朝まで緑山~田原総一朗、SASUKE完全制覇への道

ハイザワ

SASUKE:第40回記念大会

 緑山では田原の筋肉が哭く――それは都市伝説でもなんでもなく、端的な事実だった。


 2022年10月末日。緑山は、既に夕暮れを迎えていた。肌寒く、防寒具を着込む者も少しずつ現れている。だが、鋼鉄の魔城たる特設ステージを眺める観客たちのボルテージは最高潮に達していた。SASUKE第40回記念大会。歴代の有名参加者が集う華々しき光景とは裏腹に、緑山の筋肉要塞はかつてないほどの邪気をまとっていた。


「筋肉が壊れる瞬間が見たいのかもしれない。美しい筋肉が崩れ落ちる、その瞬間が……」


 ジャーナリスト・田原総一朗の怒涛の質問攻めに耐えかねた番組プロデューサーが放ったその一言はインターネットを祭りの狂奔へと放り込んだが、SASUKE新世代の面々にとってそれは完全制覇という甘美な栄光に箔をつけるものでしかなかった。いいだろう。ならば、俺が壊してやる……。その言葉に最も突き動かされたのはほかならぬ自分自身であったと、SASUKE新世代で最も完全制覇に近い男、田原総一朗は『朝まで生テレビ(2021年9月24日放送「激論! コロナ禍の総裁選とニッポンの課題」)』において語っている。


 既に、98名がファーストステージの時点で脱落していた 。電気店店長や塾講師、赤と黒の軍団など、有力候補は相次いで脱落した。挑戦者を呑み込んでいくドラゴングライダーは、さながら筋肉の墓場だった。にもかかわらず観客たちの熱気が冷めなかったのは、黙々とストレッチに取り組む田原の姿に、異様な凄みを感じたからだった。


「今年の田原は、本気だ……」


 SASUKEに魅せられたものは、自宅にSASUKEのセットを設置する。いや、SASUKEのセットを設置するからこそ、ひとはSASUKEに魅せられてしまうのだと言うべきか。タブーに切り込むジャーナリスト・田原総一朗が、朝まで生テレビのスタジオを自宅と捉えていたのは言うまでもない。田原は、コロナ禍の政府の対応の遅れを糾弾する野党議員や、セーフティネットの拡充と「夜の街」での事業従事者への偏見防止を訴えるジャーナリストの意見を交通整理しながら、深夜3時間にわたって延々朝生スタジオに設置された自宅SASUKEセットによるトレーニングを続けていた。2021年9月は、ファーストステージだった。ドラゴンスライダーのパイプが立てる金属音は、停滞する議論を前に進めるスパイスとなり、登壇者の表情は回転するフィッシュボーンが織りなす影によって彩られた。朝生のスタジオを、鍛え上げられたジャーナリズム筋が駆け巡っていく。そりたつ壁の頂上に手がかかると、前腕の筋繊維が束になって大きな力のうねりを生むように、登壇者の脳内に電撃が走る。そんなジンクスすら、語られるようになっていた。そして、番組放送中に、田原総一朗は堂々とSASUKEの完全制覇達成を宣言したのだった。


「緑山に、またしてもこの男が降り立った。去年はそりたつ壁で悔し涙を飲みました。だが、ゼッケン100番を身にまとったこの男に限界など存在するはずがない。今宵、完全制覇というタブーは破られるのか。SASUKE新世代、闘うジャーナリスト田原総一朗88歳の登場です!」


 アナウンサーの口上とともに、大きな歓声があがる。カウントダウンとともに、田原総一朗10回目の挑戦が始まった。スーツを脱ぎ捨て上裸になった田原総一朗は、クワッドステップス、ローリングヒルズを危なげなく攻略し、続くシルクスライダーも難なく渡りきった。身長162センチと小柄な田原のSASUKE戦士としての特徴は、何よりもその敏捷性にあった。過剰な鎧を捨て去り、各エリアを突破するためだけに最適化されたその筋肉は、さながら金剛くんを思わせる美しさを誇っている。臆せずステージクリアに邁進するそのスタイルは、言うまでもなくこれまでのジャーナリスト経験から生じたものであった。かくして田原総一朗の肉体は、新世代の同期たちから真実一路の「ジャーナリズム筋」と呼ばれるようになったのである。


