第16話

「トール。きみが……『紅の神子』?」


「あの狼にそう呼ばれて忠誠を誓われたのは確かだよ。でも、俺には自覚はないし、別にそうだって認めたわけでもないんだけど」


「認めてないって? それに瞳の色は?」


「わからないよ。真紅の瞳になったのは、狼に襲われたときだけだし、不思議な力だってそれ以来使ってないから」


 エドが黙り込む。


 そんな彼を見て透は苦い笑みで問いかけた。


「幻滅した?」


「幻滅もなにも神子が男だったという現実を一体どうやって受け入れたらいいのか」


「まあな。エドの場合、神子と恋人関係になれっていうのが大前提だもんな。無理もないか」


「アスベル。ちょっと冷たくないかい、その反応?」


「それ言うならマーリーンに言えよ。おれに神子の出現時間や場所まで指定してきた奴だぞ? わからないと思うか? 神子が男か女か」


「言われてみれば確かに」


「トールを神子だと断定して言うけどさ。マーリーンの奴、僅か10歳のエドにおまえは男と真剣な恋愛をしないと死ぬって言ったことになるんだぞ?」


「うわあ。そう考えるとエグい」


 思わず透が遠くを見る。


 エドは二の句が継げないようだった。


『エグいって。神子。酷いよ』


「なんだよ、今の声っ!? どこから聞こえたっ!?」


 透が慌てて周囲を見る。


 しかしアスベルもエドも慌てていなかった。


 中空を見据えて声を出す。


「どこから覗いてた、マーリーン? 神子の前に出てきていいのか?」


「そもそもそう言われる事態を招いたのはあなたでしょう。文句を言わないでください」


『しまった。覗くだけのつもりだったのに、神子があまりに酷いこと言うから声出しちゃったよ』


「マーリーン? ってあの? しかも神子って俺? 本気でっ!?」


 透がオロオロしている。


『もう開き直って口出しするけど、神子。いくらなんでも往生際が悪くない?』


「おまえにそんなことを言われる覚えはないよ、俺はっ!!」


 どこを向いて言えばいいのかわからないが、取り敢えず言い返しておく。


『うわあ。従者に向かってその言い方。酷い主人もいたものだよ』


「従者? 賢者って言われてるのに?」


『賢者と……名乗った覚えはないよ。ただ神子の出現まであまりに時が掛かりすぎて、ぼくが生きている時代が永くなりすぎたから、自然とそう呼ばれるようになっただけで』


「そうだったのか?」


「今までの時間を返してください、マーリーン様」


 ふたりが文句を口にする。


 マーリーンの笑い声が響いた。


 人間にはどう言われても堪えないようである。


『それからね。神子。あなたの名はトールで合ってるよ』


「違うってっ!! 透だよっ!!」


『それは引き取ってくれた義理の両親が名付けてくれた名前であって、神子の本名じゃない』


(引き取ってくれた義理の両親?)


 ふたりが同じ言葉を胸の中で呟く。


「それは確かにそうだけど」


 透の元々の名前がなんだったのか、本人ももう覚えていない。


 6歳のときに引き取られた時点で、両親が自分たちの子供として「名付けて」くれたからだ。


「透」という名を名乗るようになったのは、それ以後の話だった。


 それ以前にどんな名を名乗っていたのかは覚えていない。


『あなたにフィオリナ様が与えた名は「トール」』


「戦女神のフィオリナ?」


『さすがにお母上を呼び捨てにするのはどうかと思うけど』


「母上って……俺の、母さん? フィオリナが?」


 透が呆然としている。


 それは見守っていたふたりにしても同じだった。


「紅の神子」の出自は公にされていなかったから。


 戦女神の実子だった?


