休息

「……飲めるんだよな、これ」

「さあな? 綺麗だから平気なんじゃねえの?」


 静かに流れる川の水に、飛びつこうとした本能をぐっと抑えて思考する。

 

 目の前にある大量の水は、確かに液体には違いない。

 だが飲んでもいいかは別。硫酸のように生き物を溶かすかもしれないし、河豚のように飲んだらイチコロな猛毒を含んでいるかもしれない。


 けれど、それでも。体は既にどうしようもないくらい水を欲してしまっている。

 目の前にあると認識してから、喉の乾きが疼いて仕方ないくらい、本能が体を疼かせてくる。


「……先に俺が飲む。駄目ならその時だ」

「えっ、おい高峯たかみねぇ!?」


 今度は俺が制止を振り切り、ゆらりゆらりと清流の中に近づいていく。

 例え毒でも俺が先なら問題ないとか、とりあえず物でも放り投げて確かめてみようとか。そういった理性は欠片も働いていない。


 ──ただ水を。乾き飢える願望が、周りくどい安全さを放り投げてしまっていた。


 川辺に寄り鼻を近づける。水面には醜い面が写るが、そんなのはどうでもよかった。

 不快な臭いはない。鼻を突く刺激も無い。本能を止める最後の防波堤がないことを確認してすぐ、手は水の中へと吸い込まれていく。


 ちゃぷんと音を立てながら、両手で掬いあげた水に口を当てる。

 舌で転がすことすら忘れ、喉を流れる心地良い感覚に酔いしれながら、ただただ無心で流し込む。

 手の中の水がなくなればもう歯止めは効かない。勢いに任せ顔を川に突っ込み、ごくごくと喉を鳴らしながら体を満たし続けた。


 ──心の底からの幸福。嗚呼、今死んでもいいくらい幸せだ。


「──ぷはっ!!」


 吸盤のように離れようとしなかった顔が、充足感のまま外へと解放される。

 抱える快感に酔いしれながら勢いよく息を吸い、顔を振るわせ水をはじき飛ばす。


「た、高峯たかみね……?」

「……ん、ああ狩屋かりや。多分平気だぜ、遅効性とかじゃないんならよ」


 生きてて良かったと。

 溢れんばかりの開放感に身を任せていると、狩屋かりや淀みながらも心配する声が耳に届いてくる。

 ひとまず問題はないと伝え、背負っていた鞄を下ろし、タオルを取り出して水を拭いていく。


「うっま、うまー!!」

「……はしゃぎすぎだろ」

「っぷはぁ!! うっせー! お前人のこと言えねーだろ!!」


 言葉を返しては水を飲むサイクルを器用に熟す狩屋かりや

 せからしいやつだと、自分を棚に上げながら一息つき、の空のペットボトルに川の水を汲んでいく。

 

 ぶくぶくと泡を立てながら、十秒もすれば容器の中は液体で満たされる。

 濁りのない美しく冷たい水。その透明さに不思議と笑みを零しながら、ペットボトルを首に当て、体を冷やす。

 あぁ冷たい。ここで気を抜いていいわけじゃねえが、とりあえずは少し休憩だなぁ。


 なるべく直射日光を浴びないよう、木陰に座りペットボトルを首に当てて冷やしていく。

 蒸し暑い地獄のような空気の中、この暴力的な気持ちよさは癖になってしまいそうだ。


「いんやーすっきりぃ! やっぱ水ってのは冷たくていいねぇ!!」


 ニュアンスだけ分かる適当なことを口走りながら、こちらに駆け寄り近場に腰を下ろした狩屋かりや

 まあ言いたいことは分かる。迷路のときと違って、この迷宮ダンジョンで初めてまともな休憩を取れた気がするからな。


「……疲れたなぁ。今襲われたら死ぬなぁ」

「あぁー、そうだなぁ……」


 ぐてんと項垂れる俺と狩屋かりや。揃いも揃って、なんという力の抜けようだろうか。

 けどそれだけ疲労がたまっていたことには変わりない。出来るなら足を伸ばして寝転んで、このまま夢の世界に飛び込んでしまいたいくらいだ。

 

 けど、流石にそれは許されないこと。流石にそこまでの安全がここにはないからな。

 

