この時の作者の気持ちを答えなさい。
黒い白クマ
この時の作者の気持ちを答えなさい。
問。作者の気持ちを答えなさい。
待ってろと言われた控え室で、別室にいる十年来の旧友の様子を眺めていた僕の思考をそんなくだらないことが掠めていった。日本で一番有名な架空の現代文問題と言ったら、さすがに過言か。
画質の悪いモニターの中で、文壇期待の新人である浜辺マサノリは重版の決まった三作目の単行本を抱えて記者達へはにかんでいる。どうしてこの題材を?このような立場の主人公に決めた理由は?質問が飛び交う。
どんな気持ちで答えているんだろう。
まぁ、僕には一生分かりっこないことだ。売れっ子小説家の心情なんて、一端のアシスタントには理解出来ない。それでも考えずにはいられない。どんな気持ちで正答のない無駄な質問に答えているんだろう。涼しい顔で用意されたセリフを話すその様は立派な役者だ。もしくは詐欺師。
ずっとそうだった。振り返れば彼は中学の頃から僕よりも大抵のことを上手く出来た。それなりの努力があったのかもしれないし、生まれつきの頭に恵まれたのかもしれない。それでも、なんていうか。自分のテリトリーにまで土足で乗り上げて、僕を追い越して、たまたま運が良かったんだよ、なんて言われてしまうと。
やめよう。この状況は僕の出来うる限りの最高な人生だ。今はとりあえず、目の前の原稿を進めた方がいい。でも何のために?モニターの向こうの彼のため?
何のために書くのか。
端的に言えば、人に見せたいから、だと思う。自分のことだがあまり自信はない。
承認欲求的には、一人でも褒めてくれるならそれでいい。感動しましたとか、好きですとか、そういうコメントが一件あれば。ブックマークがひとつ付けば。でも生活しようと思ったら、平日一日に、そうだな……百人から百円貰えるようにならないといけないわけだ。それで月収二十万円くらいにはなるだろう。
でも僕は、有名になりたくない。注目されたくないし、知らん奴から蹴られたくない。
だから、そう。モニターに映った文字、あれは彼が文壇デビューした理由となる賞である訳だが。僕もあれに出したけれど、ああなりたかったかと言えば多分答えはNOだ。多分。自信は、ない。
どこか落ちたことにほっとしていたことは確かだ。金賞のどこかの誰かにも、嫉妬心の前に憐れみを覚えたくらいだった。この後大変だろうに、と。ただ少しだけ、少しだけ心が泡立つから、金賞の載った雑誌は買わなかった。見てしまったら、自分のものと比べてしまうだろうから。
僕が怒りを覚えたのはもっと後の事だ。
その見たくない雑誌を抱えて、浜辺が僕の前に現れた時でもない。迷子みたいな目をした彼がおずおずと忌わしい雑誌を差し出してきた時は、ただ驚いただけだった。
「え、これ浜辺だったの?お前って、その……書く人だったっけ?」
賞を取ったんだ、という彼の声の調子は何故かいつか教室で宿題を忘れたと言ってきた時とそっくりだった。「朔間、写させて。」何度か聞いた言葉、あれを言う時の顔によく似ていて。
「初めて書いたんだ、せっかくだから、出してみたんだけど。」
「凄いな、金賞。」
「ぐ、うぜんだよ。運が良かった、の。」
「目に止まるようなものを書けたんだろう?十分凄いさ。」
そう答えてから、僕はちょっと首を傾げた。この賞が決まったのは数ヶ月前。彼に会ったのは久々だが、やり取りはずっとあった。言われても言われなくても不思議じゃない距離感だが、報告されるタイミングが妙だ。
「……あのね、朔間。君は、その、文芸部だったろう。」
「うん?うん。そうだね。」
「今も書いてるのかい。」
飲んでいた烏龍茶が喉に引っかかって噎せそうになる。無理やりそれを飲み干して、僕は二回咳き込んだ。浜辺の顔を見る。嫌味な感じは一切なくて、なんだか、まるで。
「……書いてるよ。」
書いてしかいないよ、とは言わずにおく。浜辺が賞を取った直後に僕に伝えなかったように、僕は彼に仕事を辞めた話をしていない。
「それが?」
「ねぇ、朔間。」
記憶に重なって本当に聞こえた声に、顔を上げる。彼に笑いかけて、僕はノートパソコンを閉じた。
「お疲れ様。この後予定は?」
「特にないよ。」
「そう、じゃあ飯にでも行こうか。」
僕の提案に彼は大きな目を嬉しげに瞬いて頷いた。僕があの日、「いくらくれるの。」と尋ねた時と同じ目だ。
彼の車の助手席に乗り込む。車が滑り出してから、浜辺は肩の力を抜くように溜息をついた。
「今日のインタビューも流石だったね。」
咎めるような調子にならないように気を使って褒める。浜辺はまっすぐ前を見たまま困ったように笑った。
「ちょっとラストシーンの話には詰まっちゃったんだけど。」
「いいんだよ。『皆さんそれぞれの解釈をして欲しい』にケチつけるような奴はいないさ。」
「あれ、本当は何が正解なの?」
一端の読者のようなことを浜辺が尋ねた。思わず笑い声を漏らす。
「何言ってるの。君が分からないことは分からないさ。」
そう。
浜辺マサノリは、読者ではなく作者。
朔間ハズキは、作者ではなく読者。
そういう約束。
いや、約束なんかなくても忌々しい雑誌を読んでしまったあの時から、僕にとってその立ち位置は揺るぎない。
あの日、彼が差し出したそれ。
何冊か貰ったから、と彼がくれたそれ。
読まなくちゃいけなかったから、その重い表紙を家で一人捲った。数行読んだ時点で目眩がして、数ページ読んだ時点で内容に関係の無い涙が出て、読み切って僕は吐いた。
行き過ぎた謙遜は危険だ。容易に死因になる。
少なくともあの時、僕は彼のクソみたいな謙遜の言葉を彼の死因に出来るくらいには脳が沸騰した。本気なのか。本気で「偶然」「運良く」これを書いたとでも。じゃあ、君の足元に転がった数百の応募作は、なんだい?運が、悪かったのかい?
