第一〇話 大鴉の森 四 ラーヴェンヴァルトへようこそ


 寝る前にバウムクーヘンをたらふく食べるという、ダイエットで苦しむ人々からの怨嗟の声が聞こえてきそうな暴挙を、なんのためらいもなく真綾が決行した翌朝、充実した朝食をしっかり終え、廃村中に散乱していた魔石も無事に回収し終わった彼女は、今日も健やかに森の中を歩き始めた。


 野営した廃村をあとにしてから半時間ほど歩いたころ、真綾は苔むした倒木の上に一匹のリスを見つけた。羅城門家の裏山で見かけるリスとは毛並みが少し違うようだ。

 彼女の目がキラリと光る。――あのアニメのセリフを言うのなら、ヴォルパーティンガーよりこちらのほうが相手として適任ではなかろうか? そんなことを考え始めた真綾に、突然、そのリスが話しかけてきた。


『お願いです、あの子たちを助けてあげて』


 ……そう、小動物がしゃべったのだ、明らかに女性のものと思われる、しっとりとした声でハッキリと。これを聞いたのが他の人間なら、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で固まってもおかしくない。……しかし、真綾は違った。


「連れていって」


 助けを求める切実な声を聞いた彼女は即座に反応し、なんの疑問もためらいもなくリスに話しかけた。

 するとリスは、まるで真綾を先導するように森の中を駆け出した。真綾の足を確かめているのか少しずつ移動速度を上げていくが、【強化】によるアシストを受けている真綾は難なくそのあとを追う。


 やがて、低山の斜面に口を開けた洞窟の前にたどり着くと、ようやくリスはその足を止めた。


「ここに入ればいい?」


 そう真綾が尋ねると、リスは答えるように一度振り返ってから、陰鬱な雰囲気が漂ってくる洞窟の中へと消えていった。


『真綾様、くれぐれもお気をつけください』

「はい」


 熊野の真剣な声に答えると、【船内空間】から懐中電灯を取り出した真綾は、ポッカリ口を開ける闇の中へと足を踏み入れた。


 洞窟に入った瞬間、動物の糞尿や血などの混ざり合ったような耐え難い異臭が、真綾の鼻をついた。


『これはひどい……すぐに臭気を弾きます』


 熊野がそう言って【強化】の結界で臭気の元となる成分だけを弾くと、すぐに真綾は吐き気を催す悪臭から開放された。清浄な空気が、気道の汚れを洗い流すように流れ込んでくる。


「ありがとうございます」

『いえいえ。……それより、ここはなんなのでしょう?』


 懐中電灯に照らされた洞窟の地面には、糞尿と一緒に動物の骨や体の一部などが散乱していた。そのなかには、いくつか人骨らしきものも見られるのだが、その他に、原始的な作りの弓矢や石斧なども転がっていた。


『何かの巣のようですが……たくさん付いている足跡からすると、人間に似た形状で、大きさは小さな子供くらいでしょうか? 簡単な道具を作るだけの知能があるのに煮炊きをする習慣がなくて、恐ろしいことに人間の肉を食べる……それがかなり大勢でここに住んでいるようですね。排泄物の乾き具合などから推測して、半日以上はここに帰ってきていないと思われ……あ』

「ゴブリン?」


 熊野と真綾は同時に同じものを思い浮かべた。真綾に夜襲をかけた連中がここの住人だと、彼女たちは確信のようなものを感じるのだ。

 だとすれば、最悪の場合……。


『もしそうだとしたら……この先、ご気分をさらに害されるものをお目にされるかもしれませんが、……真綾様、本当に行かれますか?』


 花は比較的ソフトな作品を斎藤花セレクションとして真綾に貸していたが、大人の女性だと認識する熊野には花的に結構ハードな作品なども貸していた。そういった作品群だと、ゴブリンやオークの巣の中には、直接描写こそ避けられているものの、筆舌に尽くしがたい目に合わされた女性が、必ずと言っていいほど囚われていたのだ。その生死にかかわらず……。