「……ん? おい高峯たかみね。あれ何だぁ……?」

「……ああ?」


 もう少し、あと少しとだらけていると、突然狩屋かりやがどこかを指差しながら怪訝な子を上げてきた。

 面倒だと思いながらも剣の柄に手を掛けながら、ゆっくりと視線を動かしてみる。


 川を挟んで反対側。ここから少し離れた位置にある枯れかけた倒木に、不自然な何かが立て掛けられているのが見えた。

 少し遠いからはっきり見えないが色は白っぽい。……何だあれ、苔ではなさそうだな。


 だらけた体に力を入れて立ち上がり、跳躍して川を飛び越え側まで歩いていく。

 近づくにつれ輪郭は定まり、自ずと正体にも見当は付いてくる。

 白というには所々にくすんでおり、触れれば今にも砕けそうにひび割れている集合体。


 ──骨。もっと言ってしまえば人骨、人間の成れの果てがそこにはあった。


「……うわっ」

「何だ何だ……ってうわ、やっぱ骨かよぉ……」


 後から続いてきた狩屋かりやは大げさに、俺は言葉を漏らさず目を細めてしまう。

 

 理科室の人体模型は見たことあれど、本物の骨を見たのは初めてだ。

 近すぎる死の具現。形作る肉が既に無かったのは、俺たちにとっては幸運だろう。

 いずれにしても、直視を続ければおまえもいずれこうなると、言われてもいないのに脅されているような気になってしまいそうだ。


 ……それでも興味を無くすことが出来ないのが人の──俺という人間の業ではあるのだが。


「……結構古いな。死んでからだいぶ経つんじゃないか?」


 ゆっくりと手を伸ばし、腫れ物を扱うかのように恐る恐る調べていく。

 断定は出来ないが、背丈は俺等と同じ普通の人間くらいか。……立たせればわかるのだろうが、少しでも強く触れば砕けてしまいそうだし辞めておこう。


 ともかくわかるのは、この死体が白骨化したのは随分と昔だということだけだ。

 詳しい人なら性別とかどこの国の人だとかわかるのかもしれないが、生憎と俺は今日初めて見たくらいの素人だしな。


「……ん? なんだこれ?」


 一通り調べ終わり、これ以上は何も出ないだろうと思ったとき、それは目に入った。

 骨と木の両方に挟まれた板のような物。明らかな人工物、この人の持ち物かと思って拾い上げる。


 プラスチックみたいな材質で作られた板。

 片面は白ではあったのだろうと思えるくらいには汚れており、裏返せば一枚の写真と共に数行の文字が刻まれている。古い物には間違いないだろうが、どっかから生えてきた天然物だとは思えない。


「……なんだそれ?」

「さあ? ……ってこれ、もしかして日国語ひくにご?」


 狩屋かりやに軽く返事をしながら、じっくりと文章に目を通してみる。

 幸いなことに言語は自国の物。所々掠れているが、読み取ることは充分出来る程度だ。


「……だいぶ古いが冒険者証かな。名前は……芦木文也あしきふみや……で合ってんのか?」


 目を細くし、書いてある情報を一つずつ紐解いていく。

 名前の上には中級冒険者と記されており、発光年数は千九百七十年とされている。現在は二千二十年だから、この遺体も約五十年前のものだと考察できる。

 

 ……五十年の前の冒険者か。中級ってことはその時代で上澄みだろうし、どこかに記録が残ってたりするのかもな。


芦木文也あしきふみや? それって行方不明の冒険者、“鮫斬り”のことだっけか?」

「……知ってるのか?」

「ああ。中学の頃、受験勉強にダレて資料集で遊んでたんだが、確かそのときに載ってた名前だぜ」


 ……鮫斬り。確かたまにテレビで特集を組まれてた冒険者が、そんな通り名だった気がする。

 

