4.人と妖

 狭見はざみ姫織いおりは、まさしく文学少女だった。


 筆記試験はいつも好成績、特に歴史や読解が得意なようで、かなりの知識を蓄えていることは最初の講義で明らかになっている。


 ただ、その代わり運動音痴……とまでは言わないが、体術の訓練ではいつも苦労しているようだった。大人しそうな見た目通りといえば見た目通りで、クラスの者は誰も突っ込まない……のだが。


「お前運動神経いいんだな~」


「すっげぇ意外」


 あおはというと、クラスの男子に遠慮なく驚かれていた。


「意外ってどこが⁉」


 ここは実技の訓練を行う訓練場。これには屋外用と屋内用があるのだが、今日は屋外用ということで青空の下訓練を行っている。


 たった今課題とされた跳躍(池に何本も立っている杭を足場に販売側の岸に行く、というのが今日の訓練内容だ)を難なく終えた蒼は、意外がられる意味が分からない。


「……いや、静井しずいなら何もないところで転びそうだし」


「この課題もバランス崩してすぐ落ちるんじゃないかって期待してたし、おれら」


 男子2人がド正直に答える。


「ひどっ! それってドジっぽいってこと⁉」


「うんそれ」


「まぁそれ」


 2人にあっさりうなずかれ、蒼はガクッと肩を落とした。


「けどまぁ、実際この課題クリアしてんの、今んとこ静井1人じゃん」


 背の高い方の男子が、うなだれている蒼を慰めるように笑いかけた。


 この跳躍訓練は、つい前回までは地面に生えた杭の上を跳ぶものだった。遊びの延長線上とも取れるそれにそこまで緊張することなく皆が臨めていたが、それが水上となると話は変わる。


 蒼は周囲を見渡した。もうクラスの半数以上がこの跳躍課題をやったが、みんな途中で池に落ちてずぶぬれになっている。蒼に話しかけてきた2人も、途中で脱落していた。タオルで頭を拭き拭き、こちらにやって来たのである。


「誰かに習ってたのか?」


 もう片方の男子が、興味津々に訪ねてきた。


「う、うん。体動かすの好きで、それで」


 父のことを話すのは、何となく憚られた。曖昧な返答に頓着せず、彼は別のところに興味を持った。


「へぇ~! でもそれって珍しくねぇ?」


「そうなの?」


「そりゃあな。だって研修学校で教えてもらえるんだから、わざわざ習う必要ないだろ?」


 蒼を慰めてくれた方の男子の説明に、蒼は心当たりがあった。






 ――龍世りゅうぜの歴史は、妖に食い殺された人の血でできている。


 そう例えられるほど、妖による被害はこの長い歴史の中で積み上がっていた。人同士の戦よりも、妖との戦いの方がずっと多かったらしい。だから、妖に害をなされた経験があろうとなかろうと、「妖」という存在そのものに嫌悪するのが龍世の民というものだ。そのむごい歴史は授業でも何度も教え込まれている。だが、


「妖だって生きているんだ。人と同じで、いい奴も悪い奴もいる。悪い奴を見抜け」


 常日頃父の言っていたこの言葉こそが、蒼の信念だった。


「今の……いや、昔から続くこの妖退治は、無差別に殺しているも同然なんだよ。だが、蒼にはそうなってほしくない」


 ――周りに流されるんじゃなく、自分で見て、自分で答えを出せるようにならないとだめだ。


 と、一言一句覚えているわけではないが、そんなようなことを蒼に言い聞かせる晦日つごもりの目はとてもまっすぐで、今でも濃く胸に沁みついていた。まるで火が燃え盛るような、そんな光が滾った眼差しだった。幼心に、とても大事なことを言っているんだと、蒼は思ったものだ。


 体術と同様に、いや、それ以上に、父は”見抜く”技を蒼に熱心に教えていた気がする。


 技とはいっても、別に術を使うわけではなくいろいろな妖を見ていく、ただそれだけだった。場数を踏めということらしかった。


 直感はかなり鍛えられた――と、思う。


 今では”何となく”で妖の危険性の有無を判別できる。身に纏う邪気の質、発する音の震わせ方、そして目に宿る光で、一瞬で分かる。


 ”見抜く”訓練は楽しかった。遠くから妖を眺めているだけだから危険に晒されることはなかったし、無害な妖であれば近付いて触れ合うことも父は許してくれていた。無害な妖の中にも、こちらを冷ややかに無視する妖や人懐こいかわいい妖、悪い表情を浮かべて意地悪してくる妖と、個性があって面白かった。


 がれ時に街の外に出てしまい、あの青年と出会ったことを、蒼は父にだけは話していた。


 それ以来一層妖と会う機会を増やしてくれたし、蒼は蒼で一層熱心に”見抜く”ことに取り組んでいた。


 ――「妖」という名は、「しき」「あやし」「文無あやなし」という言葉が転じてできた名だという。


 しかし、そうではないと、妖にも人と同じように善悪があるのだと考える者たちで、密かに作られた同盟がある。若き日の父はその同盟に入って、母と最中さなかの姉妹に出会ったらしい。つまり母も叔母も、父と同じ考え方だったのだ。


