たいへんに大変な営み
ViVi
日記にまたひとつ
ドアノブが静かに廻り、闖入者が現れた。
深夜。部屋の主は寝入っている。
そこに這入ってきた者は、当然、主の許可を得ていない。
「さて、お楽しみはどこかなァ~」
さすがに声に出してはいない。
読み書きの便宜上、カギカッコで記述はしてはあるものの、内心の表現だと思っていただきたい――せっかく寝入った隙を狙っているのに、わざわざ声を出すのは本末転倒というものだろう。
否。すこしばかりは声が出ていた。
聞こえないように、起こさないように注意をはらいつつ、それでも、声が出ていた。我慢ができなかったのだ。
闖入者こと
と書けば、暴走したストーカーや変質者のたぐいと思われるかもしれないが、そうではない。それらのごとき俗悪の
記代美は、「他人の日記を読むのを趣味とする」だけの、高尚な精神性を有する女なのだ。
じつのところ、他人の――ブログのような“公開を前提とする”ものではない――日記を読むというのは、たいへんに大変な営みだ。
まず、現代において、日記をつけるような者はごく少ない。
今や、日々のなかに特筆すべき出来事があったとしても、それはSNSやメッセージアプリで、即座にシェアできるのだ。わざわざ時間を改めて日記をつけるのは、かなりマニアックな趣味となっている。
そして、これもまた現代においては、一般家庭ですらも、それなりのセキュリティに守られている。
オートロック、複数の錠前、ドアチェーン、監視カメラ……それらを切り抜けて進入するのは、まったく容易ではない。
だが、記代美は、それを可能とするだけの強固な精神性と、相応の技巧をもっていた。
家庭レベルのロックはたいてい解除できるし、ドアチェーンや窓ガラスを破断せしめる工具の用意もしている。フリークライミングで地上十数階までを登れるし、管理人や警備員の虚をつく技術も体得している。
趣味に全霊を傾けた女なのだ。
しばらくして、記代美は日記を探し当てた。
いや、実際は、最初から場所はわかっていたのだろう。記代美ほどの実力者が、アタリをつけていないはずがない。
あえて探すようなそぶりをしていたのは、愉しみを引き伸ばすため――いうなれば、“好きな食べ物をあとにとっておく”のと同じことだ。普遍的なふるまいである。
「いただきまァ~す!」
記代美は声をあげ(いちおう、起こさないように気をつけようとはしたが、それなりに大きな声だった)、日記に襲いかかる。
一枚、また一枚。
めくるページは、昇天をうながす聖句めいて、記代美の自我を昂揚させていった。
書かれている内容は、ごくありふれたものだ。
そも、日記とはそういうものだ。フィクションではないのだから。筆者が、日々をすごすなかで体験したことを、そのまま記したものである。
某日にホームセンターで買い物をしたとか、某日に日曜大工をしたとか、某日に模様替えをしたとか――
わかりやすい“イベント”ですらも、そのくらいだ。本人にとっては、それなりの
その平凡を、しかし喜悦とともに咀嚼していく記代美。“隣の芝は青い”ということわざがあるように、他人の日記は
ゆえに無理からぬこととして、非凡な潜入技巧をもつ彼女も、このときばかりは、いくぶん集中を欠いていた。だから、
「なるほどなるほどこの日にはこんなことを――ぐごっ!?」
背後からの奇襲に、気づけなかった。
もっとも、そこには誰もいなかったのだから、あるいは警戒を維持できていても不意をつかれたかもしれない。
トラップだった。
仕掛けは単純だ。輪っかにしたワイヤーを天井にしつらえておき、それにつながった紐を引くことで、特定地点にいる人間の首を絞めるだけのものだ。小学生でも、夏休みの工作などでつくるだろう。
「ようやく来ましたか。待っていましたよ」
気づけば、部屋の主が起きていた。ベッドに横たわったまま、くだんの紐をあやつり、記代美の首にワイヤーをかけていた。
血流を阻まれ、意識があいまいに濁っていくなか、それでも記代美はひとつのことを理解した。
――わたしが日記を読むために部屋に這入ったように、この部屋の主も……。
かくして、日記にまたひとつ、ページが増えた。
そこには、なんてことはない、どこにでもありふれた趣味の記録として、侵入者を捕獲した顛末が記されていた。
たいへんに大変な営み ViVi @vivi-shark
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