【譲りの茂平次】米寿侍・田原総一朗series(2)

嵯峨嶋 掌

因縁と企略

おうよ、あいつに頼めば、すぐに勝ちを譲ってくれるさ。多少、渡す金子きんすにな、ほれ、いろをつけてやればいいのさ」


 江戸表えどおもてから帰参したばかりの谷沢に、そう講釈しているのは丸目吉之助で、二人は山﨑やまさき茂平次もへいじのことを引き合いに出している。

 谷沢、丸目、山﨑は、かつて神坂こうさか若手三羽烏さんばがらすとまでうたわれた剣客けんかくであった。

 ……往時、幕領ばくりょうとの国境くにざかいに、すでに今はないが一羽いっぱ流道場があって、三人はそこで剣を学んだ。塚原卜伝ぼくでんが創始した鹿島かしま神當しんとう流を学んだ師岡もろおか一羽斎いっぱさいの流れをむ。かれら三羽烏の〈羽〉は、流派の祖、一羽斎の〈羽〉を特に献じたものである。

 谷沢が一つ上だが、剣の同門のよしみで、三十もなかばに達した今でも、ときおり酒食の会合を持っている。江戸めの谷沢が、ちょうど江戸家老が国元くにもとひそかに遣わした使者の一人に選ばれたため、早々に酒席を手配したのは、なにごとにも万端ばんたんそつのない対応で知られている勘定吟味かんじょうぎんみかたの丸目であった。

 茂平次もへいじの席はいている。

 伝えておいた待ち合わせの刻限になっても、茂平次は現れる気配もなかったもので、谷沢と丸目はまずは二人だけで旧交を温めていたのだ。


「あいつは・・・・まだ、ひとだったかの」


 谷沢がいた。

 ややもすればわざとらしくもとれる湿った語調のなかに、茂平次に対するさげすみにも似た笑いがかくされている……。

 いつものことである。

 丸目吉之助にしても、あの茂平次に対して周りから寄せられる侮蔑の視線をかばい立てすることはできない。なんとなれば、この〈山﨑茂平次〉の奇行というものは、なにも今にはじまったことではなく、藩内でつとに知られていた事実であったからだ。


 ・・・・まず、八歳の頃。

 神坂こうさかはんの重臣たち一同の前で、幼年組小太刀こだち試合があった。そのとき、なんと茂平次は、勝ちを相手に譲ったのである。

 その理由は、いたって素朴であった。

 京菓子を貰い受ける約定のためであったらしい。貧しかった茂平次は、見るからにみやび美味うまそうな、紅葉と鹿の絵が描かれた餅菓子をなんとしても口に入れたかったのである。

 ・・・・これを皮切りに、金子や物品と交換で、剣の試合の勝ちを譲る回数が増えていった。さらには、十五、六になって山﨑家に持ち込まれた良縁を、大枚の金子や名刀、由緒ある掛け軸などと交換で、いわば嫁候補者を、その女人を切望する別の相手に譲り渡した。何気ない顔をして“右から左へ橋渡しをした”のである。

 事実、二十歳のとき、江戸家老の縁者との縁談も、この谷沢に譲った。

 交換したのは、谷沢家伝来のかぶと一具いちぐと短刀一振ひとふり。この縁談のおかけで谷沢は江戸詰め、書院番士としての出世の糸口をつかんだ。


 いま、とうの谷沢が、

『茂平次はまだ独り身か?』

たずねたのは、そういう過去の経緯いきさつがあったからで、そもそも、茂平次もへいじがなぜにそうやって勝ちや利というものを、わざわざ第三者に譲り続けてきたのか、たれにもその理由はわからない。


 けれど、人は口をそろえ、

ゆずりの茂平次もへいじ

と、なかばの侮蔑と半ばの驚愕の念を含みつつ、公然と呼び習わしてきたのである……。


「ところで、聴いたぞ。あのが、菊御前……いや、菊絵さまを娶るとか」


 丸目が言った。

 無意識なのであろうが、口が淫靡いんびにゆがんだのを、谷沢は見逃さなかった。江戸暮らしが長い谷沢は、菊絵の再嫁さいかは、むしろご正室さまには好意的どころか、歓迎された。

(これで永沼中老は、ご正室さまに恩を売ったかたになった……実にうまくやった)

と、江戸ではそんな定評が定着していた。国元に側室が多いほど、江戸屋敷にいるご正室とその一族一派は、のちのち後嗣こうし問題に直面することになる。幸いご正室は一男二女を産んだが、その嫡子が無事に成人を迎えられる保証はどこにもない。国元では、三人の側室がいた。一人は一女をもうけ、一人には一男が産まれたばかりである。

 その上、この先、菊御前が懐妊する可能性も否定できず、江戸のご正室周辺では国元のそういった情況に常に神経をとがらせている。そのことは、谷沢甚右衛門にはよくわかる。そこに降っていた菊御前の暇払いとまばらいは、ご正室一派にはこの先の懸念が一つ消えたことになるだけに、自らそれを願い出た永沼中老への評価もまた変わった。これまでは江戸がたにとって“宿敵”に近い存在であった永沼中老は、中立もしくは、自派に取り組む絶好の機会でもあったのだ。

 実は、谷沢甚右衛門じんえもんは、ご正室から永沼中老への使者も兼ねていた。いま谷沢が最も懸念していたのは、〈譲りの茂兵次〉のことではなく、米寿べいじゅざむらい、田原総一朗のことであった。

 なぜなら、永沼中老を説き伏せたのは、米寿侍のようだと、江戸にも伝わってきていたからである。

(おのれ、田原よ……いまにみているがいい。七年前、論争で俺を負かしたおまえは、生涯の敵ぞ……)

 谷沢はなかばいさんで国元へ戻ってきたのである。

「おい、どうした? こちらの話を聴いているか?」

 なにやら物思いにふけっている谷沢に、丸目が小言こごとをいった。

「お、すまんすまん、やつのことをかんがえていた……」

「山﨑ならまもなく来よう」

「いや、茂平次のことではない……米寿侍のことだ」

「ん……? 米寿……? ああ、田原総一朗か。ははぁん、おぬしはまだ、奴に意趣いしゅいだいておるのか……ならば、いっそのこと、山崎をきつければよかろうよ」

「茂平次を……? 焚きつける……?」

「おおよ、仄聞そくぶんするところでは、善右衛門が、正式に剣術指南役になるやもしれん」

「それはおれも聴いた」

「だからだ、山崎にな、藩道場の師範代にしてやる……と持ちかけてはどうだ? それと引き換えに、田原と試合させるのだ」


 丸目はにやりと笑った。下品な笑みである。ふと、谷沢甚右衛門は、

(どうやら、この男も米寿侍を憎んでいるようだ……なるほど国元の丸目と茂平次の二人を利用する手があったか……)

と、おもわぬ展開に肌が寒気立つほど昂奮こうふんを覚えた。

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