「田原さん、落ち着いて! まだ全然時間あります!」


 田原総一朗に並走して、かつて完全制覇を成し遂げた営業マンの男が叫んでいる。フィッシュボーンの成功後、田原総一朗の目の前に見えるのはドラゴングライダーだ。トランポリンを飛んでバーに飛び乗り、高速でレーンを移動。その後、二本目のバーに飛び移らなければならない難関エリアである。だが、田原総一朗は呼吸を整える間もなく、一気に駆けた。トランポリンに全体重を預け、一本目のバーに飛びかかる。田原総一朗の手は、しっかりバーを掴んだかに思えた。だが直後、右手が滑り落ちる。会場全体にどよめきが起こるが、田原総一朗は左手だけでバーを掴んだまま、くの字の体型を維持。第一レーンの中央付近で、「順逆」の安定姿勢へと立て直した。そして、弧を描いて二本目のバーに飛び移る。完璧な立て直しに、緑山は熱狂する。「田原さん、足動かして足!」新世代の面々も、総立ちになって田原総一朗にエールを送っていた。


 前回大会において、田原総一朗は2連そりたつ壁にてまさかのリタイアを喫した。その最大の要因は、直前のエリア「タックル」の存在にあった。重量240kg、300kg、320kgの計860kgの重りを押し込む、馬力が求められるエリアである。「情報は足で稼ぐ」とはジャーナリストの鉄則であるが、総計860kgの重りを押し出さなければ得られないネタなど、田原総一朗のジャーナリスト人生において一つも存在しなかったのである。このエリアで体力と機動力を浪費したことが、そりたつ壁に登り切ることができなかった最大の要因だった。


 だからこそ、田原総一朗はこの一年間徹底してフィジカルの強化を行ってきた。


「ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ、ドゥ」


「ド〜する!?」「ド〜なる!?」略して、「ドゥ」、「ドゥ」。この掛け声で全身に力を込めるタイミングをコントロールし、無駄な体力の消費を減らす。2拍のリズムと踏み込むタイミングを一致させ、全身の力を余すことなく伝えるようにする。ド〜する!?、ド〜なる!?、ド〜する!?、ド〜なる!?、ド〜する!?、ド〜なる!?、ド〜する!?、ド〜なる!? ペースは、見違えて改善している。膨大な蔵書を押し出すトレーニングが功を奏する結果となった。それでも、田原総一朗は目に見えて疲弊していた。そりたつ壁に向かう足取りは、普段より遥かに重い。


「足動かせ足!」


「落ち着け! いけるって!」


 2枚のそりたつ壁を登り切ることで、ファーストステージはクリアできる。今年のそりたつ壁は、前年より10センチだけ高く設計されていた。わずか10センチ。制作陣のささやかな悪意は、SASUKE新世代の面々の夢を無惨にも打ち砕いていった。残り30秒。一枚目の壁は、難なく超えた。二枚目。幾度となく練習したステップを思い出しながら、壁へとひた走る。だが、あとわずか、指先が届かない。


「諦めんなよ! まだCM入んねーぞ!」


 電気店店長が叫ぶ。田原総一朗の目の前にあるのは、ベルリンの壁だった。脳裏に、東西分離の悲劇を乗り越えようと手を伸ばす名もなき恋人たちの姿がよぎっていく。彼らもまた、SASUKEオールスターズに違いなかった。ベルリンに比べれば、こんなもの……。残り10秒。リトライは不可能。失敗すれば脱落。田原総一朗は、一歩、二歩、三歩と踏み込み、壁と平行な姿勢を維持したまま蹴上がり、右手をへりに向かって伸ばす。指先が、頂上を捉えた。残り5秒。身体を引き上げ、クリアボタンが待つ頂上に転がり込む。一回転しながらボタンとの距離を詰める。あと二秒、アラートは、耳に入っていなかった。叩きつけるようにボタンが押され、真っ白いガスが吹き出る。それは、田原総一朗がファーストステージをクリアしたことを意味していた。緑山が、揺れた。新世代の面々は、飛び上がって喜びを爆発させている。朝まで生テレビのディレクターは、緊張の面持ちでその様子を眺めていた。SASUKE収録日だったその日は、『朝まで生テレビ「激論! ド〜なる!? SDGs」の収録日だった。田原総一朗は、SASUKEの収録が終了次第、すぐさまテレビ朝日の自宅スタジオに戻らなければならない。


