清々しい程うすっぺら

@tago19

第1話

清々しいほど薄っぺらな


 この文章をここに投稿することは、完全なる自己満足で本来ならスマホのメモから出すことはしてはいけないのですが、虚栄心が抑えられず、勢いに任せたいと思います。

きっと誰も読まないのでしょう...ですが良いのです、もしかしたら読んでくれるかもしれない、わたしを理解してくれる人が現れるかもしれない、そんなことを考えるとこれから少しだけ前向きになれるので、これを投稿します、これは作文です。

ここからは気持ち悪い自分語りです。


「わたしはあなたが死んだら自殺します。いままで生きていたのは、あなたが悲しむからです。」

母は声を漏らして泣きました、母がわたしの前で泣く姿を見せるのは、後にも先にもこれだけになるでしょう。


 宮城で教師の母と会社員の間に生まれたわたしは、裕福でもないごく普通(この言葉はあまりすきではありません)の家庭で、上に3歳程離れた兄と母方の祖父、そして祖母の6人で暮らしていました。

兄は不出来なわたしとは違い論理的で地頭がよく自身の将来をすでに見据えていました。

母は生徒や同僚にも慕われる優しい人でした。

地元の祭りにいくと、遠くから「先生」と人目を気にせずに、生徒達がよく声をかけてくれました。

わたしはそんな母が何よりの誇りでした。

「貴方達がいない人生なんて考えられない」

という言葉をわたしは何度も耳にしました。

兄と父の喧嘩がとても酷かったとよく母がいいます。

原因は分かりきっています、父です。

父はアルコール中毒で、わたしの父は、兄が幼少のそれこそ物心のつく前から、「可愛くない」という理由でよく父に暴力を振るわれていました。わたしはその頃のことを覚えていないのですが、父が親戚が来るということで用意した刺身に手をつけようとしたときに

「まるで蝿のように兄を払っていた」

と叔母から大学2年の春頃に聞きました。

そのような毎日の度重なる暴力に対して、兄の父に対する怨みは、雪のように降り積もり、ようやく喧嘩できるようになった中学生のときに爆発しました。その頃の家庭の荒れようは本当に酷いものでした、父は魔法瓶を斜めにして勢いよくボタンを押して水鉄砲のように熱湯を掛けたり、あるときは朝起きるとベットの枕元に椅子が投げつけたあったそうです。そして毎回喧嘩の度に台所で音を立てて包丁を研ぐのです、どれもこれも威嚇の為です。そんなものですから兄はよくベットの横や枕の下に木刀や鉄パイプを忍び込ませていました。

 祖父と祖母は兄を守りました。また母は家庭裁判所に相談したりとなんとか兄を守ろうとしたのですが、解決の兆しが見えず、そのとき仕事と家庭のストレスで自殺を考えるまでに追い込まれていたといいます。

 父は家庭では孤立していました、もちろん友達など1人もいません。そんな人の唯一の心の拠り所がわたしだったのです。父はわたしに喧嘩の度に

「お前はどっちの味方だ」

とよくいうのです。わたしは答えませんでした、答えたら家庭が崩壊と思っていたのですから。わたしはそのことを誰よりも恐れていました、荒れることに比例するように、父はわたしに対して干渉していくようになりました。小学生のわたしに対して、酒を飲みながらよく

「この家族は狂っている。結婚したときからおかしいと思っていた、こんな家族と暮らすなら、一人で暮らした方がましだ、もちろんお前はおれと一緒に暮らすよな」

と語りました。わたしは小学生ですから、そんな父が可哀想に思えてきたのです。

「なんて可哀想なんだそしてわたしが父の味方にならなければ」

と日に日に強く思うようになっていきました。そして父が話す、自慢話や祖父や祖母の悪口を聞き、はじめは同情するために、聞いていたのですがだんだんと父が偉大で、この家族がおかしいと思うように変化していったのです。

小学校の授業中に父がよく喋っていた

「あの宗教(名前は伏せます)をやるやつは馬鹿だ」

と発言したことがあります、父は山形の生まれで、父の姉や祖母、祖父等が暮らす7人程の家族で構成されています。(ここでは省略してK家とします)父の孤独はここでも同じでした、父の悪口はK家も含まれていたのです。K家はとある宗教を信仰していて、そのせいで貧乏でした、ただでさえ生活が厳しいのにお布施にお金を使っていたからです。父も幼少のとき、食べ物を買わずにお布施に使う母を見て育っていたので、その宗教に対して強い怨みを抱いていたのです。だからわたしもその宗教は巨悪で、恐ろしく、信仰するやつはきまって馬鹿であると考えていました。

