第8話 夏休みの朝、長慶寺で
和尚は、震える声で少年に聞きました。
「君は・・・ 君は、このお経の紙を河童からもらったのかい?」
「うん。そうだよ。大人は滝壺に行っちゃいけないって言うけど、毎日滝壺から朝夕にお経が聞こえてくるって噂だったから、僕は行ってみたんだ。学校で和尚様の話を聞いてからお経を唱えられるようになりたくて、滝壺で聞こえてくるお経を真似しようと思ったんだ。
そしたら河童さんが現れて、なんでお経を真似してるのかって聞くから、じいちゃんの事を話したんだ。それでこれを書いてくれたんだよ。それからは、一緒にお経を唱えてくれるようになったんだ。
そうだ! その河童ったら、首から大きな数珠を下げてたよ。面白いよね。河童なのにお坊さんみたいにさ。それにとっても優しいんだ。滝壺に落ちた僕の友達も助けてくれたんだよ。」
少年は、目を輝かせて嬉しそうに話しました。少年の話を聞いた和尚は、涙をこぼしています。
「そうか・・・ そうだったのか・・・ 滝壺の河童は、村の噂とは大違いだなぁ。とても慈悲深い河童なんだね。今でも首から数珠を・・・ 肌身離さず下げておるのか・・・ 滝壺の河童のことを教えてくれてありがとう。感謝するよ。」
和尚は手を合わせ少年に感謝をすると、頬を流れる涙を幾度も拭っています。
「和尚様、どうしたの? 僕、何か悲しませるようなことを言ってしまった?」
目の前で涙を拭う和尚が、占太は心配になり胸がキュッとなりました。
「いや、違うよ。いいんだ。大丈夫だよ。さぁ、しっかり見て行っておくれ。これが蓮の花だ。こうして両手を合わせたような形をしているだろう。
きっと君のお祖父さんも、極楽の蓮池でこの花に包まれて眠っている。」
和尚は、涙の滲んだ声で優しく言いました。少年は、和尚の手を真似て自分でも手で蓮の花を作ってみます。
自分の手で作った蓮の花に満足し、
「うん。本当だ。お椀みたいだ。そうだよね。じいちゃんはきっと、極楽の蓮の花の中に居るよね。」
と、嬉しそうに蓮池の花を見つめています。和尚も止まらない涙を拭いながら、少年と一緒に蓮池を見つめています。
〈そうか・・・ 滝壺の河童は、首から大きな数珠を下げ経を唱えているのか・・・〉
朝日が少し高くなり蓮池全体が光りに照らされると、より一層鮮やかに葉も花も浮かび上がりました。
「すごいねぇ、和尚様。お日様にキラキラしているよ。これが極楽なの? 極楽ってこんな処なの?」
「あぁ。きっとそうだ。君のお祖父さんもそこにいる。安心しなさい。」
美しいこの世の極楽のような光景を見た少年は、満面の笑みで和尚に礼をすると、少し戸惑いながら話し始めました。
「和尚様、僕、お願いがあるんだ・・・」
「どうした? 何か困り事かい? 今日から夏休みであろう?」
和尚の言う通り、学校は今日から夏休みに入ります。
少年はこの夏休みの間に、いや大好きなじいちゃんが初めて家に帰って来る盆の前に、河童がくれた経を見ながら自分でも書いてみようと決めていたのです。そして、じいちゃんの仏壇に供えてもらおう。そう思っていたのです。
「実は僕、河童さんが書いてくれた紙を見ながら自分でもお経を書いてみたいんだ。それでね、じいちゃんが帰って来るお盆に仏壇に供えて、じいちゃんに見てもらいたいんだ。」
「ほう。それは立派な供養じゃな。お祖父さんも、さぞ喜ぶことだろうに。」
「それでね。お寺の本堂で書かせてもらえないかなぁ? 一人じゃ出来そうにないし、家だとばあちゃんや母ちゃんに何か言われそうだし・・・」
「よし、よし。分かった。写経と言ってな、小坊主たちがお経を写す部屋があるから、そこで一緒に書きなさい。毎日、お昼前までは誰かしら寺の者がそこにおる。いつでも来なさい。私から小坊主たちに話しておこう。分からない所は彼らに教えてもらうといい。」
和尚は、少年の頭を撫で目を細めながら優しく言いました。
「ありがとうございます。和尚様。じゃぁ、僕は一度家に帰って、朝ご飯を食べたらまた来ます。」
少年は笑顔で帰って行きました。
それから太陽は高く昇り暑さがじりじりとし出した頃、少年は再びやって来ました。そして小坊主たちに交じって席に座り、黙々と写経を始めました。河童が書いてくれた‘ひらがな’ばかりの経の他に、漢字ばかりが並んだ経の紙を小坊主がくれました。小坊主たちは皆、この漢字ばかりの経を写しています。
少年はまず、河童がくれたひらがなの経を慣れない筆を持って写し始めました。一枚書き上げるのに時間がたくさんかかりました。その間ずっと緊張し集中していたので、最後の一文字が終わると、ぷふぁーと大きく息を吐いてしまいました。
すると小坊主たちがくすくすと笑っている声が聞こえてきました。
「息を楽にして集中するんだ。文字に合わせて呼吸をしてごらん。」
隣の席の小坊主が教えてくれました。少年は顔を赤くしながら頷きます。
「みんな君の事が可笑しくて笑ったんじゃないよ。みんな君の気持ちが分かるからさ。私たちも最初は、息が止まるくらい緊張して写していたんだよ。一枚書き上げた時には、今の君みたいに息を吐いていたものさ。」
別の小坊主が、少し離れた席から話してくれました。
これを聞いて周りの小坊主たちも皆、少年の方を向いて頷いています。少年は少しほっとしました。
それから昼まで、小坊主たちと一緒に写経をしました。何枚か書いているうちに次第に呼吸が出来るようになり、少年の写経はひらがなだけから漢字だけの物に移っていました。
少年はお盆までの間毎日、寺に通い写経を続けました。
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