馬の声が聞こえる
よく馬の言葉がわかればいいのにね、という人がいます。
私も、昔は馬がどうして私を攻撃してくるのかがわからず、もしも言葉がわかるなら、と思ったものでした。
馬に対して、私は随分と盲で何もわからない、何も感じられない、自分がどう当たっているのかもわからず、自信もなく、ただひたすら、馬の危険な行為から身を守る術を学んでいました。
それで、馬の扱い方がわかった気持ちになっていたのだと思います。
今は、とても残念なことに(?)、馬の声が聞こえてしまうようなスキルを身につけてしまいました。
なので、「馬の言葉がわかればいいのに」という人に出会うと、なんとも複雑な気分になってしまいます。
そもそも、言葉はそんなに万能なのでしょうか?
言葉を話す人間同士ですら、良い関係を築くのは大変難しいことなのに。
「空気を読めよ」という言葉がかつて流行りましたが、馬の言葉はまさにそれ、それとボディランゲージです。
そして、語る言葉は幼稚園児程度の意思表示であって、その意味を察してあげるのは大人の役目です。
私たち大人でさえも、医者に病状を伝える時に、「私は肺がんです、心臓病です、糖尿病です」とは、検査なしでは説明できないでしょう。呼吸が苦しい、足が攣る、頭が痛い、などと説明するだけです。
それで病状を特定し、治療方針を示してくれるのは、わたしたちではなく医者の仕事です。
馬の声が聞こえてしまったら、正直、乗馬なんて続けていられません。
きっと、人間に対するクレームのオンパレードです。
馬は、できないことをワーワーわめいて要求してきます。
何もしてあげられないことに、申し訳ない気分にさせられてしまいます。
だから、まず、馬の悲鳴に耳を塞ぐことを、多くの人は身につけようとしてしまいます。そして、そのことにも気づかずに「馬の言葉がわかればいいのに」と呟いてしまうのです。
「空気を読む」という面では、動物大好きの全くの初心者の方が、神経を尖らせて感じやすいくらいです。
蹴ったら嫌じゃないんだろうか? 叩いたら痛いんじゃないだろうか?
その通りなのです。
でも、考えてみてください。
マラソンランナーは、あんな長距離を走って苦しくないのでしょうか?
苦しいんです。でも、そこでやめればマラソンランナーではありません。
朝、起きたくない人は世の中に数多くいて、起こせば不機嫌になります。
でも、ダラダラと惰眠を貪っていれば、その人の人生はだらしなくつまらないものになります。
多くの子供は、勉強嫌いです。
でも、勉強しなくてもいい、好きなことだけしていればいい、と育てれば、子供は幸せな将来を送ることができるのでしょうか?
人間も馬も、欲望の赴くがまま叫び散らしていては、幸せにはなれません。
馬は、人間と共に生きるスキルを身につけなければ、生きてはいけない存在なのです。
馬と長い時間一緒に過ごしていると、乗馬をしているしていないに関わらず、乗るのが上手い下手も関係なく、なんとなく、馬が感じていることをわかるようになってきます。
表情や仕草から、ああこうだろう、きっとこうだろう……という具合に、動物的な感覚で、理解が深まるのです。
でも、その馬に人との付き合い方を教えようとしたり、人を乗せる馬に育てようとしたり、生きるためのスキルを教えようとしたら?
馬の訴えてくることの、良し悪しを判断して見極める能力が必要となります。
良いことはよし、だめなことは、だめ! と言えるコミュニケーション力です。
多くの人が迷うのは、馬の言葉がわからないからではなく、むしろ、良し悪しの判断がつかず、どうしたらいいのかわからない、優柔不断になってしまう部分です。
嫌だと言っている相手に「それでもやれよ」を言うのは、簡単なことではありません。でも、言えるか言えないかで、その馬の一生が決まってしまう。
判断することは、馬を扱う人間の責任になります。
そして、その見極めも、人の価値観や思想が根底にあるので、人それぞれになります。
乗馬をやっている人とやっていない人では、同じ馬が好きでもかなりの温度差を感じることがあります。
嫌だと言っている馬に「それでもやれよ」を言うのは、虐待でしょ? と思う人が、馬と付き合いのない人に多いのです。
馬に近い存在になればなるほど、馬の力を制御する必要を感じるのです。
それは、かつての私が、馬の自由に気の向くままに、束縛なく草原を走らせたい……と思っていた夢が、馬に乗った瞬間、そりゃ無理でしょ、乗ってられないでしょ? と、崩れ去ったのに似ています。
私が、馬と仲良くするには乗馬を続けることが「must」だと思っているのは、おそらく、常に馬の指針になることを捨てない、それが大事だと思っているからだと思います。
私がシェルに「あとはもうお前の好きなように生きなさい」と言った瞬間に、私とシェルの濃密な時間は終わり、深い絆も消える。
あとは、のんびりと草を食むシェルを、時々見ては目を細める老人の私がいるだけでしょう。
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