 セカンドステージも、時間との戦いだった。冒頭のローリングログは、田原総一朗が二番目に苦手とするエリアだった。高速回転する丸太にしがみつき、田原総一朗の視界は歪む。だが、自らのイデオロギーが偏向したわけではない。田原総一朗は水上に浮かぶマットを這いながら進み、サーモンラダーの上り、下りをあっけなく攻略。次いで、スパイダーウォークに挑戦する。

 

 SASUKE新世代の面々は、田原総一朗が練習後に必ず語る逸話を思い出していた。曰く、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地に自衛隊に決起を促した日、田原総一朗はその報を東京12チャンネル社内にて聞いたのだという。田原総一朗はすべての仕事を放棄し、市ヶ谷駐屯地へと急いだ。だが、彼が到着した頃にはすべてが終わっていて、現場に立ち入ることは一切許されなかった。三島の行動に衝撃を受けていた田原総一朗は、その安否を自ら確認するために東武方面総監部の裏手へと回った。2つの建物に挟まれた狭い空間を両手と両足をつっかえにして登り侵入を試みたのだった。それは三島に対するシンパシーから生じた突発的な行為だったと、田原総一朗は語っている。だが、見つかれば逮捕されかねないプレッシャーと、容赦なく襲いかかる乳酸地獄は田原総一朗の右腕を使い物にならなくするのに、あまりにも十分すぎた。田原総一朗は人知れず転落し、心に穴がぽっかりと空いたまま帰社したのだという。


 1970年のスパイダーウォークは、あえなくリタイアに終わった。もし仮に田原総一朗が現在のようなスピードでスパイダーウォークをクリアできていたとしたら、彼は血まみれの総監室を目撃していたかもしれない。だが、それは田原さんにとって何のいい影響も与えないだろう。スパイダーウォークの後に待っているのは、三島の血ではなく、バックストリームなのだと、SASUKE新世代の面々は思う。


「あと50秒! 集中!」


 仲間の声は、田原総一朗の見つめる世界を2022年に引き戻した。逆流に苦戦し、時間を浪費する。リバースコンベアーでは、一度ならず二度バランスを崩し、大きく身体を押し戻された。残り15秒で、得意とはいえないウォールリフティング。田原はあらん限りの力で、30kg、40kg、50kgの鉄の壁を持ち上げていく。男一匹が命を賭けて求めるサードステージへの切符。SASUKE新世代の面々は、ただ、吠えていた。がむしゃらに、田原の成功を祈っていた。3つの壁を抜け、田原はボタンを押す。白煙。セカンドステージを、田原総一朗は残り1秒残しでクリアした。顔は上気し、荒い呼吸で肩が上下に揺れている。だが、田原総一朗の猛禽のような目は、サードステージ、クリア回数未だ一回の難敵、クリフハンガーディメンションを鋭く見定めていた。


 朝まで生テレビの収録は、あと3時間で始まる。そして、SASUKEの挑戦者として生き残ったのは、田原総一朗ただ一人となった。撮れ高が足りない。SASUKEの番組プロデューサーは、ひそかにそりたつ壁を高く、サーモンラダーを重く、バックストリームを長く、その他あらゆる手を使って挑戦者を苦戦させようとした。視聴者にカタルシスを与えるため心を鬼にして行ったその工夫が、記念大会にあるまじき撮れ高の少なさを招いてしまっていたことを、激しく後悔していたのだった。


