道場師範代の座

 永沼中老の使者は、あの真吾であった。総一朗は、見るたびに真吾の顔が大人びてきていることに、驚いてもいて、同時にひとの成長の確かさというものを実感していた。それは歓びでもあった。

 最初に真吾と会ったときは、れいの小此木善右衛門を説き伏せる使命を帯びたときで(『居座り善右衛門』参照)、それから何度か真吾は永沼の使い番として総一朗のもとを往復していた。

「谷沢甚右衛門じんえもん……様という御仁ごじんを、御存知でしょうか……?」

 開口一番、真吾が切り出した。

「谷沢……?」

「はい。いまは江戸詰えどづめですが、お若い頃、この国元で、田原様となにやらひと悶着あられたようなのですが……?」

「ふうむ、覚えがないなあ」

 あっさりと総一朗は答えた。

 おそらくは論争で打ち負かしてきた相手の一人なのであろう。そうと察しても、総一朗には顔も名も思い出せなかった。

「では……山﨑やまさき茂平次もへいじと申される方は……?」

「あ、あの、譲りの茂平次……!」

「御存知でしたか?」

「通りですれ違ったことぐらいはあったかもしれぬが、話したことは一度もない。そのだけは、聴き及んでいたが……」

「さようでございますか……ならば、事はいささか……」

「ん? どうした」

「はぁ……」と、いやに大人びた吐息を洩らしてから、剣道場の師範代の座を賭けた試合が催されることになったらしい……と、真吾が告げた。

 それは総一朗には初耳で、おそらく腰の重い永沼中老が、本格的に藩営道場の再開と拡張を決断したのだろう……と、合点がいった。

「事は……田原様にも関わることなのでございます」

 真吾が続ける。

 そわそわしているのは、総一朗の身を案じているのであろう。その気配を察しても、一体なんのことか総一朗にはとんと心当たりはない。


「中﨑様という……あ、その、譲りの茂平次さまなのですが、田原様との真剣試合を正式に藩に願い出たのです……」

「お……? このおれと……? 譲りの茂平次が?」

「はい、今朝の執政会議で、五名のご中老が許可されたそうです」

「は………? 道場の師範代になど、なんの興味もないのだが……」

「そのことについては、わたしにも責任の一端がございます……小此木様と田原様の真剣勝負を見ていたわたしが、叔父上に田原様の剣のえを告げてしまい……」


 真吾の叔父は、中老の一人、永沼である。ももより、総一朗と善右衛門との真剣試合は、正式の試合といったものではなく、その場の成り行きで総一朗が相手させられてしまったようなものなのだが、臨席していた真吾には、さぞ剣の達人同士の勝負のように映ったとしても致し方なきことではある。

「……あれはが、手加減してくれただけのこと。本気で立ち合えば、おれなんか善さんの足元にも及ばない……」

 そう総一朗は返したが、真吾は真吾で、そうは見ていない。善右衛門の驚愕感嘆の吐息を確かに聴いたからである。

 手短に真吾は、“譲りの茂平次”が誰かに煽られていると、叔父の永沼中老はみている、と告げた。かつて、一羽いっぱ流道場の仲間が茂平次になにごとか入れ知恵したのであろうと、永沼中老は推測しているようであった。


「……ですから、田原様が直々じきじきに中﨑茂平次様にお目にかかって、内々ないないに探ってみてはどうか……と叔父からの伝言でございます」

「おれに、譲りの茂平次に会いに行けと……?」

「はい」

と、真吾は即答した。胸のなかでは、米寿侍べいじゅざむらいと譲りの茂平次の対決の場を想像して、真吾は目を輝かせた。その表情の変化に、総一朗は不思議そうに顎に手をやって、

「ふうむ」

と、うなった。 

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