福音

@lostinthought

第1話

 伊藤いとう秋都あきとは放課後の教室で拾ったそれ・・を読みながら、激しく呼吸を震わせていた。

 秋の夕暮れ。

 下校時刻はとっく過ぎている。

 電気を点けていない高校の教室はすでに暗く、そこには彼以外に誰もいない。

 だが彼はそのページをめくることをやめられなかった。

 裏表紙の隅に、クラスメイトの一度も喋ったことのない女子の名が書かれた、一冊の日記帳。

 そこにはこう書かれていた。


 ──〇月〇日 今日から日記を付けることにした。でも特に書くことがないから、読んだ本のことでも書こうかな


 これが最初のページの1行目。

 日付は3ヶ月前だ。

 部活の後、忘れ物を取りに戻ってきた秋都は、たまたま教室の床に落ちていたこの何の変哲もないノートを拾った。

 どの文房具屋で売っている、やや小ぶりのノートだ。

 裏返すと前野有紗という名前があり、いつも本を読んでいる地味な女子のものだと分かった。

 秋都は失礼だとは思いながらも、つい興味本位で表紙を開いてしまった。

 1行目を読み、すぐこれが彼女の日記帳だと気付く。


(ふつうのノートを日記帳にする女子も珍しいな・・・)


 秋都は前野の机に置こうとしたが、何かに引かれるように次のページをめくってしまった。


 ──〇月〇日 今日は『白鯨(上巻)』を323ページまで読めた。あと少しで読み終えそう


 秋都は心臓を掴まれた気がした。

 嫌な予感がしながらその下の日付の日記を読む。


 ──誰? 誰なの?


 そこで秋都の息が詰まる。

 次の段にはこうあった。


 ──〇月〇日 誰かがわたしの本(白鯨)にいたずらした。びしょびしょに濡れてページが開かない。ありえない、誰がやったの?


 ノートに書き付けられたボールペンの文字が震えていた。その理由は怒りか、悲しみか。

 いずれにせよ、秋都には心当たりがあった。

 体育の後、教室で制服に着替えている時、友達とふざけていた秋都は手にしていたスポーツドリンクを前野の机にこぼしてしまったのだ。

 その時机の上に本が置かれていたが、秋都と友人の猪瀬は「やべぇっ」と笑い、適当に机を拭いてそのまま彼女に謝りもしなかった。

 黙っていたのだ。

 だが問題にならなかったので、彼は前野が気付かなかったと思い込んだ。


 だが、この日記にはそのことが明らかに書かれていた。

 秋都は、だから動揺した。


 彼は動揺しながら日記に目を走らせ、ページをめくる。

 誰かが告げ口していたら、犯人として自分の名前が書かれているはずだと思ったからだ。

 今3年生の彼は公立大学の入試を前に、ごたごたに巻き込まれるのだけはゴメンだった。

 たとえそれが自分の落ち度に由来することだとしても。


 ──〇月〇日 犯人かもしれない人がいる。チラチラとこっちを見てくる男子と目が合った


 手が止まった。

 覚えがある。

 一度だけだが、一瞬彼女と目が合った気がしたのだ。けどそれは本当に一秒に満たない、目が合ったのは錯覚だと言われればそれまでのレベルの極短い時間だった。

 なのに、前野は自分のやったことだと気づいたのかもしれない。


 だが、秋都は少し首をかしげたくなった。

 日記の日付は約3ヶ月前になっているが、彼の記憶では目が合ったのは約2ヶ月ほど前だったからだ。

 とはいえ、ここには3ヶ月前のことだと書かれている。

 彼は自分の記憶に自信が無かった。だから、

「面倒臭いことを知ってしまった・・・」

 そう思った。

 今は前野有紗に対し、やや逆恨みめいた感情すら芽生えていた。


 眉をひそめて次のページを読む。

 そこには今読書中の小説のタイトルと感想が書かれているだけで、特に自分の名前もない。

 秋都は少し安堵して、今度はパラパラと適当にページをめくった。

 と、妙なものがあった。

 気になってページを戻る。

 真ん中あたりのページの余白に、ヘタウマな絵でロックミュージシャンのような長髪の男の顔が描かれていたのだ。


「カート・コバーン?」

 クラスメイトで軽音部員の田辺が好きだと言っていた海外バンドのメンバーを彼は思い出す。

 何となく雰囲気が似ている気がした。


 前野のヘタウマな画力に苦笑し、さらにページをめくる。

 目を走らせて自分の名前を探した。


 ──〇月〇日 『白鯨(上巻)』を買い直した


(何だ、買い直したのか)


 ──〇月〇日 今度は机の中に画鋲が入ってた。誰がやったの? 右手の薬指の指先に小さな怪我をした。許せない。許せない。たぶん、白鯨と同じあの男子・・・・


「えっ・・・?」

 彼は驚きに打たれた。

 それは・・・俺じゃない・・・・・


 胸騒ぎを覚え慌てて次のページをめくる。


 ──〇月〇日 今日は上履きが無かった。2階の廊下のゴミ箱に入ってた。何で?何でこんなことするの?わたし、あいつに恨まれるようなことした?


 困惑した。

 ここで言う〈あいつ〉が俺なら、これは完全な勘違いだ。前野に嫌がらせをしているのは、別の奴だ。

 秋都は頭を掻きむしり、さらにページをめくった。

 もし既に担任に相談されていたら、俺がとばっちりを食らうかもしれない。


 ──〇月〇日 〇〇様のお話では、こうあったのをふと思い出した。

 自分の名前を探して次々にページをめくっていたその手が、ピタッと止まる。

(〇〇様?)

