君がもしも飛ばなかったら

澄田ゆきこ

本編

「君がもしも飛ばなかったら」


 少しだけ、昔の話をしようか。俺がまだずっと青くてダサくて、世界を知らないガキだった頃の話。

 幸せになってほしい女の子がいた。サークルとバイトが同じで、一個年上。馬鹿みたいな飲み会に馴染めない俺に、気を遣って話しかけてくれるような、優しい人だった。顔を合わせることも多かったから、それから少しずつ話すようになった。

 凛とした目をしているくせに、笑うとくしゃっとなるのが可愛かった。好きな音楽の趣味が似ていた。話を盛り上げるのがうまかった。頭のいい人で、文系なのに大学院に行きたいんだ、文学の研究をするのが夢なんだって言っていた。もっと話していたいと思うのに、その人はいつも飲み会を早く抜けてしまう。会費もったいねー、と俺は思ってたけど、そのうち、その先輩が抜けようとするとき、どん底を見たような目を一瞬だけしたのに気付いた。

 少しずつ仲良くなった。好きなバンドの、インディーズ時代のCDを借りた。自作の詩を見せてくれることもあった。本当に夢みたいな、あったかい時間だった。

 好きだな、と気づいた時には、それでもこの人が俺とつきあうことはたぶんないのだろうと、直観的に思っていた。それぞれ別の帰路につくとき、彼女はやっぱり、一瞬だけすごく暗い顔をした。彼女と話すたびに、どうしても縮まらない十数センチの距離に、胸が痛かった。

 そのうち、身の上話も聞くようになった。

 父親の借金返済のために奨学金を借りていること。

 おかしくなった母親が頻繁にヒステリーを起こすこと。

 家事と、祖父の介護を、ほとんど一人でやっていること。

 家族って、ちょっとうざいけどなんだかんだありがてー、くらいに思っていた俺には、とても抱えきれないような、ドラマみたいな話。

「ごめんね、重いよね」と彼女は自虐的に笑った。そんな時すら、悲しそうな笑顔がすごくきれいだなと思った。そんなことを思ってしまうくらいには俺は馬鹿だった。

 俺が幸せにしてやる、なんて言えるような気概は到底なくて、だけどその子が幸せになってほしくて、俺はその時だけ神様ってやつを信じて祈ってみたりした。


 一度だけ。耐え切れなくなった彼女が、俺の家に避難してきたことがある。口が重そうだったけれど、軽々しく事情を訊くのをためらうような雰囲気を、彼女はまとっていた。俺は何も言わずに、夕飯は食ったのかと訊いた。彼女は黙って首を振った。カップ麺くらいしかない俺の不摂生ぶりが憎かった。彼女はインスタントの安っぽい麺を、まるで宝物みたいに大事そうに食べた。

 客用の布団なんてないから、俺は床に雑魚寝して、彼女を布団に寝かせた。敷きっぱなしの布団は、カバーを洗ったのが遠い昔のことで、変なにおいがしてはいないだろうかと、俺は耐えず気を揉んでいた。

「ありがとね」と彼女は言った。声が少し涙に濡れて、震えていた。

 その日の夜。初めての一つ屋根の下。下心を起こせるような雰囲気でもなくて、悲しいくらいに、俺たちには何もなかった。

 彼女が帰る時、一枚のCDを俺に渡した。いつだったか、彼女が持ってきてくれると言っていた、限定版のアルバム。俺はぎこちなく「さんきゅ」と言った。

「いつ返せばいい?」

 俺がそう言ったら、「返さなくていいよ」と彼女は言った。

「もう十分、聞いたから」

 その言葉の不穏さに、俺は気がつくべきだったのだろう。


 帰り道で、彼女は飛び降りた。その話を聞いたのは、誰にも知らされず終わっていた葬式の代わりに、有志でお別れ会をやっていた日のことだった。

「あの子は君のこと、本当に楽しそうに話してたよ」

 彼女の親友だったという人は、話の最後にそう言った。俺はどんな顔をしていいのかわからなかった。涙は不思議と出なくて、自分の薄情さが嫌になりそうだった。自己嫌悪だけはいくらでも胸の内にうずまいていた。情けなかったし、ふがいなかった。あの日、俺の行動が少しでも違っていれば、あの子が死ぬことはなかったんじゃないかって後悔が、何度も胸を苛んだ。

 あんなに好きだったのに。俺はあの子を救えなかった。

 彼女からもらったCDは、しばらく触れることもできなかった。だけどある時、勇気を振り絞って、俺はケースを開けた。歌詞カードのところのクリップに、小さなメモ用紙が挟まっていた。

『今までありがとう』

 几帳面なあの人らしい、丁寧できれいな字だった。

 CDを渡したときには、彼女はもう何もかもを決めていたのだ。いくら俺が馬鹿でもそのくらいは察しがついた。何かがこみあげてきそうで、俺はあわててCDをラジカセにセットした。一曲目のイントロが流れてきたとき、一緒に雫が流れ落ちた。それから先は、それまで泣けなかったのが嘘みたいに、泣いて、泣いて、泣いた。曲調も歌詞も俺の好みど真ん中で、それすら悲しくて仕方なかった。落ち着いてまともに曲が聞けるようになるまでに、随分と長い時間がかかった。

 彼女がもしも飛ばなかったら、いろんなことを語りたかったと思った。屈託なく笑えたあの日みたいに、歌詞のセンスがいいとかコードがエモいとか、適当な言葉で何時間でも喋っていたかった。


 そのCDは、今でもよく聞く。思い出補正は抜きにしても、俺はこのアルバムの初めの曲が、あらゆる曲の中で一番好きだ。

 いい曲なんだ、ほんとに。

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