 だったら――もっと応援してくれてもいいのに。


 最中に対しての、苦い思いがずっとある。


 父の教えをしっかりと刻んだ自分が戦闘員になることは、きっと意味がある。けれど最中が蒼の戦闘科決定にいい顔をしなかったのは、晦日の死に方が死に方だっただけにというのがある。


 ……晦日つごもりは、相討ちで死んだのだ。


 同じ戦闘局の仲間が駆けつけた時には、晦日も対峙していた妖も死んでいた。そして双方、まったく同じように胸部を斜めに抉り裂かれていたという。


 晦日は、自分の受ける傷を相手にそっくりそのまま返すという”呪詛”を行使したらしかった。


 刺し違えてでも、という覚悟は娘として誇るべきところなんだろう。しかし、置いて行かれたような、裏切られたような気持ちが大きかった。きっと最中もそうだ。


 蒼は、進んで晦日と同じような道を歩みたいとは思っていない。相討ちをすれば、最中が悲しむ。それだけはしたくない。それは何度も最中に話している。しかしその度に最中はぎこちなく微笑むだけなのだ。……蒼の性格が分かっていて、蒼が晦日と同じことをしそうだから。


 ――絶対、そんなことしないもん。


 2人の間には、未だにそうした溝があった。






「おっ、次、風端かざはたじゃん」


 男子の声に、蒼ははっと我に返った。


(いっけない、ボーッとしてた)


 ふるふるとかぶりを振って、蒼は池に向かう一鞘ひさやに目を向けた。


 一鞘は特にこれといって緊張しているわけでもなく、至って普通な表情でスタスタと池に歩いて行く。


 訓練場の隅でそれを見ていた蒼は、ふと、訓練場の外からそわそわとした気配を感じた。目を向ければ、他の学科の子達が訓練場の外から戦闘科の訓練の様子を見物しているみたいだ。案の定というか、女子ばかり。


 戦闘科は、他の学科よりも講義時間が長めだ。訓練ともなれば時間が長引くことは珍しくもなく、夕方の訓練中に他学科の生徒が帰って行くのをよく見かける。そしてこんな風に遠巻きにして見られることも日常茶飯事だ。


(風端君、やっぱりモテるんだなぁ)


 蒼としては、何というか感心するしかない。見られている当の本人はといえば、彼女たちの視線に気付いていないのか気にしていないのか、まったく動じていない。


 池の岸辺までくると、一鞘は立ち止まって足場になる杭を見渡した。考え込んでいるというほどではないが、軽く思考しているような表情。


 かと思うと、タンッ……と何の躊躇もなく地面を蹴った。


 一鞘の足は、素早く杭をとらえたかと思うとすぐに蹴り上げ、右、左、右、左――次は右かと思えば真正面やや遠い位置にある杭に行ったりもする――とテンポよく水上を跳んでいく。そのまま危なげなく、軽やかに対岸に着地した。


 おぉ~! と戦闘科は盛り上がって拍手喝采、見学していた女子達はきゃあきゃあはしゃいでいる。これで成功者は2人目だ。


 すごいなぁ――と、蒼も素直に感心した。正直、あの俊敏さがうらやましい。


 蒼も成功してはいたが、みんなに見られているし、びしょぬれになりたくないしでやはり緊張して慎重になっていた。1回杭の上にちゃんと足を載せてから次の杭へ、というように、進みは決して順調とは言えない。それに2回はバランスを崩しかけて落ちそうになっている。


 一鞘は特にこれといってうれしそうな表情もなく、スタスタと友達らしき男子の元へと歩いて行く。その男子が何やら冗談を言ったらしく、そこで初めて笑った。


(うへぇ、笑うんだ、あの人)


 講義中での冷めたような態度と、図書館でのしかめ面ばかりが印象に残っていたので、ちょっと珍しく思う。……まぁ、大して関わっていない自分がそれしか知らないのも当然か。


