母の庭

山猫拳

第1話

 去年、母が亡くなってから月に一回、娘と一緒に実家に帰るようになった。古い家具や荷物の整理を少しづつ行うためだ。母が生きている頃は、年に数回帰るだけだったが、もっと頻繁ひんぱんに帰っていれば良かったと、今更いまさらながら思う。


 父が亡くなってからの十二年は、母は一人で暮らしていた。わたしは大学を卒業して、その四年後に結婚し、実家を出た。それはもう三十年も前のことだ。夫の転勤で県外に出てから、実家に帰る機会が減った。何回かリフォームされるうちに、懐かしいと思うよりも、変わったと思う部分が増えていった。


 母は植物が好きであった。家の南西側にある庭には、様々な木や花がわっている。石楠花しゃくなげ、ブルーベリー、竜胆りんどう檸檬れもん、ペチュニア……まだ沢山ある。わたしは母のように興味が持てなかったので、これぐらいしか名前が分からない。

 母の一番のお気に入りは石楠花しゃくなげで、よく手入れをしていた。五月ごろになると庭の一画いっかくが、白に淡いピンクの、豪華なフリルをまとった石楠花しゃくなげの花で埋め尽くされた。


 小学生の頃、花の花弁かべんの部分をつまんでみ取って、後ろから吸うと蜜が吸えることを、クラスの誰かが教えてくれた。わたしはどうしてもそれを試してみたくなり、石楠花しゃくなげの花をんで蜜を吸おうとしたことがあった。その時は母にひどく叱られた。

 母が亡くなった後も、つぼみをたわわにつけている石楠花しゃくなげを見て、そのことをふと思い出した。

「ママ、どうしたの? なんか嬉しそう」

「え? ちょっとね、石楠花しゃくなげを見て懐かしくって。昔、おばあちゃんに怒られたなって」

「へぇー。おばあちゃんも怒ることあったんだね。ね、二階の押入おしいれ全部出してみたんだけど、何があったと思う?」

 娘の春香が、居間で庭を見ているわたしに、後ろ手に何かを持って近づいて来る。

「何? 高そうなものでも見つけた?」

「違う、もっと凄いもの。ほら、これ見て」

 春香が目の前に一冊のノートを突き出す。少しった装丁そうていの表紙には、桜の花が描かれている。右下には年月日が書かれていた。どうやらわたしが生まれた年のようだ。

「これ、おばあちゃんの日記だよ」

「日記? えぇ! そんなの付けてたなんて、嘘でしょ?」

 わたしは春香の手からノートを取って、ぱらぱらとめくる。日付と二、三行程度の短い文が、延々と書かれていた。

 母はあまり文章を書くことが、好きではなかったように思う。わたしに手紙を寄越よこしたことは数えるほどで、どれもハガキ程度の短い文面だった。その母がたとえ二、三行とはいえ、日記を書いていたのは驚きだった。

 わたしがまだ母のお腹の中にいる頃に、書かれたもののようだった。妊娠したとき、父は単身赴任中たんしんふにんちゅうだった、と言っていたことを思い出した。父がいない間の、覚書おぼえがきだったのかもしれない。適当にページを開いて読む。


 五月十二日

 悪阻つわりがひどい。食欲があまりない。来客。

 サクラがよくなく。大変だがしょうがない。


 五月十三日

 子供の名前を京一きょういちに相談。一つに絞り込めず。

 サクラが眠れずつらそう、睡眠薬を使う。


 五月十五日

 石楠花しゃくなげの葉は、せんじてお茶にできるらしい。血圧を下げる。

 サクラが外に出たがる。よくなく。


「ねぇ、京一はおじいちゃんでしょ? このサクラって誰?」

 一緒に日記をのぞき込んでいた春香が聞いて来る。確かに人の名前のようだが、サクラは犬の筈だ。昔飼っていたと、聞いた覚えがある。

「ママが生まれる前に飼ってた犬の名前よ。二十年くらい生きて、ママが生まれる前に死んじゃって……。たしか庭に埋葬したとか……。ほら、石楠花しゃくなげのあたり」

「えー! 庭にお墓あるの? 平気なの?」

 春香が眉をひそめてわたしを見る。

「昔はね、そんなの平気なの」

 再び、ページをめくる。


 五月二十日

 石楠花しゃくなげはよくきいた。

 サクラのことはしかたない。他に方法がない。


 五月二十一日

 埋めた。いなくなってみるとさみしい。

 かわいそうなので首輪を取っておく。


 五月二十八日

 竜胆りんどうを買った。ブルーベリーも酸性の土壌どじょうがよいらしい。

 京一きょういちが帰った時に買いに行くことにしよう。

 花南子かなこに決めた。


 花南子かなこは私の名前だ。サクラは安楽死させたのだろうか? 文の前後につながりがなく、書いた本人にしかわからない書き方だ。

「このノート、何かに入れて仕舞しまってあった?」

木箱きばこに入ってたよ。ねぇ、ママ……しゃくなげ? あの花、有毒なんだって。お茶のとこ、本当かなって調べてみたんだけどさ、ほら」

 春香がスマホの画面を差し出す。画面には確かに、グラヤノトキシンが含まれ有毒と書かれている。症状は血圧低下、呼吸困難などとあった。わたしは、箱の中を見たくなって急いで二階に上がる。

 父が亡くなってからは、物置として使われていた部屋は、春香が押入おしいれから出した荷物が、広げられていた。部屋の真ん中に、ノートと同じサイズの木箱きばこがあった。木箱きばこの中には封筒が入っている。

 わたしは真直まっす木箱きばこに歩み寄る。座り込んで、封筒を開ける。ネックレスが入っている。桜の花びらをかたどった淡いピンク色の石のネックレス。「かわいそうなので首輪をとっておく」というあの一文を思い出して背筋が寒くなった。

 春香が、誰だなんて言うから。人と間違えたから。そう思って読むからいけないのだ。



 家具や不要なものを処分してリフォームを施し、実家を貸家かしやとして活用することにした。更地さらちにして、土地を売る気になれなかった。これからも庭の一画いっかくは、五月になると見事な石楠花しゃくなげの花で埋め尽くされるだろう。

 日記と一緒に入っていたネックレスは、どのような経緯いきさつで一緒に仕舞しまっていたのか、今も分からない。

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母の庭 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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