 クリフハンガーディメンション。それは、高難度化が進むSASUKEを象徴する超難関エリアであり、サードステージまで駒を進めた猛者たちを、これまで容赦なく振り払ってきた。わずか3センチの突起にぶら下がりながら移動し、上下にスライドする突起に手を伸ばす。そして、今度は前後に移動する突起に、背面から飛び移る。はっきり言って、無茶であった。人間の筋肉のキャパシティを超えた、別なる筋肉次元より降り立ったモンスター。頂上を夢見る者たちの前に立ちふさがり、何度も奇形的進化を重ねたその門番は、ついに自らの力で動き出すに至った。青白き、最終兵器。緑山上空より捉えたその姿は、さながら捕食者だった。近づき、遠ざかりながら筋肉ジャンキーを栄冠という蜜で引き寄せ、あっという間に、水中に引きずりこむ。田原総一朗は、全10回の参加中、1回しかこのエリアをクリアできていなかった。


 落ちれば即、今年のSASUKEは終わる。朝まで生テレビとSASUKEの番組プロデューサーは、二人して落ち着かないそぶりを見せていた。田原総一朗は、この後自分がSDGsについて討論することを、ほんとうにわかっているのだろうか? 田原総一朗よ、できるだけ、見せ場を作ってほしい。できることなら、完全制覇してほしい……。討論と筋肉というまったく異なる番組畑で育った二人の視線は、一瞬交錯する。会場の空気も、次第に張り詰めたものになっていった。今年の田原の筋肉は、哭くのか――。だがほどなくして、緑山は大きなどよめきに包まれることとなる。


 田原総一朗は、クリフハンガーディメンションの1つ目の突起にぶら下がったまま、沈黙を保っていた。


 時刻は既に0時を回っている。わずか3センチの突起に全体重を預けたまま、田原総一朗は目を閉じ、口元で何かを唱えている。ADが伸ばす集音マイクは、ぽろぽろと流れるその言葉を拾い上げることができない。田原総一朗の全身の筋肉は、うねうねと波打ち、ときどき真っ赤に熱くなる。田原総一朗は、黙したまま沸騰している。まるで、筋肉のプロジェクションマッピングだ。めくるめく流れる、人間幻灯機……。まさか、田原総一朗はこの状況を察して、SASUKEに莫大な撮れ高をもたらそうとしてくれているのか。SASUKEの番組プロデューサーは筋肉プロジェクションマッピングが映し出す朝まで生テレビベストセレクションを大写しにするよう指示を飛ばしながら、そんなことはしなくていい。あなたに必要なのは、完全制覇だとカンペを回そうとする。同時に、朝まで生テレビの番組プロデューサーも立ち上がっていた。時間切れだ。物事には限度がある。田原さんがSASUKEに挑戦しているのは喜ばしいことだが、何より、田原さんは朝生の司会なのだ。メインディッシュ抜きで、料理は始まらない。相異なる二人の主張は、TBSとテレビ朝日の間にささやかな亀裂を生む。そして、長く続く確執をもたらす、はずだった。その未来は、田原総一朗の鶴の一声で書き換えられることとなった。


「やるよ! 朝生!」


 おなじみの音楽のあとに、おなじみの実況が流れ出す。


「SASUKE史上、前代未聞の出来事が起こってしまいました! ここはSASUKEでもあり、朝生でもある! 今月のテーマは『激論! ド〜なる!? SDGs』。自宅にSASUKEを持ち込むことが可能なら、SASUKEに自宅を持ち込むことも、できるじゃないか! TBSとテレビ朝日は、今、新たなSASUKEの誕生を見ているのかもしれません! さあ果たして、3時間の生放送を耐え抜き、彼岸のサードステージクリアを達成することはできるのか! ジャーナリスト、田原総一朗88歳怒涛の挑戦です!」


 急報を受け緑山スタジオに駆けつけた政治学者、NPO法人代表理事、与党・野党議員などのパネリスト、そして急遽代役として出演することが決まったSASUKE新世代の面々が、ぞろぞろとクリフハンガーディメンションにぶらさがっていく。燦然とはためくファイナルステージの赤旗をバックに、日本におけるSDGs概念が一面的にしか浸透していないのではないかという問題、ビジネスとしてSDGsを捉えることに対する功罪、そして、資本主義に対するアンチテーゼ、エコ社会主義の思想の是非……等々、多岐にわたる議論が展開されていった。SASUKE新世代の面々は、職業SASUKE人ではなく、いち生活者としての素朴な疑問を積極的に投げかけ、パネリストはその問いに対して真摯に解答した。マルクスの議論を紹介しながら水中に落ちサードステージ敗退が決まった社会主義思想研究家のGIF画像は日本中に拡散された。両手がふさがった状態で議論を回し続ける田原総一朗は、これまでの疲れが嘘であるかのように、いきいきと輝いていた。


