第10話 夏が終わる時に
今年のお盆に間に合うようにと毎日お寺へ通い、小坊主たちに教わりながら漢字だけの経を立派に書き上げた少年は、長慶寺から滝壺へ走って来ました。
「河童さーん。河童さーん。出て来てよ。占太だよ。見て欲しい物があるんだ。」
少年は、滝壺に向かって大きな声で言いました。
「どうした? 占太。大きな声でこんな真昼間に俺を呼ぶなんて、珍しいじゃないか。」
河童が水の中から顔を出しました。
「うん。実はね、ほら見て。僕、写経っていうのをしたんだよ。最初はね、河童さんにもらった‘ひらがな’ばかりのお経の紙を見て書いたんだ。それでね、それが書けるようになったら小坊主さんがくれた漢字のお経に移ったんだ。今度はそれを見て小坊主さんたちと同じように写経をしたんだよ。お寺で毎日練習したんだ。そしたらね、書けたんだよ。ほら見て。」
少年は、自分が書き上げた写経の紙を河童の目の前に広げました。
「ほう。それはすごいな。うん。上手に書けているじゃないか。すごいぞ、占太。」
「うん。これをね、じいちゃんの仏壇に供えて見てもらうんだ。」
「はぁー。それはいい供養だ。きっと祖父さんも盆に帰って来て喜ぶぞ。偉いな占太。」
河童は、少年の顔を両手でくしゃくしゃに撫でながら言いました。少年はくすぐったそうな顔で、笑っています。
「さぁ。早く家に帰って、祖父さんに供えてやりな。」
「うん。河童さん、見てくれてありがとう。それじゃぁ、またね。」
少年は河童に手を振ると、走って帰って行きました。河童も手を振りながら、少年が見えなくなるまで笑顔で見送りました。
そんな河童と少年の会話を、ちょうど滝壺に来た和尚が木陰からそっと見ていました。少年が去ったのを見届けて、河童に歩み寄ると静かに言いました。
「慈聡よ、ありがとうな。お前の導きであの少年は、悲しみを慈しみに変えられた。きっとこの夏は、あの少年にとって大切な夏になるだろう。ありがとうな。」
「和尚様、見ていらしたのですか?」
「あぁ、全部見ていたよ。お前は今でも優しい僧侶のままだ。寺に居た頃と少しも変わらぬ。寺からお前の姿が消えたことが惜しい。私は惜しくてたまらないよ。」
「和尚様、申し訳ございません。私が勝手をしたばかりに・・・ こんな姿になってしまいました。和尚様を悲しませてしまいました。」
河童は、グッと涙をこらえています。
「いや、今となっては仕方のないこと。それでも河童となったお前は、あの少年にとっては善き導き手の僧侶だ。これでよい。これで善いのだ。
もう明日からはお盆だ。桃を持って来たんだ、一緒に食べよう。」
和尚は、笑顔で桃を一つ河童に手渡しました。それから二人は、滝壺のふちに座り笑顔で桃を食べました。やっぱり桃は、和尚と慈聡にとって幸せの味がします。昔と変わらぬ父子の幸せの味が、二人の体中に染み渡りました。
朝夕の風が少し涼しくなり、村に秋の気配が漂い始めました。子どもたちの夏休みも終わりに近づいています。
占太は無事に漢字だけの写経を仕上げ、お盆の仏壇に供えることが出来ました。そして、畑で採れたなすやきゅうりで牛馬を作り庭先で樺を焚き、お墓にもお参りをする。お盆のいつもの習いも今年はじいちゃんの事を思ったからなのか、占太は身近に感じました。
そうしてお盆が終わりじいちゃんもきっとまた、蓮の花に帰っただろうと占太はほっとしています。ですが、気付けば夏休みはもう残りわずかです。占太は、慌てて宿題に取り掛かりました。毎日写経をしにお寺に通っていたので、あまり宿題をしていなかったのです。宿題に追われていても、こっそり滝壺に行く事は止めませんでした。
この頃の滝壺は、朝夕に吹く風が一層涼しさを増し心地好く神聖な気が広がっています。そんな滝壺で河童が気持ちよく寝転んでいると、カエルがやって来て言いました。