せり上がったものをまた全部吐き出した。ひしゃげた音と共に空気が落ちるだけで、胃酸くらいしか目には見えなかった。
「オレ、君の書く小説が好きなんだ。」
あの日、忌々しい雑誌と共に差し出された浜辺の褒め言葉に僕は不思議に思いながらも素直に頷いた。
「君はいつも文芸部の冊子にビッシリ感想を書いて渡してきた。覚えてるよ。」
受け取った雑誌をカバンに入れながら、それがどうしたの、と問う。
「あのね、単行本を、つくらなくちゃなんだけど。」
悲痛な声音で言われる事とも思えず、僕は彼の青い顔を見つめ返す。
「良かったじゃないか。」
「そう、なんだけど。その、なるべく早くって言われて、話題性のあるうちに、書いてって言われたんだけど、もう二案も没にされて。」
浜辺の目が泳ぐ。僕相手に浜辺の目はよく泳ぐ。よく見る顔だった。
「朔間、オレ、二作目なんて書けない。」
浜辺がこちらを見た。「朔間、写させて。」記憶の中、学生服の浜辺がおずおずと言ったのが聞こえた。
「……いくらくれるの。」
実質的な是の答えに、浜辺はその可愛らしい目をこちらに向けて見開いた。
浜辺マサノリは、読者ではなく作者。
朔間ハズキは、作者ではなく読者。
そういう約束。
「君はすごいよ。こんなに早く重版されるのは珍しいんだって。」
騒がしいファミレスでは秘密に声を潜める必要もあまりない。まるで自分の事みたいに彼は弾んだ声で言う。いや、彼の事なのだ、実際。僕はあの日彼にアシスタントとして雇われただけ。
「君の名前だから売れるんだ。一作目でイメージは固まるし、先入観も出来る。君は喋りも上手いし顔もいいからファンもついた。」
「ち、がうよ、それは。」
浜辺が顔をくしゃりと歪めた。彼のこの顔が嫌いだ。
「一作で消える人だっていっぱいいる。オレが今も持て囃されるのは、全部君が、」
「君が。」
大声ではなかったが、殴るように吐いた声は無事に浜辺の戯言を止めた。さっきまで背筋を伸ばして笑顔を振り向いていた詐欺師が、僕のことを伺うように見つめる。
ずっとそうだった。
だから僕は、自分より遥かに優れた彼を見下し続ける羽目になる。すぐに君は腹を見せるから、君は何度僕に怒鳴られてもしっぽを振りながら擦り寄るから。僕は君に勝てないことくらい分かっているのに、僕はずっと君の主人みたいな面をする羽目になる。
「君が取った賞、僕は一次選考にも残らなかったんぜ。」
出したことも知らなかっただろう、と僕は囁いた。浜辺が顔をますますくしゃくしゃにした。
「君が僕の書くものが好きなことはよく知ってるし、僕はそれで十分だ。君に直接言ってくる奴だって、やっぱ最初だけだなって言う奴も二作目の方が全然好きっていう奴も居るだろ。まぁ、結局は好みなんだろうな。」
ドリンクバーの薄いジュースを流し込む。浜辺は相変わらず僕が嫌いな顔のままだ。
「そんな顔するなよ、二人とも飯が食えてるんだから。」
何のために書くのか。人に見せたいから。今僕の作品を、信じられないくらいの人が手に取っている。
一人でも褒めてくれるならそれでいい。有名になりたくない。でも生活しようと思ったら、金がいる。今僕の手元には馬鹿みたく膨れ上がった彼のテレビ出演料や広告出演料、意外とそこまでにならない印税とあとよく分からない関連イベントで生み出された彼の収益の半分以上が渡されていた。正式に僕にそれをやると書類まで作られていた。今も渡され続けていた。だって、彼の収入が途絶えないから。
でも僕のことを誰も知らない。見ろよ、楽園さ。
「朔間、の、話が、本当に、好きなんだよ、オレ。」
「うん、分かってるよ。」
君が褒めてくれれば、それでいい。生きていければ、それでいい。
「めそついてないで今作の感想を聞かせてよ。」
「……っうん!たくさん、あるから、」
楽園さ、なのに。
今日の記者会見で、こいつはどんな気持ちで応えていたんだろうと考えることが。僕よりずっと何もかも才能のある浜辺が、僕のことを伺うように見つめてくることが。笑いだしたくて、腹正しくて。
日本で一番有名な架空の現代文問題が、僕の思考を掠めていった。
この時の作者の気持ちを答えなさい。 黒い白クマ @Ot115Bpb
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます