非情階段

久芝

非情階段

「じゃあ、お先に失礼します」

森田智(さとし)はいつものように挨拶をしてフロアをあとにした。

最近やることがなく暇だ。

定時を向かえるのが待ち遠しい。

今の仕事は「定時を待つこと」と言ってもいいかもしれない。

森田智は仕事が出来ないとも言えないし、出来るとも言い難く、会社の中で干されている訳でもない。そこまで彼について深く考えられていることはない。

仕事のスキルが中途半端で、任せたくても本当にこいつ出来るのだろうかという迷いが上司に作用するようだ。

そんな思いに森田智は、ずいぶん前から気が付いている。

それくらいの雰囲気を読む力はある。

彼の同僚に、スキルがあって性格も良い奴がいる。

ほとんどの仕事は彼に集中し、先輩後輩から慕われる。

または、森田智よりも3歳下の少し暗めで口数は少ないけどスキルがある奴に回される。

彼にまわってくるのは雑用の少し難しいやつ。

きっと給料も森田智が1番低いだろう。

とにかくその場を絶えるのは以前だったらきつかったが、今では自分はここにはいないものと考えるようになってからは楽になった。

周りで起きている出来事は、遠い宇宙のどこかで起こっている。そんな意識でいると案外楽なものだ。

森田智は、帰えりの時間を待つだけだ。


オフィスは10階にあり、ワンフロアうちの会社だけだ。

帰りはいつも非常階段を使って下りる。

出社はエレベーターを使う。

さすがに朝から汗はかきたくない。

もちろん通常の階段もあるけれども、非常階段の方がフロアからの距離が近いので使いやすいし、社員はほとんど使っていないから出会わなくて気楽だ。

非常口を知らせる電球が切れかかっている。

換気は他の場所と変わりないはずなのに、空気が薄い気がしている。

何度も使っているのにほんと誰とも会わない。

まれに、掃除のおばちゃんに会うが特に怪しく思われない。

「こんにちわ」と笑顔で。

昇ってくる人とすれ違うことはほとんどないので、気を遣うことなく下りることができる。

一段飛ばしだって、二段飛ばしだって、全飛ばしだってやろうと思えば出来るはず。

階段を使ってて森田は感じていた。下りるときのほうが案外怪我をしやすいといかもしれない。

下りている時に階段の段数が分からなくなると同時に、足を出すタイミングをたまに間違えてしまうのは注意が必要と感じていた。

このオフィスビルは築年数が古いので所々傷んでおり、先日の地震で壁に亀裂が入ったり、それ以前から水道水を汲み上げるポンプの調子があまりよろしくなかったり。

非常階段の箇所も例外ではない。

手すりの部分は地震とは関係ないが鉄なので錆びが目立ち、見るからに劣化が分かる。

壁の一部には亀裂が入ったり、補修したり騙し騙しの跡が見られる。

階数表示のフレームも取り外されていた。

数字の部分に若干色が剥げた部分があったり、フレーム自体も古かったので交換時期だったのだろう。

ただ、階数表示がないとたまに階数を間違えることも森田智にはあった。

ここの階数表示が取り外されたことを会社の皆は知らないらしく、森田智だけが知っている。

仕事中は普通の階段を使っているので、本当に帰りの時だけに使う階段。

いつもなら1階のエントランスに着くのだが、今日に限ってまだ着かない。

まあ、もう少しで着くだろうと気にせず森田智は階段を下りていく。

10階から1階まで降りるのに5分も掛からないはずなのに、森田智は腕時計を見た。すでに15分経過していた。

おかしい。

下りても下りても、そんな気がしない。

いつものあの、1階に着いたんだっていう感覚と、このビルから解放される満足感を森田智は感じることが出来なかった。

じゃあいったいどこにいるのだろうか?

