「山城日記」異聞
高麗楼*鶏林書笈
第1話
文机の上に置かれた草子を眺めながら彼女は呟いた。
「やっと完成した…」
彼女の脳裏には苦難の日々が浮かんだ。
北方の地に勢力を広げた女真人を討つために明に請われて我が国も援軍を送ったが、明軍が壊滅したため女真軍は我が国にも入ろうとした。
幸い、この時は、侵入は何とか食い止めたが、その後、再び女真人は兵を率いて我が国に入り込み、主上は江華島に逃れた。
この時も和議が設立し女真たちは引き上げて行った。
その後、暫くは目立った動きがなかったが、十年後、清国となった女真の皇帝ホンタイジは自ら軍を率いて我が国に討ち入ってきた。
主上は江華島に逃れようとしたが、道を塞がれたため南漢山城に籠ることになってしまった。
主上近くに仕えていた彼女も共に山城に籠った。
「これからどうなるのだろうか…」
逃げることは叶わぬ状況下、彼女はここでの出来事を全て書き留めて置こうと決心した。今となっては何故こうしたのか思い出せないのだが、彼女は時間があると紙切れや端切れ、これらがない時には下着の裾にその日の出来事を書きつけた。
ある日、こうした姿を主上に見られてしまった。
「これは大切なことだから、これからも続けよ」
主上に言われたので、その後は以前にも増して心して記録を続けた。
一月余りして彼女たちは山城から出られた。それはあまりに悲しく悔しい結末によるものだったが……。
「主上がお見えになりました」
侍女の声と共に高貴な男性が部屋に入って来た。
「おお、出来たのか」
机上の書物を見つけた主上は言った。
「はい」
彼女は王を上座に座らせながら応えた。
机の前に腰を下ろした王は冊子を手に取り目を通し始めた。
王宮に戻ってから間もなく、彼女は“淑媛”を拝命した。宮女から後宮すなわち“王の配偶者”になったのである。
その夜、王が大量の紙と硯と墨、筆を持って彼女の部屋を訪れた。
「山城にいた時書いていたものを持っているか?」
持参したものを机上に置きながら王が訊ねた。
「はい」
意外な問い掛けに彼女は戸惑いながら返事をした。
「それらをこの紙に記して欲しいのだ」
「私は無学ゆえ文章など書くことは出来ませぬが…」
諺文(ハングル)で控え書き程度は出来るが文章などとても書けないと彼女は思った。
「ならば、わしが教えよう。あれらを纏めるのがこれからの汝の仕事だ」
王が彼女を後宮に入れたのは、あの時の留め書きを一冊に纏めさせるためだったのだ。
言葉通り、王は毎夜のように淑媛の部屋を訪れては文章の書き方を教えてくれた。その結果、留め書きを文章に出来るようになった。
彼女は山城で記した紙切れ、端切れ、下着の裾を日付順に整理し、紙に書き始めた。
一文書くたびに、苦しかった生活が思い出された。途中で投げ出したくなることもあったが“王命”ゆえそれは出来ない、と自分を励ました。
冊子に目を通している王の顔が苦悩に歪んだ。最後の部分を読んでいるのだろう。
南漢城を出た王は三田渡で高所に座す北狄に膝を屈し、
三跪九叩頭をしたのである。この国の最高尊厳が、召使が着るような青衣を身に着け何度も額を地面につける姿は朝鮮の人々の涙を誘った。淑媛も思わず目を背けてしまった。
一通り目を通したのだろうか、王は冊子を机上に置いた。
「最後はこれで宜しかったのでしょうか」
淑媛は恐る恐る訊ねた。
「ああ、結構だ。我が国が清の臣下になってしまったのは事実なのだから」
王は南漢山城での出来事~それは辛く屈辱的なものだったが~の記録書を望み、淑媛は事実のみを書き綴った。その結果がこの書物なのだ。
「書名は如何いたしましょうか?」
表紙には何も書かれていない。
「やはり、山城日記だろう。あの山城での日々の記録なのだから」
淑媛は“山城日記”と端正な宮書体の諺文で表紙に書名を書き入れた。
「山城日記」異聞 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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