 できることなら真綾にそのような光景を見せたくはないし、見るのなら真綾にも相応の覚悟が必要だろう……。熊野は、真剣な声で念を押した。

 だが、そうやって心配してくれる熊野に、真綾はひとことだけを返す。


「はい」


 その声には強い意志が込められていた。

 自分の見たくないものから目を逸らすため、助けを求める者を放って帰る、という選択肢など、はなっから真綾にはなかったのだ。

 懐中電灯の光にチラチラと姿を現す、リスのフサフサとしたシッポを追うように、真綾は奥へと躊躇なく進んでいく。


 やがて真綾がたどり着いた洞窟最奥の空間には、幸いにも、悲惨な姿の女性はいなかった。

 その代わり、雑な作りの小さな檻がひとつ、洞窟壁面の岩棚に置かれている。リスはその横で立ち止まると、クリッとした大きい瞳で真綾を見上げた。


『この中に要救助者がいるとでも……あら、愛らしい!』


 懐中電灯の光に照らされて檻の中が見えたとたん、熊野はワントーン高い声を上げた。

 檻に閉じ込められていたのは、苔で作られた二体の人形だったのだ。

 どちらも大きさは三〇センチほどだろうか、三頭身くらいの愛らしいフォルム、全身が苔で覆われていて顔はなく、見た目はモフッとしたぬいぐるみのようだ。片方の人形は頭に一輪の花が咲いていて、植物で作ったポシェットを斜めにかけている。もしかすると、こちらは女の子なのだろうか?

 ただ、ひとつ気になる点が――。


『真綾様真綾様、この子たち動きましたよ! なんとまあ、可愛いこと!』


 ――そう、二体の苔人形はヒシと抱き合うと、プルプル震えながら真綾のことを見上げたのだ。

 その愛らしい姿にさっそく乙女心を爆発させる熊野だが、真綾はというと――。


「ヒッ!」


 ――と、この場に花がいたなら悲鳴を上げただろう形相で、愛らしい苔人形たちを凝視していた。どうやら彼女も乙女心を爆発中らしい……。


『お願いです、あの子たちを助けてあげて』


 なかなか動かない真綾に業を煮やしたのか、檻の横にいるリスが、先ほどと同じ声と調子で、まったく同じ言葉をしゃべった。

 その声を聞いてハッと我に返ると、真綾は一瞬で檻を破壊し、苔人形たちに手のひらを差し出した。


『この子たち、もしかすると苔男と苔女かもしれませんね。ドイツの森に住むという人畜無害な妖精で、たいへん穏やかな性格らしいですよ』

「苔男と苔女……」


 熱のこもった目で見つめてくる真綾を恐がっていた苔男たちは、友達らしいリスの顔を見て、彼女が味方であるとようやく気づいたのか、おずおずと真綾の手のひらに乗ってきた。


「よろしく」


 珍しくやわらかい表情で挨拶した真綾は、可愛い苔男と苔女を自分の両肩に乗せて歩き出し、途中見かけた人骨に手を合わせると、陰鬱な洞窟をあとにした。


      ◇      ◇      ◇


 まるで誘うように、少し走っては止まり、こちらを振り返ってはまた走る、という行動を繰り返し始めたリスに先導され、真綾は両肩に苔男と苔女を乗せたまま、のんびりと森の中を歩いていた。

 苔男たちも真綾の肩が気に入ったのか、今はすっかりくつろいだ様子だ。ときおり、湿り気を帯びた苔の手で真綾の頬をポフポフと突っつき、食べごろになった果実の存在を教えてくれるため、道中それを収穫しては上機嫌で口をモゴモゴさせる真綾だった。