 突然出てきたお坊さんのような奇妙な名前に面食らったが、その名にうっすら聞き覚えがあることに気付いた。

(誰の名前だっけ? 何かのアニメのキャラか・・・?)


 今度はアニメの話かよ。ひょっとしてあいつ、〇〇様推しの夢女か?

 出来ればこのまま話が逸れてくれたら・・・と思いながらその日付の日記の続きを秋都は読む。


 ──新約聖書でイエス様はしゅの愛をお説きになった。けれど旧約聖書で語られる我らがしゅ─ヤハウェ─は『復讐の神』だったという重大な事実を


 反射的に、背筋に生温かな水滴が落ちたような気色の悪い震えが走った。

(何だ・・・・・・前野は何を書いてるんだ?しゅ? 聖書?)

 その瞬間、秋都は俄に思い出した。

 〇〇様。

 それは有名な信仰宗教団体の教祖の名前だった。

 彼の自宅からそう遠くない山中にその宗教団体の施設があり、よく信者が彼の自宅の最寄りの駅の広場で勧誘のチラシ配りをしていた。

 人間の起源は別の惑星にあるなどと訴えているので、彼の地元の子供は陰で〈エイリアン教〉などと呼んでいた。


「うそだろ・・・・・・」


 彼は思わず前野の日記帳を放り出した。

 クラスの誰からも聞いたことは無かったが、彼女はあの宗教団体の信者かもしれない。

 その事に気付いた秋都は急に身震いを起こし、不気味になった。

「えっ?」

 背中に何かを感じ、彼は咄嗟に背後を振り返る。


 だが教室には彼以外誰もいない。

 けど、いま間違いなく、人の気配がしたのだ。

 秋都は恐る恐る、床に落とした日記帳を改めて拾った。

 なぜか、続きを読むのを辞めることが出来なかったからだ。


 ──〇月〇日 しゅよ。わたしは復讐を求めます。わたしに代わり、修行中のイエス様を荒野で幻惑したあの悪魔の如き者に滅びをお与えください。

 は〇〇様の洗礼をお受けになっておりません。なら当然、は人ではありません。容赦はいらないのです


・・・・・・?」

 秋都は絶句した。

 彼とは、ひょっとして俺のことではないのかと。

 また薄暗い教室に、人の気配がし、慌てて周囲を見回したがやはり誰もいない。


 手が、勝手にページをめくった。


 ──〇月〇日 日記を落とす


 秋都の目が凍ったみたいに動きを止めた。

 〇月〇日。それは今日だ。

 つまり、これは・・・・・・


 ──放課後、わたしの日記を伊藤秋都が拾う。しゅよ、礼儀をわきまえぬ下劣な悪魔星人はわたしの秘密に触れました。わたしの秘密に触れました。わたしの秘密に触れました


 秋都は日記帳を開いたまま激しく体を震わせた。

 呼吸が困難になる。ヒュッ、ヒュッと息が引つる。


 おかしい。


 この日記に、僕がこの日記を拾うことが書かれているのはどう考えてもおかしい。

 しかも僕がこの日記を読むことまでここに書かれてある。


 ──〇〇様、もうすぐしゅがあの愚劣な男、伊藤秋都を滅ぼしてくださるとは本当でしょうか?


 ──復讐の神は、静かに罪人の背後に忍び寄るとは本当でしょうか?


 その文を読んだ時、秋都はただならぬ冷気を背に感じ背後を振り返った。


「あ・・・・・・」

 恐怖のあまり声が出なかった。


 そこには、何か・・がいた。


 何か・・は教室の天井に達するほどの背を猫背のように屈め、胴体から巨大なニシキ蛇を思わせる太く長い首がにゅぅーっと伸びている。

 その首長竜のように長い首の先にはやつれた人の顔が付き、こちらをまっすぐ向いていた。

 その頭の波打った黒い癖毛はなぜか産まれたての動物のように濡れ、頬と顎はびっしりと髭で覆われ、眼球があるはずの場所はぼっこり落ちくぼんでいる。目玉が、二個とも無かった。

 その首が伸びる。


 どこか見覚えのある不気味な顔が、彼の目の前にゆっくり迫って来た。


 彼は見てはいけないものを見てしまった恐怖で体が石のようになり、喉からは引きつった呼吸音しか出ない。

(だ・・・誰か・・・・・)

 あまりの恐怖に気が遠くなっていく秋都が最期に見たのは、その両目の無いやつれた男が浮かべる深い慈悲に満ちた微笑ほほえみだった・・・・・・



 濃紺の夕闇に沈んだ教室には、誰もいない。

 しかし前野の日記帳が床に落ちている。日記は秋都が読んでいた時の状態のまま、天井を向いてページを左右に開いている。


 ──〇〇様、昨晩わたしはまたしゅの姿をこの目で見ました。本当です。

 我が家の屋根裏に居られました。そのときしゅがわたくしめにおっしゃることには、13日後の〇月〇日に伊藤秋都を・・・・・・


 その続きはもう読むことが出来なかった。

 真っ黒い影のようなものが徐々じょじょに、日記のページを端から端まで覆い尽くしていく。

 もはや9割の文字がその黒さのせいで判読不可能だった。

 前野の日記は、おびただしい量の赤い水溜まりにひたっている。その水面には髪の毛もいくらか浮いていた。

 すぐに残りの字も伊藤の残した血で赤黒く染まり、完全に読めなくなった。

 教室の窓から見える星もない宵闇の黒い空に一瞬、滴り落ちる水滴のように一筋の光が駆けた。

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