「次、狭見」


 体術の教師らしくがっしりとした体格の男性が、次の生徒の名前を告げた。


「おぉ、次が狭見とか」


 話していた男子が、より興味津々に池の方を見やった。小柄な少女が池へと歩んでいくのを、蒼も見守る。


「狭見ってさ、何で戦闘科入ったんだろうな?」


「へ?」


 ふと漏らした背の低い方の男子の声に、蒼は思わず顔を向けた。いやだってさ、とその男子も蒼を見る。


「あんなに頭いいんだから治癒科とか、本好きなら図書科とかに入りそうじゃん?」


 治癒科は研修学校の中でも特に入学考査が難しいと聞く。図書科の方はそこまで考査の難易度が高くないらしいが、確かに、本を読んでいても戦闘科ほどは怒られない気がする。


「あれだろ、後方支援部希望なんじゃね」


 ここまで黙っていた男子が、口を挟んできた。


「後方支援部?」


 何の躊躇もなく首をひねったのは蒼ともう1人だ。後方支援部の話を出した男子が慄いた。


「おおぅ、お前らウソだろ、後方支援部知らないとか……あっ、狭見始まるぞ!」


 ドン引きした表情から一転、慌てたように池の方を指差され、蒼は思わずそちらに顔を向けた。やはり学校の有名人が何かやるともなれば、見たくなるのが人間の性だろう。


 みんなの注目を浴びながら、姫織が無言で駆け出した――……、




 ドボ――――――――ン‼




 盛大な水しぶきを上げ、1本目の杭に上手く着地できずに池に落ちた。






 結果として、午後の跳躍訓練は成功者2名から増えることはなかった。


「えー、では明日からは跳躍強化訓練とする。合格者から次の課題に進む形式だ」


 教師の言葉に、「はい!」と皆で返事をする。え~などの声も上げず、皆跳躍が苦手であることを受け止めている。教師が「よし」とうなずき、解散の号令がかかった。


 途端、夕日が滲む訓練場に疲労の声がどっとあふれた。


 はぁ~。


 疲れた~。


 腹減った~。


 ――蒼もまったく同じだ。


 うん、うんと1人うなずいていると。


「静井さんすごいよねー!」


「風端君以外の男子より成績いいってことだよね⁉」


「女子なら絶対トップだよね!」


 訓練場から1歩足を踏み出した途端女子達がどっと押し寄せてきて、蒼はギョッとした。囲んできたのは、顔も名前もあんまり分からない他学科の子達だ。何でわたしの名前知ってるんだろう……? と目を白黒させながら、蒼は「いえいえ」と手を振った。


「わたし、途中で落ちそうになったし、全然すごくないというか……」


「風端君はすご過ぎるもん」


「うんうん、あそこまでいくともうプロっていうか!」


「それに、男子だから」


「ねー」


 と、顔を見合わせる女子達の視線は、蒼ではない別の方向をチラチラと見ている。囲まれている蒼もさすがに察した。この子達は遠回しに一鞘を褒めたいだけ、いや、褒めているところを一鞘に聞いていてほしいのだ。


「……本人に言ったらいいのに」


 ぽろっと思っていたことが、そのまま口からこぼれ出た。周りの女子達が、えっ? という顔をした。


「風端君に直接言ってあげなよ」


 何の悪気もなく蒼が言うと、一瞬女子達が眉を寄せたような気がした。微妙な空気になって、「じゃあね」「お疲れ様ー」と、蒼の周りからすすすっと離れて行った。


「?」


 遠ざかる背中に、蒼が1人首をひねっていると。


「静井さん」


 と、今度はさっきとは違う女子達が近付いてきた。蒼と同じ戦闘服を着ている、クラスメイトの女子だ。3人組で、3人ともが苦笑している。


 はて、何でなのやら。蒼が更に不思議に思っていると、その中のおっとりとした感じの子が口を開いた。


「風端君って、騒がれると露骨に嫌そうな顔するの、知ってる?」


「えっ、そうなの⁉」


 蒼は初耳なのでびっくりしたが――言われてみれば、そんな気もする。


「うん。だから、あぁやって本人には直接言わない形で、でもこんなに褒めてますよって感じ、出したいんじゃないかなぁ」


 と、困ったような笑みのままで説明してきたのは、この年にしてもう美人という言葉が似合う少女だった。思わずほうっと見惚れるも、蒼は彼女達と今まであまり話していなかったことに思い至る。


 李花のいる治癒科に遊びに行ってばかりなので、むしろそっちの科に友達が増えていたのだ。


「静井さんがハッキリ言っちゃって、こっちがびっくりしたよ!」


 ショートカットの小柄な女子が、ケタケタと笑った。何だかすばしっこい小動物みたいな子だ。


「えっ、わたしそんな爆弾発言しちゃってた⁉」


「悪気ないだけにタチ悪かったよ~」


 その子がからかうように言ってきて、蒼は思わず赤くなった。


 さて、この3人の名前だが――


 おっとりした少女は、雨橋あめはしにの


 小柄な少女は、砂切さぎり友誼ゆうぎ


 美人としか言いようのない少女は、央理おうりあずさ


 ……とのことだった。


 3人に自己紹介してもらってから、蒼は自分の顔覚えの悪さに我ながら呆れ返った。もう入学してからひと月も経っているというのに、クラスの女子の名前も把握していないとは。クラスに女子は9人しかいないのだから、これくらい覚えているのが普通だというのに。


 だが3人は大して気にしていないようで、というか蒼の物覚えの悪さに爆笑していた。


「いやー、静井さんって面白いね!」


 友誼がお腹を抱えながら言ってきたが、……それは褒めているのかいないのか。






「……」


 ……そんな、おかしそうに笑っている少女達に囲まれた蒼を。


 遠目に見つめ、やっぱないか、と漏らしていた人物がいたことを、蒼は知る由もなかった。

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