第32話





 ミカエルが戻ってくるタイムリミットまで後10日を切った。


 カイはこれ以上引き延ばせないと覚悟を決めて、夜に父親の部屋を訪れていた。


 震える手で軽くノックする。


「だれだ?」


「ウェインです。父上。入っても構いませんか?」


「ウェイン?」


 驚いた声が名を呼んで待っているとすぐに扉が開いた。


「そなたの方から訪ねてくるなんて初めてではないか? さあ。入りなさい」


 満面の笑みを浮かべたスタインが部屋の中へと通してくれる。


 考えてみれば父の部屋にくるのは初めてだ。


 上品そうな内装の部屋を見てカイは緊張しつつ、父に勧められるまま長椅子に腰掛ける。


「なにか飲むか?」


「いえ」


「ふむ」


 スタインは一言だけ呟くと両手を長椅子について緊張しているカイの隣に座った。


 片手を持ち上げて軽く握ってくる。


 カイはきょとんと父を見た。


「身体がガチガチに強張っているな。なにをそんなに緊張している? もっとリラックスしなさい」


「緊張せざるを得ないというか」


「ウェイン?」


 怪訝そうなスタインにカイはまず謝った。


「最初に謝ります。ごめんなさい、父上」


「どうしたのだ? 本当に」


「今はある人に頼んで封じてもらっているので見えませんが。ここに」


 そう言ってカイは右の項に手を添える。


 スタインはじっと見ている。


 息子がなにを説明するのかを。


「悪魔王サタンの紋章の刻印があります」


「サタンの紋章の刻印?」


「父上はご存じないかもしれませんが、悪魔王が生涯の伴侶と望んだ相手にだけ刻むと言われている所有の刻印です」


「なんだと?」


 さすがに怒った顔になった父にカイは肩身が狭くて俯く。


「最初に父上の子だとハッキリしたときに、大天使ミカエルに指摘されたように、実はずっとサタンに狙われていました」


「何故黙っていた?」


「父上に心配を掛けたくありませんでしたし、その頃はミカエルや護衛の天使セラフィムがなんとかしてくれていましたから、わたし自身が楽観していたというのもあります」


「ふう」


 思わずため息などついてしまうスタインだった。


「ですが天使であるミカエルに言わせれば、サタンを相手に拒絶できる人間というのは、かなり貴重なようです。騎士王であろうとなかろうと、普通の人間ならサタンに誘惑されればひとたまりもないと」


「だろうな」


 そういう情報ならさすがにスタインも知っている。


 そしてサタンは気まぐれとはいえ、そういう相手を求めなかったことも。


「わたしがあまりにも簡単に拒絶して、しかもミカエルたちの助力があるとはいえ、度重なる誘惑から逃げていたせいか、サタンを本気にしてしまったみたいで」


「それで?」


「気が付いたときには刻印は刻まれた後でした」


「対処方法はあるのか?」


 問いかけにカイは躊躇うような眼をしてかぶりを振った。


 スタインの顔色が変わる。


「普通なら対処法はありません。サタンの刻印を無効にできるのは神だけだそうです」


「普通なら対処法はない? つまり普通ならない対処法をそなたは得ている?」


 言いたいことを読まれてカイは頷いた。


「わたしもよく理解していないのですが、サタンとミカエルというのは、本来、同格の存在なのだそうです」


「そうなのか? 普通神と同格なのでは?」


「神と同格の存在というのは事実上存在しないそうです。それでもサタンが特別視されているのはサタンが悪魔王だからで、本来サタンは大天使と同格の存在なのだとか」


「大天使と悪魔王が同格の存在? つまりそなたの得ている対処法とは大天使から授かったもの?」


 ここからの説明が大事だとカイはすこし身を強張らせる。


「ミカエルがサタンと同じ行動に出て、尚且つわたしがミカエルを選んだ場合にかぎり、わたしはサタンの刻印から解放される。そう聞いています」


「すこし待ってほしい。それはなにか? 大天使がそなたに対して伴侶として名乗りをあげたと、そう思っていてよいのか?」


 理解に苦しみまくったスタインにカイは苦い笑み。


「左の項にも刻印があるでしょう?」


「ああ。そなたは見られないように隠しているから、どんな刻印かは知らぬが」


 カイは刻まれた刻印を隠していたので、どんな刻印が刻まれているか、ハッキリ知っている者は少ない。


 スタインもハッキリ憶えていなかった。


「これがミカエルがわたしに対して刻印を刻んだ証です」


 首筋からスカーフを外したカイがそう言った。


 現れた刻印にスタインは手を当てる。


「これが大天使の刻印?」


「ただミカエルがこういう手段に出てしまうと、サタンを警戒させて最悪の場合だと、わたしの誘拐を視野に入れる可能性もあったとか」


「しかし」


「はい。わたしは無事です。そこには二重の意味があります」


「二重の意味?」


「第一にその……わたしとミカエルがそういう関係にあった、ということです」


「そういう関係? 刻印を刻み刻まれた関係、という意味か?」


「いえ、その……身体の関係、と言いますか」


 赤い顔で言うカイにスタインは呆気に取られた。


「そなた……大天使と肉体関係を持っていたのか?」


「そういうことになりますね」


「ひとつだけ問う。それはそなたが同意してのことなのか? サタンから護るために事後承諾に近かったなどということはないのか?」


 こういうところ、やっぱり父親だなあとカイは思う。


 相手は大天使だと承知でカイの意思を確認してくるなんて。


 だから、言えないとカイは思う。


 事実を言ったらもうすぐ産まれてくる子が可哀想だ。


「一度や二度なら無理強いということもあったかもしれませんけど、ミカエルの言葉を借りるなら魔界の気に馴染んでいるわたしが、ミカエルの与える天界の気に馴染むためには少ない回数ではダメ。そう何度も身体を許していて無理強いなんてあり得ませんよ」