 その発言をしたとき、意味のわからない教室の数人は笑っていたのですが、担任には

「お前の父親がどんな考えを持っていようと構わない、だがそれを教室で話すな」

と叱られました。わたしは教室で父の自慢ばかり話すようになりました。例えば

「わたしの父は高校のときに模試で全国2桁に入ったことがある」

「医者になれるだけの実力があった」

等です。そんなことですから、小学校の教師達や同級生はわたしをよくはおもっていなかったと思います。


 わたしが中学校に上がったとき、兄と父の力関係は、完全に逆転しました。なにせ兄は高校生なのですから、父は単純な力比べではもう勝てっこないのです。それでも父は兄に対して、毎日のように突っかかりました、チェンソーを玄関に持ってきたことさえあります、ときには兄に対する怒りを、わたしにぶつけられ、寝ているときにビールを頭にかけられました。それでもわたしは父を祖父や祖母から庇い、喧嘩する度に父を慰め、兄のいうことを聞き、父と一緒に祖母と祖父に反発しました、わたしが中学校のときは、喧嘩が激化したため、父と兄の双方の肩をわたしなりに持っていたつもりなのですが、兄に

「完全にあいつが悪いのになんで肩をもつ」

と言われました。実際その通りだと思います、でもわたしは父が可哀想でただひとりの理解者だったのです。中学でもわたしには父の考え方が強くこびりついていていました。ですが思春期ということもあり異性の目が気になり出したのです。それから自分の顔をどんなときも意識するようになり、わたしの自尊心はどんどんと小さくなっていきました。あるとき同級生の隣の席になった女の子に

「xxxって(わたしの名前です)人に厳しく、自分に甘いよね。」

と言われました。その言葉は小学校のときから何度か耳にしたのですが、初めて聞いたような心持ちでした、兄や母が父に対してよく使う言葉だったからです。


 そこからは父が醜く人間に思えなくなってしまったのです、いままでの自分を強く恥ました。これから父を反面教師にして精神的に成長することを強く心に誓いました。それからのわたしは、常に己に流れる血に怯えるようになったのです。何をしてもこころのなかのもう1人が、隅に体育座りで蹲り、わたしを上目で睨むように覗いている気がしてならないのです。どんどん内向的になり、異性から遠ざかるようになりました。


 高校へと上がり、兄は大学へと合格し実家を離れ、一人暮らしを始めました。ようやく家庭が落ち着いてきたのです、わたしが幼少の頃より願っていた家庭の平穏でした。初めのうちは、ゆっくりと過ごせることに安堵しましたが、日にちが経つにつれでなぜか心に黒い靄が覆ってるように思えてきたのです。わたしは将来に対してなんの展望をないため、高校を卒業したら働くつもりでいましたが、兄と母が強く反対するのです。

「その考え方を持ったまま社会にでると苦労する」

とよくいわれました。自分の考えが間違ってるとはあまり思いませんでしたが兄と母に従いました。ただ単に社会に出るまでの時間を伸ばしたかったのです。


 そうしてわたしは大学へ向けて朝から晩まで必死に勉強をしました、依然として将来やりたいことなどは全くありません、何も深く考えないままに大学を受験しました。ですがどこも受かることもなく浪人するに至りました。わたしは絶望しました、普通の高校生活ならともかく朝から晩まで3年間を勉強に捧げ他になにもしていなかったのですから。


 浪人してからの日々はあっという間でした。母はわたしに

「予備校で友達を作りなさい」

と言いましたが碌に勉強もしていない人といまこうして同じ校舎で勉強することが耐えられなかったのです。わたしは予備校の人たちを見下していました、そうでないと自尊心を保てなかったのです。恋愛もせず友達も作らぬまま、ただ3年間を棒に振ったという現実を直視できませんでした。幸い予備校での成績は高校時代よりも、すっと伸び現役の頃に目指していた大学よりも上の大学に行けるまでになりました、ですがわたしは怖かったので、現役の頃とおなじ大学を受験しました。


 合格発表の日は肌寒く、鼠色の雲が見渡す限り、空いっぱいに広がっていました。正午に発表があるため朝ご飯をいつもと変わらずに食し、何気なくテレビを見て時間を過ごしていたのですが、発表直前になると心臓が激しく鼓動し、身悶えするので家の中で1番安心できるトイレ(わたしと兄の部屋には鍵も扉もないため、いま思えばこの部屋のせいで兄に心休まる日などなかった)で発表をまちました、緊張はしていたのですが現役の頃よりも成績が上がっていたため、内心安心してました、なにせテストの出来も何の不自由なかったのですから、そして何度もホームページを更新して、ようやく発表の時間です、そのときにはもう緊張よりも早く解放されたいという気持ちの方がずっとずっと大きかったのを覚えています。


 わたしは恐る恐る発表を見た途端眩暈がしました、番号がないのです。心臓が強く鼓動し、喉が渇きました、手足には鳥肌がたち脂汗で下着がびっしょりと塗れました。全身がむず痒くなり、爪を皮膚に立てずにはいられずになにかを抱きしめるように肋骨に食い込ませました、座っていたのに浮遊感が全身を包み、身体の芯に冷たい息を吹きかけられ、まるで自分の立っている大地が急になくなったようにかんじたのです。

 何かの間違いだと思ってページを更新しても全く変化がありません、それでもわたしは落ちたという現実を受け入れませんでした、その日の17時頃にもう一度確認しても変わらなかったので、ようやく受け入れることができたのです。


