1-19 弟

 その日は何となく眠れなかった。

 一度眠れないと考えてしまうと、周囲の細かい音が気になって、どんどん頭が冴えてしまう。特に隣で眠るカジのいびきがうるさくて、とても眠れそうになかったので、テントから這い出して散歩をすることにした。

 明かり一つない鬱蒼とした森の中、空に広がる満天の星空が僕たちを照らしている。元の世界ではこんなに夜を感じたことも、星空をまじまじ眺めたこともなかった。今、僕はこの世界に生きている。そんな実感に満たされていた。

 森を抜け、拠点から少し離れた川辺に出ると、静かに流れゆく水面を見つめているミレナの姿があった。

「もしかして、ミレナも眠れないの?」

 近づいて声をかけると、こちらを振り返って優しく笑った。彼女も眠気を待つために、ここで夜風に当たっていたようだった。一瞬だけ彼女の笑顔の奥に虚脱感のようなものが見えた気がしたけれど、星空が落とした影のせいだっただろうか。

「夜は好き?」

 突然、彼女はそんなことを尋ねてきた。唐突な質問に答えあぐねていると、彼女はそのまま自分の話を続けた。

「少し前までは、夜がこんなに恐ろしいものだなんて、考えたこともなかった。夜というのは、目を瞑っている間に過ぎ去っていく、存在しないに等しい時間だった。時折、眠らずに過ごす夜があると、それこそ異世界に足を踏み入れたような高揚感があった」

 おそらく彼女の言葉は誰に語るでもない独り言だった。その声はか細く、悲しげに聞こえる。僕は偶然この時この場所に居合わせただけで、ただその声を黙って聞くことしかできない気がした。きっと彼女の姿がこんなにも寂しげに見えるのは、そんな風に他者を求めず孤独の中にいるからなのだと思う。

「こうして一人になって、初めて夜の恐ろしさがわかった。あのとき感じていた異世界にいるような興奮は、そのまま反転して孤独に変わった。夜の闇に包まれてると、人はどこまでも一人なのだと思い知らされる」

 彼女の言う孤独を、あまり理解できなかった。というのも、僕は割と孤独が好きだったし、それ故に夜も好きだったから。

 孤独とは自由で、夜とは自分だけの世界。

 僕にとっては、何物にも邪魔されず空想に没頭できる至高の時だった。

「夜が怖いってことは、きっとミレナは独りじゃないんだね」

 僕も敢えて独り言のように呟き、砂利の上に座る彼女の隣に腰かけた。彼女の方を見るのは野暮な気がして、代わりに目の前の川に目をやる。

「独りじゃない?」

「夜を、孤独を恐れているのは、ミレナが孤独じゃないからでしょ?」

 想う相手がいるから、対照的に孤独が恐ろしく感じられる。僕が孤独を好きなのは、僕自身が孤独だからなのだろう。

「大切な人がいるのなら、それはとても幸せなことだよ。夜を恐れることなんてないほどに」

「……そう、ね。でも、だからこそ、私は独りになるのが怖い」

 どうやら彼女は、誰かを失った先の未来を夜の中に見ているみたいだった。失うことへの恐怖は、失うこと自体よりも恐ろしいことなのかもしれない。端から何も持っていなければ、案外楽なものだけど。

「弟がいるの」

 そう言って彼女は胸元からペンダントを取り出した。開閉式になっている蓋を開くと、中には無垢な笑みを浮かべる少年の写真が入れられていた。

「父は少し前に突然家を出ていって、母は同じころに死んだわ。だから今は弟と二人きり。もしもこの子までいなくなってしまったら……。最近は夜になるとそんなことばかり考えてしまう」

 彼女はそっとペンダントを握る。失う恐怖というものが、僕にはあまりよくわからない。

「名前はなんて言うの?」

「祥真。すごく賢くて気遣いのできる、ちょっと理屈っぽいませた子なの。本当は弱虫な癖に強がりで、私に心配をかけないように、弱音も文句も言わない。姉としては、少しくらい甘えてくれた方が嬉しいのだけど」

 それから彼女は弟との思い出を語ってくれた。

 彼が生まれた日はひどい雨だったこと。

 具合の悪そうな母が心配でたまらなかったこと。

 生まれてすぐの姿を見て、人間とは思えず気味が悪かったこと。

 けれど、恐る恐る差し出した手を握り返されたとき、言い知れぬ興奮を覚えたこと。

 二人で留守番をしているときに、蜘蛛を食べようとしていて慌てて止めたこと。

 夜に泣き止まないときは、母と三人で眠ったこと。

 彼の嫌いなグリンピースを、母に内緒で食べてあげていたこと。

 よく公園の砂場でトンネルを掘って遊んだこと。

 転んで膝をすりむいても、瞳に涙を溜めながら強がっていたこと。

 近所の大型犬がいる家を横切るときは、必ず彼が庇いながら歩いてくれたこと。

 背丈が同じくらいになった頃から、恥ずかしがって少し距離を取って歩くようになったこと。

 友達の前では、呼び方が「お姉ちゃん」から「姉さん」に変わったこと。

 大好きだよ、と言うと、恥ずかしそうに困った顔で笑うこと。

 その反応が面白くて、よくからかうように言っていたこと。

 落ち込んでいるときは、何も言わず見守ってくれていたこと。

 父がいなくなって、母が亡くなったときも、彼は決して涙を見せなかったこと。

 アルバムを一枚ずつめくっていくように、一つ一つの思い出を丁寧に語っていく。

 語られていく場面を想像していくうちに、会ったこともない彼女の弟の姿がありありと浮かび上がってきた。そして、彼女の思い出が自分の経験したことのように懐かしく思えてくる。まるでファンタジーの世界に没頭しているような感覚だった。それくらい彼女の思い出は美しく、少し羨ましかった。

「弟は今離れたところにいるの。でも、もうすぐ会えるはず。それまでの辛抱ね」

「きっと弟くんもミレナのことを待ちわびているよ」

「うん。もう待ちくたびれているはずだわ。あの子は私なんかよりもよっぽど夜が苦手だから」

 夜が明けようとしているのか、遠くの空が白み、周囲が明るくなり始めていた。

 どちらからともなく立ち上がり、テントの方へと戻る。

 瞼は重たくなってきていたが、まだ少し、眠れそうになかった。

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