第五十三話 ジュノ編 ~大河を超えて~
ジュノの大河は先日の討伐で訪れた時と同一視できないほどに変わり果てていた。
つい先程まで干戈を交えていたようで、川岸が所々血で赤く染まっている。そして、辺りには人や狼の残骸が無慈悲な雨に打たれているのだ。時折、川を見れば遺骸が川の底で引っかかったようで、その一部が水面上に見え隠れする。もはや遅かったということなのだろうか、狼と人が戦闘を繰り広げている気配が一切しない。
雨風に荒れ狂う大河はその色をさらに濁らせ、増水して今にも氾濫してしまいそうだ。
リューザは雨によって薄まってもなお死臭漂う空間を、冷たい雨を身に受けながら一歩一歩前進していく。もしかしたら、まだ息のある人がいるかもしれない。幸いなことに今見えている範囲で死している者の数は十にも満たないほどだ。
川岸で往生していると、ふと一人の人物が俯せに倒れこんでいるのが見える。近づいてみると外傷が少ないのがわかった。
そして、その顔を見たときリューザはハッとして声を上げる。
「ニアさん……」
前回の討伐と合わせて顔はすっかり傷だらけだがそこに倒れている人物は確かにリューザと共闘したあのニアだった。
身体はすっかり冷え切っているようだが、幸いなことにまだ息がある。
リューザは彼の上半身を仰向けにすると腹の上に乗せて後方へと足を進めていく。体の小さいリューザにとっては大の大人を運ぶのにも苦労する。
なんとか、岸の近くにあった丁度いい木の根元まで彼を運び込むと、リューザはそのままへたり込む。しかし、ぼんやりとしてなどいられない。恐らく今もここ以外の場所で村人と狼は戦火を交えているはずだ。
「リューザ……なのか……」
ふと、隣から声がかかりリューザは驚き振り返ると倒れたニアが細く瞼を開いている。
「ニアさん! 意識を取り戻したんですね!」
「あ、ああ……。すまない、お前には迷惑をかけたな……」
「気にしないでください、それより……」
リューザはニアの腹の裂かれた傷を見て慌てて自分の袋の中から手当の道具を出そうとする。彼の傷はそこまで深いものではなく今のところは大丈夫そうだが、放っておけば致命傷になるかもしれない。
そして、ふと手探りで頭陀袋の中を探していると、触り慣れない物に手が当たるのを感じた。気になって取り出してみると、それは小瓶だった。リューザにも見覚えがある。ブレダがマルサルから受け取ったといってリューザに見せてきたあのゼンブの樹液が入った小瓶だった。
まさか、別れた時に彼女がこっそり入れたということなのだろうか。自分の気持ちにはいつだって正直なくせに、こういう時は素直ではいられないのだろうか。リューザは一瞬だけ微笑みそうになる。
「すみません、ニアさん。ちょっと失礼します」
そう言ってリューザはニアの服を目繰り上げて彼の腹を露わにする。傷は思った以上に深く、グロテスクに固まった地に怖気づきながらも、もう片方の左手で瓶を手に取る。
ふと瓶を見ると、中身が半分ほどにまで減っている。恐らくブレダがどこかで使ったということだろうか。しかし、今はそんなことを考えている暇はない。リューザは瓶の蓋を開けて傾け右手に付けるとニアの傷口に塗りこむ。少し染みたようでニアは一瞬だけ苦悶の表情を浮かべた。
「これで大丈夫なはずです!」
リューザは一通り傷口に塗り終えるとそう言った。
「はは……何から何まで悪いな。感謝する。……ところで、お前はこれからどうするんだ?」
その問いに対してリューザは迷いなく答える。
「討伐隊の皆さんのもとに向かいます。まだ生きている人や戦っている人が森の中にいるはずです」
そう言うリューザに対してニアは弱弱しく口説き立てようとする。
「無茶だ……今が危険な状態だってことはお前にもわかるだろ。それにこの荒れた大河をどう渡るって言うんだ。直ぐに引き返せ、お前には自分で守らなくてはならない物があるはずだ」
「心配してくださってありがとうございます。……でもボク、決めたんです。やらないで後悔するなんてしたくないですから」
そう言って場違いに笑うリューザにニアは呆れて吐き捨てるように言う。
「お前は馬鹿なのか……」
「そうなのかもしれません。……でも、正しい判断をして誰かを犠牲にするような判断をするくらいなら、間違った判断もいいのかなって……。って、ごめんなさい、なんだか偉そうなことを言ってしまって。それじゃあ、ボク、行ってきます。きっと皆今頃、苦境に陥っているはずですから」
そう言ってリューザがその場を離れようとしたその時。
「リューザ……」
歩き出したリューザをニアが呼び止める。リューザは鷹揚と彼の方へと身体を向ける。
「なんですか?」
「死ぬなよ……」
「勿論です。必ず生きて戻りますよ!」
まるで空元気かのようにそう言うとリューザは川岸に向けて再び歩みを進めていくのだった。
川岸のそばまで行くと、轟轟と鳴り響く音は強くなり濁流の激しさがより一層実感できた。
この幅の広い川を渡るのは船があったとしても無謀だろう。ましてや身一つで行くのはそれどころの話ではない。
しかし、それ以外に方法がないのだからやむを得ないのだ。
リューザは大きく深呼吸をすると、恐れずに濁流に一歩一歩踏ん張って足を進めていく。しかし、岸から離れるにつれて川は深くなっていってしまう。見た目よりも川底は深いようで、暫く進むと足が浮いていく。
そして、足が離れてしまうと今度は泳ぎ出す。
パンデル湖で頻繁に泳いでいたおかげで泳ぐのは得意だ。それでも、流石にこの急流はリューザの身体に大きな負担をかけてくる。川の流れに対して垂直に泳ごうにも川の流れに沿って、意思とは反対にリューザの体はどんどん川下へと流されていく。
川の濁りと、激しい雨のせいで視界が歪む。消耗が激しく体力もそう長くは持ちそうもない。川の幅が依然渡った時とは比べ物にならないくらいに広く感じる。
いつの間にか、身体の力は次第に抜けていき、意識は昏倒しだす。そして、リューザは流れに身を任せたのだった。
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