『「紅の神子」と呼ばれているのは、母上であられるフィオリナ様が「紅の女神」と呼ばれていたから。

 あなたは産まれたときにフィオリナ様に「トール」という名を与えられた。それが「紅の神子」の本名だよ』


「あの……夢の女性……」


 透と同じ顔立ちで戦装束を身に纏っていた女性。


 あれが……。


『そういえば夢で逢っていたよね、フィオリナ様に』


「じゃああの女性はやっぱり」


『フィオリナ様は泣いていただろう?』


「……うん」


『気高い戦女神が泣くなんて普通ならあり得ないよ。あれは遠くへ旅立たせたあなたが気掛かりで泣いていたんだ。あなたの身を気遣って』


「母……さん……」


 聞き取れないくらい小さな声で透が言う。


 ふたりはどうやら透と暁は血の繋がった兄弟ではなかったらしいと読み取った。


「フィオリナが俺の母さんだとして」


『母さんってトール様。せめて母上って呼んであげてよ。仮にも神子でしょ?』


「それはどうでもいいからっ!!」


 どうでもよくないんだけど、と、マーリーンが嘆く。


 確かに戦女神に向かって「母さん」はないかもしれないと、見守っているふたりも思う。


 まあ透らしいと言えばらしいが。


「俺の父さんはっ!?」


 答えないマーリーンに透が食い下がる。


「教えてくれよっ!! 俺の本当の父さんはだれなんだっ!?」


『……ごめんね。それは言えないんだ、トール様』


「なんでっ」


『フィオリナ様に口止めされてる。ぼくは言えない』


「そんなの黙ってたらわからないだろっ!?」


『そうじゃなくて現実に言えないのっ!!』


「どういう意味だよ?」


『例えぼくが教えようとして名前を言っても、その声は声にならない。唇も動かない。教えようとした段階で、ぼくは動きを制限される』


「それは……母さんが?」


 その問いかけに答えはなかった。


 苦い沈黙が広がる。


 透は気力が抜けて黙り込むしかない。


 父親の名を言えない?


 それは何故?


 問えない問いばかりが脳裏を巡る。


『トール様。今は早く覚醒めてほしい』


「覚醒めろ? 俺に?」


 自嘲的に呟く。


 父親の名前さえ教えてもらえない神子。


 それにどんな価値があって、どんな力があると?


『本当に覚醒めてもらわないと危険なんだよ。邪神の気配が強い。邪神はあなたの生命をきっと狙うから』


「俺が……生命を狙われてる?」


「邪神ってヴァルドのことか? 出現するとすべてを壊し尽くすとされている」


「邪神がどうして神子を狙うんですか、マーリーン様?」


『本当に……どうしてなんだろうね』


「おい」


 さすがに透もキレる。


 生命を狙われる理由が「どうしてなんだろうね」じゃ困るから。


『ヴァルドは狂ってる。狂ってるから際限なく神子を狙う。トール様は力を覚醒させなければ殺されるよ』


 断言されてもなにも言えない。


『ねえ、トール様。お願いだよ。心の底からぼくを望んで』


「え?」


『トール様が本当に真実ぼくを必要としてくれないと、どんなに危機的な状況でも、ぼくはトール様の傍には行けない』


「それも……母さんが?」


『子供を甘やかすとダメになるからって』


「戦女神がいきなり母さんになってる」


 透の感想も尤もだった。


 これは子供の自立を招く母親の気遣いだ。


 それに獅子は我が子を千尋の谷から突き落とすらしいが、戦女神も同じ子育て方針らしい。


 なんだか脱力してしまった。


『ちょっと。呆けてないでぼくを呼んでよ、トール様!!』


「いきなり呼べって言われても」


 取り敢えず来い、来いと心の中で招いてみる。


『あのねーっ!! 来い、来いって犬を呼んでるわけじゃないんだから!! もっと真剣にっ!!』


「いや。無理」


 透は笑いを堪えるのに忙しい。


『なに笑ってるの、トール様?』


「だっておまえ面白い奴!! 友達なら最高だろうな。逢ってみたいよ、俺も」


 そう言った瞬間、目の前に12、3歳くらいの少年が立っていた。


「「「え……」」」


「凄い。一瞬だよ? あれだけ動けなかったのに招かれちゃった」


「その話し方……マーリーン?」


「さすがの潜在能力だね。でも、呼び出されてよかったよ。これでぼくも動ける。トール様のために」


「そのトール様っていうのやめないか?」


「でも、ぼくは従者だし」


「いや。おまえみたいに小さいのに従者だって言われても」


「小さいは言わない約束でしょーっ!?」


「そんな約束いつしたんだよっ!?」


 終わりそうにない主従のやり取りに慌ててふたりが割って入った。


「そこまでにしろ、トール」


「マーリーン様も出てこられたのならお話があります」


 ふたりが黙り込む。


 やがてマーリーンは宙に浮かんでみせた。


 どうやらそこに居座るようである。


 便利だなあと透は感心してしまった。


 椅子いらず、と。


「ぼくも色々と忙しいから手短にね」


「その言い訳もう通用しませんよ。あなたは出てこられたんですから」


 じっとりエドが睨む。


 マーリーンはその視線を真っ向から受け止めた。

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