 SASUKEサードステージには時間制限が存在しない。一度開始した朝まで生テレビは3時間、誰にも止めることができない。これらを組み合わせることで、SASUKEサードステージは3時間の撮れ高を確保しながら続行させることが可能となる。同時に、それは田原総一朗が朝まで生テレビによって3時間サードステージの脅威から防衛されることを意味する。だがそれは論理的にこそ可能であれ、実行するメリットはゼロに等しい。だが、田原総一朗にとっては、そうではなかった。


 筋肉との、討論が足りていなかった。


 鍛錬は足りていた。朝生スタジオに設置された自宅SASUKEセットで、田原総一朗は激しい練習を続けていた。講演や執筆活動に励みながら、あるときはジャーナリストとして、またあるときは職業SASUKE人として生活してきた。SASUKE新世代の面々は自分よりはるかに若い。だが、同じSASUKE完全制覇を夢見る者として、誰もが田原総一朗と対等な存在として関わりを持った。各人が運営するユーチューブチャンネルにサプライズで出演することもあった。お互いに裸でクリフハンガーのつきあいをすることで、心の距離はずっと密になっていった。


 それでも、自分の感覚と向こうの感覚が食い違っていることが、ままある。同じことは、彼ら自身も感じていることなのかもしれない。それはジェネレーションギャップに基づくものばかりではない。もっと根本的なものなのだ。つまり、クリフハンガーにおいてとびかかった指がすんでのところで二つ目の突起に届かなかったときのような、人と人、何かと何かが根本的に関わり合うことに関する問題である。


 そう、たった3センチしかないのだ。人と人とをつなぐ橋は、あまりにも脆い。今も、パネリストはぶら下がって3秒で落下し、身体を拭いて再度登壇し、また3秒で落下……という動きをひたすら繰り返している。すべてのパネリストが落下し、クリフハンガー上には田原総一朗とSASUKE新世代の面々しか残されていない朝まで生テレビ的には異常ともいえる状況が訪れたとき、一人の観客が、席を立った。それは、惜しくもファーストステージで脱落したSASUKE先生の教え子だった。彼女は田原総一朗と背中合わせに相対する。


「君は今どういうことに悩んでるの?」


「学校は楽しいけど、これからどうなるのかなってのが、不安で……」


「どうなるって?」


「わたしが大人になったら、なにになればいいのかわからなくて……うわっ!」


 彼女がサードステージを脱落したのをきっかけとして、クリフハンガーはたくさんの人、人、人で入り乱れた。これまでの挑戦者や観客、さらには制作スタッフまでもが列を成し、好き勝手意見を言いながらクリフハンガーに挑戦している。筋肉要塞はいまやあらゆる人間に向けて解放された。肌を寄せ合い、手を取り合ってサードステージに脱落していく。タダでクリフハンガーディメンションに挑戦できるのだから、観戦者にとってこれほどうれしいことはなかった。幸福な時間は、そうして過ぎていく。


 時刻は午前4時15分。朝まで生テレビの収録は、かくして終了した。おなじみの音楽が鳴る。その瞬間、緑山の人々は田原総一朗が今にも失神寸前の状態でかろうじて突起にぶら下がっていることを知る。


 左右合わせて八本の指の腹だけで全体重を支える田原総一朗の腕は、遠くから見てもわかるくらいガクガクと震えている。明らかに、筋肉がオーバーヒートを起こしていた。顔面は真っ青になり、ねばついた汗が水面に垂れ落ちている。落ちていないのが、不思議なくらいだった。「田原さん!」という誰かの呼びかけにも、答えられない。緑山は、再びSASUKEに戻った。それまでのざわめきが一気に静まり、誰かが唾を飲む音さえはっきりと聞こえるほどの静寂が緑山を包む。


