花は桜!

潮戸 怜(Shioto Rei)

言問橋

第1話 燃える橋

 その日の深夜、東京の下町は溶鉱炉の中のように激しく燃え上がり、とぐろを巻いて立ち昇る巨大な煙はその炎を反射して赤黒く光っていた。


 隅田川にかかる言問橋の上は、燃え盛る火から逃れようと風上の浅草側から渡ってきた人や荷物、大八車や自転車でいっぱいだった。しかし次から次へと投下される焼夷弾は、対岸の向島にも容赦なく降り注いでいく。折からの猛烈な春の北風に煽られた炎は橋の反対側からも迫っていたため、橋を渡る人々はそれ以上進むことができなくなっていた。街全体が燃え上がっていたせいで、夜の橋の上は昼間のように明るかった。


「神様、仏様、ご先祖様、誰でもいいから助けてください」

 怒号や叫び声の飛び交うその群衆の中に一人、菅野桜かんのさくらは絶望の表情で真っ赤な空を眺めてつぶやいた。桜の着ていた紺のセーラー服と下に履いたモンペは、北風に乗って舞い散る大きな火の粉に当たってあちこち焦げて黒い穴が空いていた。

 街を守る警防団の誘導に促され、橋を渡り始めてからだいぶ時間が経っていたが、あまりの混雑のため普段なら数分で渡れる言問橋の中ほどにも辿り着いていなかった。すぐ横で立ち往生していた救急車も全く動くことができず、乗っていた消防署員もエンジンを止めて外に出てきていた。

 

 言問橋の北にある隅田公園の右岸、浅草側には陸軍の高射砲陣地があり、そこに設置されていた何基かのサーチライトはアテもなくぐるぐると空を照らしているようだった。突然、その中の一基が南の空を差すと、他のサーチライトも次々と同じ方向を向きだした。光の先にはギラギラと輝く銀色の巨大な爆撃機、B-29が低空を北に向かって突き進んで来ていた。B-29は機首の下に備えられた銃塔の二丁の重機関銃をお返しにとばかり撃ちまくった。放たれた無数の銃弾は橋上の人の群に吸い込まれていき、桜のすぐ目の前で直撃を受けた中年男性の体は背中の中程から千切れ、ひっくり返って折れ曲り吹き飛んだ。

「!!!」

 桜は同時に飛び散った血飛沫をまともに浴びた。銃弾の雨は、宙を舞う人々の手足や荷物の破片や土埃を巻き上げながら橋を横断して公園の方に向かって次々と着弾し、バリバリと物凄い音を上げてサーチライトのガラスを叩き割っていった。凄惨な光景に足が崩れ、気絶しかけた桜が見上げた空には、銀色の機体が血に染まったように赤く光るB-29がものすごい速さで飛び去ろうとしていた。


「なんで私がこんな目に」

 血塗れになった桜は、必死に意識を保ちながら空に向かってうめいた。その間にも北西から吹いてくる強風と炎は街を焼き尽くし、風下にある隅田公園の木々は猛烈な火勢にあぶられ、ついに地面の草にも、避難した人や荷物にも次々と火がつき始めていた。逃げ場のない人々は冷たい隅田川に逃れていくが、炎に追い立てられた風上の人たちがさらに押し寄せ、深みへと押しやられていく。

 程なくして、サーチライトの発電機用に橋の下に置かれていた数十本のドラム缶のガソリンが炎に煽られて爆発し、橋の下の公園は目の眩むような明るさになった。

 その影になり、かえって真っ暗になった橋の上で、桜は爆発の衝撃をもろに受け、再び気が遠くなっていった。そして押し寄せる人波に潰されそうになり、背後から迫ってくる燃え盛る炎の轟音と、人々の絶叫を聞き、いよいよ最期の時が来たと思った。

 涙声で、桜は叫んだ。


「神様、確かに私は悪い子でした。たいして好きでもない男と付き合って、勉強も工場も適当にやって、桃や紀依きいにも迷惑かけっぱなし。もしも、もしもやり直せるなら、もっと清く正しく素直に生きます!」

「いいだろう」

 桜の耳に、誰かの声が聞こえた気がした。

「えぇっ!?」

 しかし次の瞬間、突風に乗って浅草から吹き込んだ炎が、橋の上の人と荷物を一気に覆い尽くし、全てのものが燃え上がった。全体が炎上した言問橋は浅草と向島を炎で繋いだ。

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