 わたしは慟哭しました、身体を震わせ何度も何度もえずき、身体をかきむしりながら、暴れました。

「俺には何もない」

と何度も大声で叫びました。

 母は何も言いませんでしたが、仕事帰りに目の端が朱色に腫れ上がっていたのを見てわたしは更に泣きました。あのときでさえもうわたしは先行きの見えない絶望よりも、母に対する申し訳なさのほうが勝ってていたのです、

 わたしは失敗に同情してもらうため、

「これ以上生きていても仕方がないから死ぬ」

とわざとらしく、そして母に聞こえるか聞こえないくらいの声量で何度も口にしました、物置に閉じこもり、3日間も食べ物を口にせず、家族へと過剰にアピールを行っていました。死ぬ勇気など毛頭ありません。

そんなことは家族の誰もが分かっていたことなのですが、わたしは更なる同情を引き出したかったのです。(後期試験があると皆さんは思うでしょうが、後期は前期よりも倍率が高かったため、前期に落ちた自分にとって受かりっこないとそのときは強く感じていたのです。)


 結果として後期試験には合格し、大学生になれることが分かったときも、あまり晴れやかな心持ちではありませんでした。大学でも以前と変わらず友人はおらず、興味のある学問を選んだわけではないため、大学はわたしの想像するよりもずっと退屈でした。そうして何も自分で行動をおこさないまま、大学2年生へと上がったとき、眠れない日が何度も続いたため、正月に2年ぶりに帰ってきた兄に相談したのです。忘れもしません、時計は21時頃を指し、わたし達はリビングのテーブルに向かい合って座っていました、父と母もそのときは出掛けていて祖父母はすでに寝ていました。いつもなら聞こえる近所の生活音もこのときは何もなく、シンと静まり返っていました。

兄の顔を何故か見ることが出来ず、俯いたり、リビングにかけてある時計にしきりに確認していました。

 

 そしてむかいあってから体感して5分程経ったとき、兄が突然

「兄はお前はおやじの生写しだ」

というのです。わたしは即座にそれは違うと否定しようとしたのですが、不意をつかれたのか言葉が喉でつまって出てきません。

そうして矢継ぎ早に続けて言うのです

「お前の人生は常に投げやりだ、これまでのことも自分は悪くないと考えている、受験に失敗したのも将来やりたいことが見つからないことも全て家庭、ひいては親父のせいにしようとしている。お前のその卑怯さがそっくりだ。」

というのです、わたしは兄に殴りかかる寸前でしたが、勝てないことは分かりきっているので立ち上がることもしません。

「俺がいなかったら...」

興奮して震えていました、

「この家庭は崩壊していた、おれがどれだけ苦労したか知っているのか」

と大声で喋りました。

「本当に余計なお世話だった、あのとき離婚していたほうが母さんは幸せだっただろう」

と兄はいうのです、

「お前は良心でやったかもしれないが、周りを不幸にしただけだ。

そしてこの程度の問題はどの家庭にもある、

お前はただ逃げたいだけだ」

「あいつは単なる親でしかない、親父のせいにしてもだれも責任はとらない、お前の人生はお前自身の責任だ」


 そのときはじめてわたしの心を覆う靄の正体に気づいたのです。わたしこそが誰よりも家庭が荒れることを心の底から強く望んでいたのです、家庭が荒れるのをわたしは助長していたのです。皮肉にもそれがわたしの人生ではじめての一貫した行動でした。わたしは父の理解者どころか、父を利用していた汚らしい卑怯者だったのです。


 他人を理解しようとせずに傷つけ、そのくせ自分に向かう険悪に臆病な程敏感で、他人との関わりを渇望しながら、行動せず自分以外の周りの人、そしてそれを取り巻く環境が変化するのを待つ、行動するのは自分のため、目先に欲望が有れば飛びつき人目を気にせず貪りつくすあの醜い父親よりも、わたしはもっともっと卑怯な小心者でした。そのとき一筋の閃光がわたしの過去から将来を照らし、わたしの足下に黒い影をつくりました。それは絶対に拭い去ることができず、なにを被せても上に必ず影を作るのです。


 わたしはまた懲りもせず死のうと思いました、こんな醜態を晒してまで生きる意味を見いだせなかったのです。そうして死ぬという形で人生の責任を残った家族に押し付けたかったのです、背負わせたかったのです。わたしはもうどうしようないくらいに卑怯です。もう後戻りすることは出来ず、これから決まった道を、いつも間近で見続けていたあの道を、意識するせずに限らず辿ることになるでしょう。


 ですがわたしはまだ死ねません、母が悲しむからです。これがこんなわたしにできる唯一の恩返しです。

母よ、不幸なわたしをどうかお許しください。


責任を負ってくれよ、誰かさ

誰でもいいから、おれの先を決めてくれ

殺してでもいいからさ、はやく。

もう眠れない日を過ごすのはうんざりなんだよ、おれを罵倒してくれ。

生きる意味をあじわせてくれ、もう何歳だと思ってんだよ。

逃げ続けるは限界なんだ。

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