「しかし最近のそなたは、特に大天使がいた頃のそなたは、身体が自由にならなかったはずだ。それで同意の上だと言われても」


 納得できないというスタインにカイはどう言い訳しようか悩んだ。


 そこを指摘されるという考えを持たなかったので。


 うっかりしていたがスタインが聞いた説明では、カイとミカエルが肉体関係を持っていたのは、カイが麻痺に苦しんでいた頃と受け取れる。


 それで同意していたと言われても納得できないだろう。


「ミカエルは相手が嫌がっていたら手は出しませんよ?」


「しかし」


「相手は大天使です。相手の尊厳を汚すような真似はできません」


「あくまでも同意の上だと言うのだな?」


「はい」


 瞳を覗き込まれて言われ、カイは短く首肯した。


 スタインは深々とため息を吐き出す。


 信じたようには見えなかったが、息子の主張を頭から否定することもなかった。


 カイの気持ちを気遣ってくれたのだろう。


「それでもうひとつの理由とは?」


「畏れ多いとは思うんですが、現在わたしの護衛には神が、神様がついてくださっています。そのせいでサタンも手出しできないのです」


「神が? 冗談だろう? 神は人間のことには関知しないはずだ」


「ミカエルが不在の間だけの特例だそうです」


「大天使の不在? つまり大天使には天界から動けない理由がある?」


 首を傾げるスタインにカイは一度頷いてみせた。「その……これが今回父上に打ち明ける切っ掛けとなった出来事と言いますか」


「ウェイン?」


「ミカエルは今わたしの子を身籠っています」


 見事にスタインが固まった。


 カチンコチンに固まってじっと息子を凝視している。


「人間と天使の子ですから、成長過程も人間とは違います。それにわたしを狙っているサタンがその事実を知れば、ミカエルも産まれてくる子も無事には済まない確率の方が高い。だから、ミカエルは神によって天界に呼び戻されたのです」


「あー。なんだ。そなたのことだ。どうせ事実がわかってすぐに打ち明けたわけではないのだろう?」


 確認をとられてカイは申し訳なさそうに頷いた。


「産まれてくるまで後どのくらいあるのだ?」


「10日もありません」


 声が小さくなるカイだった。


 さすがにスタインが絶句する。


「後10日もしない間にわたしは祖父に?」


「すみません。もっと早く打ち明けなければ。そう思ってはいたのですが、サタンの問題とかありましたし、どうしても言えなくて」


「わたしの目を見なさい」


 厳しい声で言われてカイはおずおずと父を見上げた。


「それでもそなたは同意の上だと言うのだな?」


「……はい」


 震える声で、でも、しっかり頷いたカイをスタインが頭から抱き込んでくれた。


「父上?」


「もうなにも言うまい。そなたは優しい子だ。言ったところで真実は言わぬだろうからな」


 悟られている。


 そう噛み締めてカイは瞳を閉じる。


「それで? 大天使は現在どういう立場に立たされているのだ? そもそも人間とそういう関係になっていながら、まだ大天使なのか?」


「ミカエルが起こしていた行動は大天使としての責務でもありますから、幾ら神でもこの結果からミカエルを大天使の任からは解けないと聞いています」


「つまり大天使のままということか。だが、そなたの第一子を大天使が産むのなら、結婚してもらわなければ、わたしとしても困るのだが」


「結婚、ですか?」


 あのミカエルと結婚?


 さすがに想像ができなくてカイは唸る。


「そなたはローズ帝国の皇帝になる身だ。産まれたのがもし男の子なら、当然だがその子がそなたの後を継ぐ皇子ということになる。そなたが未婚のままでは困るだろう? そもそも大天使との間に子供を作ったそなたを相手に、結婚を申し込んでくる強者の姫もおらぬだろうし」


 つまりミカエルの立っている立場故に、カイは如何にローズ帝国の世継ぎとはいえ、結婚できなくなる可能性の方が高いということだ。


 その場合、ミカエルに責任をとってもらわなければ、皇帝としてスタインも困る、と。


 そんなことを言われてもカイも困るのだが。


「最悪の場合だと大天使の子であるそなたの御子には、縁談がない可能性も否定できない。だれだって大天使の血を引いているなら特別扱いするだろうから」


「そうですね。おまけにわたしは騎士王ですし?」


「そうだ。二重に頭が痛い」


 騎士王と大天使の子。


 産まれてくる子にはその名が付きまとう。


 どちらも人にとって重要。


 騎士王の子だというだけなら、縁談の心配までしなくて済んだ。


 伝説の騎士王の嫡子ならば、だれだって得たいと思うだろうから。


 だが、そこに大天使の子という付加価値が加わればどうなるか。


 だれにだって理解できるだろう。


「とにかくいつ頃大天使は戻ってくるのだ?」


「子供が産まれてミカエルの体調が元に戻れば戻ってくるそうです。その頃には子供は5歳くらいの外見になっているとか」


「後5年も戻ってこないのか?」


「いえ。そうではなくて一瞬で5年の成長過程を越えてしまうということです」


「……普通の人間なのか? 本当に?」


「半分は」


 つまりもう半分は天使だという意味になる。


 思わず深々とため息をつくスタインだった。

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