「お前は、本当に優しいやつなんだな。お前を疑った子どもを助けてやるなんて。」
「そうか? 誰だって、目の前で人が溺れていれば助けようとするだろう? それに、俺は河童だ。人間じゃない。水の中は得意だ。あの場であの子どもを助けられたのは、俺だけだったからな。」
河童は静かに笑いました。
「また、そんな憎まれ口を利いて。素直じゃないな。村じゃ噂になっているぞ。滝壺の河童が子どもを助けたって。それに長慶寺の和尚まで礼を言いに来てたじゃないか。」
カエルは、寝転ぶ河童の腹の上に乗り顔を覗き込んでいます。
「最近はちょこちょこと、滝壺のふちに野菜が置かれているよ。あの時の礼のつもりなんだろうな。」
「そうだな。それにお前は、一緒にいた男の子たちを滝壺に引っ張り込みもしなかった。滝壺の河童は、噂と違うようだと村の人たちが言い始めているぞ。」
カエルは、グッと河童の顔に近づいて言いました。
「はははっ。人間というのは、どうにも都合よく世の中を見る生き物だな。」
河童は声を上げて笑っています。カエルは少し悲しい顔になりました。
「あぁ、そうだな。そんな生き物かもしれんな。でもお前は、そんな人間の子どもを助けてやった。もっといいやつじゃないか。いい加減に認めたらどうだ?」
カエルに言われて、河童は笑うのを止めました。そして、少し悲し気な顔になって話し始めました。
「俺は、三年前まで僧侶だったんだ。小学校の近くに長慶寺ってあるだろう? あの寺に勤める僧侶だった。朝夕に経を上げ仏様のお世話をして、村人が亡くなれば弔いをする。寺の庭を掃き、書や経を読み書きする。そうやって過ごしていたんだ。そんな勤めをしていながら、俺は恋をしてしまった。
時々、寺に野菜を届けてくれる村の娘に恋を。その娘が来ると〈いつもありがとうございます〉と礼を言って、野菜を受け取り微笑み合う。ただそれだけの事が、とても嬉しかった。それだけで心が明るくなったんだよ。とても幸せな気持ちになったんだ。
だけどその娘がある日、水神様にお参りに行って足をすべらせ滝壺に落ちたらしいと聞いたんだ。一日経っても浮かんでこないって話しだった。俺は、それから毎日この滝壺に通って潜り娘を探したよ。でも、見つからなかった。だから仕方なく経を上げて祈るしかなかった。そうしているうちに、この滝壺から離れられなくなっちまった。
それである日気づいたら、こんな河童の姿になっていたんだ。こんな姿じゃ寺に戻る訳にもいかず、あの娘恋しさにずっとこの滝壺に棲んでいるって訳さ。
あの少年が・・・ 占太が寺の蓮池を見に行った時、和尚様に俺が書いた経の紙を見せたらしいんだ。その経の文字を見た和尚様は、気付いちまった。河童は慈聡だって。寺にいた慈聡だって。
でも寺の皆はもう、俺は死んだと思っている。少なくとも、寺に戻って来る事はないと思っているだろう。今更、慈聡は、滝壺の河童になっていたと話したところで誰も信じないさ。
俺はもう、今はただの河童さ。村の人たちが怖がる滝壺に棲む河童でしかないんだ。」
河童は言い終わると身を起こし、何かを想い出したようにまた話を続けました。
「だけど不思議だな。経だけは、いつまで経っても忘れない。あの娘恋しさに毎日唱えているからかな。どうかせめて、安らかに眠ってくれと願って唱えてしまうんだ。極楽の蓮池の花の中で眠っていてくれと・・・
祖父さんを想う占太と同じだな。だから経だけは、忘れることがない。毎日朝夕、寺にいた頃のお勤めのように唱えてしまう。村の人たちが滝壺から経が聞こえると恐れても、毎日朝夕に唱えてしまうんだ。」
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