 あるとき謎の失踪を遂げた、討伐した大鮫の歯を刃にしていたらしい腕利きの冒険者。

 受験勉強では出てこなかった名前だから忘れていた。理由はあれだが、今は狩屋かりやが覚えていてくれたことに感謝しておこう。


「……冒険者か。ってことは、やっぱりここは迷宮ダンジョンなんだな」

「その上中級が力尽きるくらいの場所ってこった。ハハハッ、知りたくなかったなぁ……」


 言うまいと割けていた現実を、狩屋かりやは乾いた笑いを絞り出しながら告げてくる。

 迷宮ダンジョンへの出入りが厳重になった原因、迷宮保護法が制定されたのは千九百五十年──約八十年前だ。

 つまりこの人が迷宮ダンジョンに入ったのはそれより後──戦争が終わり、一般人が夢を見る場所でなくなってからの話だということになる。


 だからこの人がいることこそ、ここが迷宮ダンジョンである何よりの証拠。死ぬほど認めたくはないが、それが唯一絶対の現実だ。


 ……他に落ちてるものはない。何か一つでも使えるものがあればと思ったが、流石にそう上手くはいかないらしい。

 生憎埋めてやる余裕もない。だからここを出れたときに死亡だけでも報告できるよう、彼の冒険者証は懐に仕舞っておく。


 入れ替えるように懐にある方位磁石コンパスを取り出し、再度進路を確認し直す。

 大体左斜め……つまり北西に進めばいいわけか。ちょっと逸れたが、まあ補給も済んだし問題ないだろう。


「おいかり──」

「──危ねえ!!」


 進む方向を狩屋かりやに言おうとした瞬間、突如として俺は突き飛ばされ、尻餅をつかされる。

 いきなりすぎる出来事に驚きながらもすぐに立ち上がり、何が起きたのかと狩屋かりやに目を向け──ただ驚愕する。


「──なっ、狩屋かりや!?」

「……へへっ、やべえ。しくったぜ……」


 俺のいた位置に立つ狩屋かりやは、右肩を押さえながら力なく呻くのみ。

 狩屋かりやの服に開いた指くらいの穴。……もっと正確に言えば、後ろの景色を僅かに覗かせながら、その穴から血を滴らせている。


 ──狩屋かりやの肩は何かに貫かれていた。俺は狩屋かりやに救われたのか。


「大丈夫か!? 今ポーションを──」

「……いや待て。進むのはどっちだ、……来ちまう」

「……左斜めだけど、何言って──」


 動転してしまった俺は、変なことを言い出す狩屋かりやが言うことを無視して回復促進剤ポーションを取り出そうとした。

 

 ──その時だった。俺ですら感じれるほど、無数の気配を感じてしまったのは。


「……ちっ、遅かっ、ぐっ!!」

狩屋かりや!! ……くそっ!!」


 狩屋の背に付きながら、俺はすぐに剣を抜こうとした。

 だが気付いてしまう。状況は既に手遅れ、俺たちはもうとっくの昔に囲まれてしまっていたのだと。


 四方八方から姿を露わにしたのは、無数の針を背負ったアルマジロのような四足の獣。

 赤に埋め尽くされた眼球は俺たち二人にはっきり向いている。恐らく、針を飛ばし狩屋かりやの肩を貫いたのもこいつらだ。


 それだけじゃない。何故か獣だけじゃなく、明らかに人型らしき生き物まで混じっている。

 獣の後ろにぼんやりと見える影は数体。大きさは推定だが、今まで見たことないくらい大きいことだけは確かだ。


 ──戦うのは不可能。一体ならともかく、この数の怪物達を相手に出来るわけがない。

 

「──走れるか?」

「……心配ねえ。まだあんま痛くねえし、魔力でごまかしゃあどうにかなる」

「……そうか、ならやるぞ。合図で同時に、進むのは左斜め前だ」


 言葉が伝わるとは思えないが、念のためだと狩屋かりやに聞こえるくらいの小声で話す。

 

 狩屋かりやは少し辛そうだが、それでも走れると言ってくれた。

 痛みは少ないと言っているが、負傷の痛みが必ず追いついてくるのはよく知っている。

 

 いつ迫ってくるか分からず、背中の針を飛ばして殺しに来るか定かではない。

 ならば打てる手は逃走一択。上の迷路と同じよう針の方向に、一縷の望みを掛けて駆け出すことだけだ。


 ──覚悟を決めろ。決断を遅らせれば、俺も狩屋かりやもすぐにお陀仏だ。


「……覚悟はいいな?」

「……おう」

「……よし。──行くぞっ!!」


 パチンと手を叩いたのが合図。俺たちは全力で地を踏みきり、同じ方向に走り出す。

 怪物達が動いたのもそれと同時。吠えることもなく体を丸め、俺たちを串刺しにすべく自らを砲弾にして突っ込んできた。

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