いて行かれる。

「最初の現場がめった刺しとかだと、それがトラウマになって辞めちゃう新人が多いものですから」

「最近は自分が嫌いな人が多いですからねぇ……」

 井戸端会議のようなノリで会話をしながら、おじいさんが作業を進める。お兄さんは講習で習ったようなぎこちない動きで、丁寧に死体を扱った。頑張れ、若者よ。

 床に落ちてる血痕もなかったので、死体を袋に入れるのとキッチンペーパーを集めるのだけで処理は終わった。その間約三分。死体処理業者についても、ここの管轄は仕事が早い。いや、それは後処理の時間がないからか。

「お疲れ様でした」

 そう声をかけると、

「いえいえ、仕事ですから」

と、さっきの警察官と同じ言葉が返ってきた。

「代金、五千円いただけますか?」

 そう聞かれて、お姉ちゃんに目をやる。ぼーっと突っ立っていたので声を投げつけると、あっと叫びながら二階へと消えていった。

 死体の処理に五千円。いくら行政とはいえ、安すぎないか。

 そんなことを考えていると、おじさんが口を開いた。

「あ、それから申し上げなければならないことがありまして、今回で今年に入ってから三度目の作業となりました。お姉さんは成人済みですので次回以降から料金が上がり、一回二万円とさせていただきます」

「ん゛」

 変な声出た。この出費は、痛い。お姉ちゃんには、分裂を我慢してもらわないと。分裂抑制剤、確か薬局に売ってたっけ。でもあれ、結構高いんだよな。確か飲み続けないといけないし、ひと箱一万円くらいだったと思う。明らかに、こっちの方が値段がつく。

「ほとんど使われていない制度で、一応定期券もございますが、どうされますか?」

「いくらほどですか?」

 定期券という言葉に反応して、反射的にそう尋ねる。死体処理の定期券。なんともおかしな話だが、買っても損はないのではないかと考えている私がいる。

「十年間で五十二万円のプランと、十五年間で七十五万円のプラン、それから三十年間で百四十七万円のプランですね。一年間で三回以上自殺されるのであればお得な料金設定です」

 これは、買うしかないだろうな。一年間に三回以上の自殺、十分にお釣りがきてしまう。

「……どこで購入可能ですか」

「近場の警察署の窓口か、あるいは公営死体処理業者の本部にて発行しております」

 待ってましたと言わんばかりの即答に、もうなんでもいいや、と思ってしまう。もう、なるようになれ。

 代金を支払ってから、それでは失礼しました、と去っていく業者さんを見送って、家の中に入る。リビングに戻ると、お姉ちゃんがソファーの上でゴロゴロとしていた。全く、人の気も知らないで。

「ねえ、お姉ちゃん、いっつも自殺するときには血が出ないようにしてって言ってるよね? それに調理器具使うとか、何考えてんの?」

 お姉ちゃんに、笑顔で詰め寄る。ひょえっと奇怪な叫び声を上げたお姉ちゃんが涙目になって謝ってきたので、次はないよ、とだけ言ってリビングを後にした。お姉ちゃんのことだ。これで多少は懲りてくれるだろう。こんな会話を過去にもした気がするけれど、気のせいということにしておこう。

 そういえば今朝は朝食を摂っていなかったけれど、まあ某バランス栄養食で済ませようかな。

「行ってきます」

 急いで着替えてリュックを持った私は、そう言って家を後にした。

 今日の帰りは、定期を買いに行こう。あの鈍感な馬鹿姉のことだ。自分のことにすら気付けないから理性と欲に分裂するし、だから周りのことになんて気付けるわけがないんだろう。


 例えば、私がお姉ちゃんに向けてる好意が、十五年定期券の元を軽く数年で取ってしまえることになんて。


 今日も私は、自分を殺して生きている。

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