 そうやってどれほど歩いただろうか、やがて真綾は少し開けた場所に出た。

 そのとたん、空気が変わったのを彼女は感じた。どこか神聖で、それでいて厳粛というよりは穏やかな空気だ。

 その場所には清らかな水を満々とたたえた泉があり、森の動物たちがその水を飲みに来ていた。泉のそばには、ひときわ巨大な一本の木が天を突くようにそびえている。

 そして、その巨木の根元に――若い女性がひとり、立っていた。


 リスはその女性へとまっしぐらに駆け寄ると、古代ギリシアのキトンに似た衣服を身に纏った彼女の、白く華奢な肩に素早くよじ登った。

 そんなリスの小さな頭を愛おしそうに撫でながら、緑色の髪が印象的な美しいその女性は――。


「ご苦労さま、よくやったわ」


 ――と、リスがしゃべっていたのとまったく同じ声で、優しくねぎらった。


『今の声、リスさんと同じですね。これはいったい……』

(ペットは飼い主に似るって、おじいちゃんに聞きました。クロ以外は)

『……はあ、そういうものですか……』


 そんな感じで脳内会話をしている真綾にニコリと微笑み、女性は至って穏やかに声をかけてくる。


「驚きました? この子はラタトスクといって、聞いた言葉をそのまま再現するのがとっても上手なのですよ。乱暴な連中に捕まってしまったその子たち、苔男と苔女を、あなたに助けてもらうため、今日は頑張ってわたくしの声を届けてくれたのです」


 あのリスはラタトスクというらしい。どうやら、飼われている間に声まで主人に似てしまった、というわけではないようだ。北欧神話に出てくる同名のリスを思い出して、熊野がひとり納得している間も、緑髪の女性は話を続けた。


「――苔男や苔女はお薬を作ることができるお利口さんなのですが、数日前、あの乱暴なレッドキャップとゴブリンたちに、お薬を得るための道具として捕まってしまったのです。この場を動けないわたくしは助けに行くこともできず、もう心配で心配で、葉っぱが何枚抜け落ちたことか……。あ、申し遅れました。わたくしはこの森に住むドリアーデたちの長をしている、クレメンティーネという者です。こうして毎日のんびりと、森の動物や精霊たちと日向ぼっこするのが趣味です。年齢はヒミツですよ。――このたびは大切なお友達を救っていただき、誠にありがとうございました」


『ドリアーデといえば、たしか木の精霊ですね。……それにしても、おおらかそうな方ですね~』

(…………そうですね)


 淑やかに頭を下げるクレメンティーネから、そこはかとなく漂う雰囲気に、どこか熊野と同種のニオイを感じながらも、あえてそのことを熊野には伝えず、育ちのよい真綾はすぐに挨拶を返した。


「初めまして、羅城門真綾です」

「ラ・ジョーモン・マーヤ様とおっしゃるのですね。――〈守護者〉を持つ人間たち、貴族には、家名というものがあったと思いますが、マーヤ様がご家名でよろしいでしょうか?」

「いえ、家名は羅城門です」

「これは失礼いたしました。――このあたりとは違い、東方では家名が先にくると聞いたことがございます。あなたは東国の方なのですね」

「はい、東京生まれです」


 この当たり障りない会話の中にも、ここを動けないなずのクレメンティーネが、なぜか真綾に守護者のいることを知っていること、この世界に真綾と同じような〈守護者持ち〉が存在すること、その守護者持ちが貴族と呼ばれ、ひとつの社会を形成するだけの数に上ること、多くのアジア地域と姓名順が同じ文化圏がここの東方にもあり、逆にいえば、それとは違うここの文化圏はヨーロッパに近いのではないかということ、……等々、いくらでもツッコミどころはあるのだが、真綾はそれをことごとくスルーした……。


(宇治茶ソフト……)


 クレメンティーネの艷やかな緑髪をジーッとみつめて、修学旅行で食べた宇治茶ソフトの味を思い出している真綾だった……。

 相手が自分の髪を見てつばをゴックンしていることなどつゆ知らず、クレメンティーネはニコリと微笑むと、華奢な両手を大きく広げて明るく言う。


「マーヤ様、大鴉の森ラーヴェンヴァルトへようこそ!」


 それは、自分の転移して来た森の名を、初めて真綾が知った瞬間だった――。





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