自分はどこにいるのだろうかと考え込む森田智。

とりあえずどこでもいいからフロアに出ようと非常扉を開けようとしたが、なぜか施錠されて開かない。

非常階段はいつも鍵なんてかかっていないはずなのに。

扉を叩いてみれば向こう側の誰かが気付くかもしれないと森田智は思ったが、期待したことが無駄だと分かった。

応答ナシ。

仕方ないので1つ下の階の扉を開けようと小走りで下りた。

開かない。

まさか、閉じ込められたのかと森田智はありえない想像をした。

そんなはずはない。

ただのオフィスビルの非常階段の中に閉じ込められて死ぬなんて、そんなダサい話を聞いたことがない。

ゆっくりと下り扉を開けようとしたが、開かない。

携帯を取り出して同僚に助けを求めようとしたがなぜか電源が切れていた。

電源ボタンを押しても入らない。

電池が切れるなんてことは今までなかったのに。

あきらかに今日の非常階段はおかしい。

どうしようかと森田智は考えた。

するとある疑問が湧いた。

このビルの地下は2階までしかないはずなの、それより下まで下りているような気がしていた。

階段の手すりから顔を出し、下を見るとずっと奥深くまで階段が続いている。

その深さはどこまで続いているかはわからない。

怖さを感じる。

上を見渡してもどこまでが上なのか分からなかった。

2度と上に行けないのではないかという不安と、ずっと降り続けることに対しての好奇心のようなものを抱く。

ただ、ここにいてもどうにもならないのでとりあえず下り続けることにした。

死にはしない。

だってここはただのビルの、それも非常階段なのだから。

非常階段は命を守るための避難経路のなのに、そこで息絶えるなんて……

辿り着かない。

今まであった非常扉が無くなった。

このまま続けるしかないか、もしくは10階まで戻ることにするか?

この階段を今から上るのは結構しんどい。

今は下りることに専念したほうがよさそうだ。

たまに足の動きが合わなくて転びそうになりながら森田智は自分の人生を考えていた。

階段を下りるように、自分の人生も下り坂なのではないだろうか。

でも1つ気付いたことがあった。

底があるということ。

地球だって、宇宙だって、底がありそこから先はまた登り始めるのである。

人生なんて降りたり登ったりの繰り返しなのかもしれない。

とことん下っててやろうと思う。

そして、かならず見つけてやる。

自分の中の何かを。

ふと、階段の手摺りから顔を覗かせて下をみたら光を一瞬捉えた気がした。

疲れが溜まってきたのだろう。まさか三途の川じゃあるまいし。

それにしても喉が渇いてきた。

下りる。

下りる。

また、階段の手摺から森田智は顔を下を覗いた。

すると光り輝く存在が何となく輝いていた。

光は人を元気にする。

これで出られるかもしれないと、森田智は急いで階段を下りていく。

これがこの世界で最後かもしれないと思えるような力強さで。

一段飛ばし、二段飛ばし。

ゴールが見えてきた。

これで家に帰って一杯飲めると森田智は、ビールのことを頭に思い描いていた。

ビールがグラスからこぼれるくらいになるようキモチで光が見える扉を開けた。

光が眩しすぎて目を細めながら扉の向こうに歩いていく。

そこにはいつもの1階のフロアがあった。

「えっ?なんだよ」と森田智は振り返ると、いつも使っている扉が二つある。

森田智は右側の方から出てきた。

左側の方からはたまたま清掃のおばちゃんが出てきたので、森田智は声をかけた。

「突然ごめんなさい。ここの扉って二つありましたっけ?」と彼が聞くと、

「扉?どこに2つあるの?1つしかないじゃないの。ちょっと忙しいんだから、もういいかしら」

無駄な時間を使われたはという顔で彼女は去っていた。

どうみても森田智には二つあるようにしか見えない。

妄想がそうさせているのかわからないが、とりあえず岐路に着いた。


翌日、普通に出社すると扉はなくなっていた。

錯覚ではなく本当にあったはずなのにない。

そして、今日もオフィスに出社し、帰りの時間が来るまでの時間を森田智は待つ。

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