第2話 中海智

「ぐむむ……」


 利尻先輩は、すごい形相で烏野をにらみながら、なんとか立ち上がった。


「うう……いいか、球の速さとケンカの強さが、野球の全てじゃないからな……覚えておけ、そう簡単にエースは譲らんぞ……ぐほ、げほっ」


 言葉だけ取り出すとかっこいいことを言っているように聞こえるけど、これだけふらふらしながらでは、全然感じが出ない。


 ところで、そろそろ自己紹介を再開しないと。


「いやー、面白い対決だったなあ。どっちが上手いかは置いといて、烏野の球はやっぱり速いよね。これはいい戦力になりそうだ。じゃあ、次の人、自己紹介行ってみようか」


 残りの九人の中にはガチガチに緊張していてまともに声が出ていない人もいたけど、なんとか全員が自己紹介を終えることができた。そこで僕は、またくるりと車椅子を一回転させる。これは部員たちをこちらに注目させるのにとても便利だ。


「さて、梶谷かじたに


 僕は一年生の一人に声をかけた。


「な、何ですか?」


 梶谷の声は上ずっている。僕が怖いのだろうか。おかしい、僕より優しいマネージャーはこの県にはいないという評判なのだけど。


「今、この野球部に部員が何人いるかわかる? もちろん一年生も入れてね」

「……さ、さあ? えーっと、ひとり、ふたり……」


 梶谷は律儀に部員を一人一人指差し確認し始めた。でも、うちの部員はそんなに多くないから、すぐに数え終わる。


「わかりました、22人です」


 梶谷はおそるおそる自分のグローブを見た。それで僕には梶谷が怖がっている理由がわかった。つまり、彼は僕が一年生たちに入部テストをやると思っているのだ。


「大丈夫、僕は一年生たちを選抜しようとは思っていないよ。むしろ多い方がいいくらいなんだ。実はね……」


 本当は、僕は一年生がこんなに入ってきてくれて、嬉しさでいっぱいなのだ。


「これだけ一年生がいれば、紅白戦ができるはずなんだ。僕はそれが本当にうれしいんだよ。前の三年生が卒業してから、実戦形式の練習がなかなかできなかったからね」


 僕の言葉を聞いて、梶谷を含め、一年生たちの顔がぱっと輝く。うんうん、みんな試合は好きなんだな。僕は一年生たちに親しみを感じる。


「それで、今日は一年生たちの実力も見たいし、今から紅白戦をやろうと思うんだ。もちろん軽いウォーミングアップはするけどね。……一応聞くけど、みんな経験者だよね? まあ、高校から野球を始めるなんて人はいないか。よーし、じゃあ軽くランニングをしようか。グラウンドを五周ね。ちなみに上位九人に入れなかったら、ベンチスタートにするからね! はい、よーい、どん!」


 ベンチスタートと聞いて、みんなが慌てて全力でダッシュを始める。


「悪い、今のは冗談! 無理のない程度でいいから!」


 僕は慌てて言う。少しペースを落とした集団が、早くも一周を終えて僕の前を通過していく。


 こうやって他人が汗を流している中で、自分だけがぬくぬくと車椅子に座っているのは、いつまでたっても抵抗がある。かといって、一緒に走ろうというのも無駄なことだ。一周くらいはついていけるかもしれないけれど。


 僕は生まれたときから難病だった。医者によれば、一生まともに歩くことはできないらしい。嘘みたいな不運に思えるけど、僕にとってはそれが当たり前で、特に五体満足な人を憎むようなことはない。そもそも、僕は長く生きられるだけましなのだ。どんなに頑張っても、僕の歳までも生きられないような人もいる。


 それでも僕は野球が好きで、小さい頃から寝ても覚めても野球のことを考えていた。小学生の頃から、日が暮れるまでずっと少年野球チームの練習を見ていて、いつのまにかチームのみんなとは気の置けない仲になっていた。


 そして、僕は中学校に入ると同時に野球部のマネージャーを始め、今に至る。


 僕はみんなとは違って、試合に出ることはできない。でも、その代わり、野球に誰よりも長く触れて、誰よりも野球のことを考えていようと努力している。もちろん完璧からは程遠いし、役に立てなくて無力感を感じることもあるけれど、それでも僕は野球が大好きで、一瞬でも離れていたくないから、毎日グラウンドに車椅子を向かわせる。


 それに、こうやってみんなの練習を眺めているのは、余裕さえできれば、なんだか神様みたいで楽しい。今日は久しぶりの紅白戦、面白くなりそうだ。


 そう考えた僕の前を、いつもより必要以上にペースを上げているユニフォームたちが通り過ぎ、最終周回に入っていった。

 

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