 ほどなくして、ギシ、ギシと音が鳴った。


 金属が軋むような、悲鳴にもよく似た、あの音。


「哭いている」と誰かが言った。


 誰もが、その音に耳をすます。もはや恒例となってしまった、クリフハンガーディメンションに挑む田原総一朗の身体が限界を迎えたときの音。科学では説明できないその音を、SASUKEを愛するすべての者たちは、鬼の慟哭と呼んだ。声にならない叫びを、観戦者たちはひそかに待ちわびていたのかもしれない。その唸りこそ、SASUKEをより生々しく実感できる方法であると、ひとは本能的に察してしまっていたのかもしれない。


 だが、それはSASUKEしか知らなかった者たちの世界である。彼らはもう、朝まで生テレビを経験してしまった。誰かの声に、3時間かけて耳を傾けていた。何かが違う。それに気付いたのは、史上二番目のSASUKE完全制覇者の漁師だった。


「喋ってる……!」


「誰がですか」


「筋肉……!」


 田原総一朗は、自らの骨格筋、平滑筋、心筋、その他、あらゆる無数の筋肉パネリストたちとともに、朝まで生テレビの延長戦を敢行していた。


 上っ面の言葉だけでは、相手の本心を引き出すことなど到底できない。なだめ、すかし、挑発する。そうして相手の土俵に踏み込んでいかなければ、価値ある言葉を得ることなどできない。それが、田原総一朗が実践を通じて学んだジャーナリズムの鉄則だった。筋肉は、本音で自分に語りかけているのだろうか。まだ何か、隠しているのではないか。他者への容赦ない問いかけは、いま、自らに向かって反転する。


「なんでクリフハンガーに成功しない?」、「イメージはできてる。運が悪いだけだ」、「そんなわけない。駄目なものは駄目でしょ」、「僕らが悪いってことですか」、「いや僕が悪いよ」、「前腕が頑張ってないのが悪いんじゃないですかね」、「ふざけないでくれ、少ないエネルギーを無理矢理やりくりしてるんだ。こんなに酷使されて、どうしろって言うんだ」、「それはそっちの事情だろ!」、「こっちにだって事情があるだろうが! 少しは協力しろ、横隔膜!」、「俺らがやれることなんてなんもないだろ!」、「貴様……!」……。


 これでいい。いや、これしかない。今にも殴り合いの喧嘩を始めそうな筋肉の声を聞きながら田原総一朗は思う。対話しか、ないのだ。それが、どれだけ不毛であったとしても。クリフハンガーディメンション。二つの突起の間、1.8メートルの空間。その間隙とは、人と人との間に挟まれた断絶である。次元を超えなければ、ひとは、SASUKE対話に成功することができない。だからこそ、ひとは、一人孤独に哭くのだ。だが、SASUKEはもう、自分一人だけのものではない。朝まで生テレビが、田原総一朗一人だけでは絶対に成り立たないのと同様、SASUKEもまた、一人だけで成り立たない。別の次元の田原総一朗SASUKEくんも、完全制覇を遂げた頂上でそう語っていたのだ。


 田原総一朗の震えが止まる。全身を大きく振り子のように動かし、勢いをつける。ちらりと後ろを見る。1.8メートル先。わずか3センチの突起。田原総一朗は、これまでの練習で培ってきた成功のイメージをすべて、捨て去る。思い通りに動くことなどない。生命と生命が激しくぶつかり合う戦場。ジャーナリズム筋は、かくして躍動する。田原総一朗は宙を舞った。その瞬間は、恐ろしいほどゆっくりと流れていった。田原総一朗の両手が、向こう岸の突起を捉える。そこで、後ろにバランスが崩れ、悲鳴が上がる。だが、田原総一朗は落ちなかった。横隔膜が、全身全霊の力で田原総一朗の重心を前方に押し出していた。緑山は、かつてない大歓声に包まれる。その声援を受けながら、田原総一朗は3番目の突起、近づいては離れる、最大2.7メートルの跳躍。アナウンサーがやるべきことは、わかっていた。朝まで緑山は、ここからが本番なのだ。おなじみの音楽。田原総一朗は、再び飛翔した。その指は、再び3センチの突起に伸びていき……

 

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朝まで緑山~田原総一朗、SASUKE完全制覇への道 ハイザワ @haizawa28

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